2011年 2月

ある特定の者にしか見せることのない、人間の中に巣食う暗部とも言うべき側面を切っ先鋭く描いて秀逸な三浦大輔が、ニール・ラビュートの戯曲を得て、自作と通じる生々しい触感はそのままに人間心理の奥底へと分け入っていく。言葉の運び方、感情の放出の仕方などが非常に繊細で丁寧に描かれていくため、まるで身近な友人の身に起こった事の顛末を覗き見しているかのような、リアルで秘密めいた展開に思わず身を乗り出してしまう。覆い隠したものを露見させるというシンボリックな出来事が冒頭で引き起こされるのだが、その有様が終始舞台上に鎮座し睨みを効かせていく。

役者たちの演技表現が、実にリアルなのが特徴だ。舞台上で台詞を喋っているという嘘臭さは全く消し去られ、大仰なアクションもそこにはない。他人との距離感の取り方や、言葉と言葉との狭間に鋏み込まれた感情を、俳優陣が徹底して己の中で昇華させ表現しているのだ。そこでは戯曲の流れに沿って物語が展開しているのだという予定調和に縛られることなく、役者の生の感情が最優先されているため、その強力な磁力についつい気持ちが引っ張られていってしまう。狭い空間でもあるため、登場人物たちの息づかいが直に伝わり、その一挙手一投足から目が離せない。

向井理演じるアダムは、小太りで見たくれにも全く気を使わない大学生だが、バイト先の美術館で出会った美波演じるイブリンと付き合い出すことで、だんだんと垢抜けた男へと変身を遂げていく。そのアダムが、容姿が洗練されていくのと比例して行動面が非常にアグレッシブになっていくという、友人たちも目を見張る変貌を遂げるその様が面白い。一見、男版ピグマリオンの様な展開なのだが、その奥に仕掛けられたえぐいトラップが終盤に露見する。

この物語の真実を突き付けられた時、私の中を様々な思いが去来するのを、自ら自覚することになる。人間が創り上げるアートとは、一体何なのであろうか、と。劇作という創作物の中に、どこまでが日常でどこからがクリエイティブなのかという線引きの曖昧さを潜ませるという二重の入れ子細工の工夫を施しながら、その大いなる疑問に鋭くメスを入れていく。

また、愛ははっきりと形を持って見えるものなのかということについても考えさせられる。交わす言葉、重ねる身体、それ自体は既成事実なのだが、その表出した部分に見えているはずの愛というものは、実は真実ではないのかもしれないと言うリアル。

そして、ルックスというものが、自分に、また、人に与える影響は多大なものがあるということ。実は人間は、その見た目に合った役割を自らが見つけ、そして、その役を演じているのではないかという深層心理の奥底が垣間見えてくる。

本作は人間のレーゾンデートールへと筆致が深まり、アダムが受けた体験を通して、人間本来の在り方とは一体何なのか、という大きな問いを観客に叩き突けてくる。「ザ・シェイプ・オブ・シングス」、そこにあるはずの“モノノカタチ”を決して安易に受け入れることなく疑ってみることで、人間は別視点を獲得し、そこにある“真実”を炙り出していく。そのことこそが人間の真実に迫るアプローチだと言わんばかりに、観客に過激にアジテートしてくるのだ。グラグラと自らの価値観が揺らぎ出す。

向井理が初舞台ながらもアダムという人物を丁寧に造形しながら、旬のオーラを振り撒いていく。また、彼を見つめる女性観客たちのとろけるような眼差しが、会場内に生々しい雰囲気を創り出していく。美波はイブリンという独特な存在の在り方を、リアルで繊細に紡ぎ上げていく。ともすると悪役にも成り得る役どころなのだが、信念を持って行動を起こしているという一切の迷いのなさが潔く、イブリンという存在を周囲に認めさせてしまう強烈な存在感を示していく。また、米村亮太郎の身体を通すことでフィリップという役柄は日本の等身大の若者の姿として提示され、川村ゆきえ演じるジョニーも日本の何処にでも居そうなある種の普遍的な女性像として造形されているため、翻訳劇の違和感は消し去られていく。

登場人物たちを皆、現在のどんな生活空間の中に居ても不思議ではないような存在として描き出した、三浦大輔の演出力が独特で秀逸である。そして、その要望に応えた役者たちが表現するリアル感が、演劇的な華蓮味とは地平を異にするオリジナリティーある表現を獲得している。その現実的な表現があるからこそ、この戯曲に描き込まれた人間心理のひだの表裏が、説得力を持って表現できたのだと思う。

ラスト、アダムの落胆した慟哭が耳に残るが、人間は変化出来るパワーを持った生き物だという側面も炙り出す。そして、衝撃的な物語は、再生の余韻を残しつつ幕を閉じるのだが、劇場を出た後も、未だ引き摺っている何かがあるのだ。そのしこりこそが、生のエンタテイメントならではの、醍醐味であると思う。何も残らないのでは味気ない。確実に作品のメッセージは、観客に到達し得たと思う。

「サド侯爵夫人」は傑作戯曲としての揺らぎない地位を確立した三島由紀夫の名作だが、戯曲という域に留まることなく、「サド侯爵夫人」という一つのジャンルを確立した作品なのだということに改めて気付かされることになる。華美な衣装をまとい、豪奢なレトリックを駆使して、18世紀ブルボン王朝末期のパリの貴婦人たちが描かれていくのだが、外国人を日本人が演じるという嘘を逆手に取り、仕組まれた表層的な装いの中に潜む毒を吐き出させていくのだ。本作はそれを男優が演じることで、より一層、演じているのだという虚構の構造が、くっきりと見え易く提示されることになる。翻訳劇とは明らかに意を異にする意図が、そこにはある。

それにしてもこの装飾的な言葉の数々と、尋常でない膨大な台詞量は、人間の記憶力の限界を超えているのではないかと思わせる位、生身の人間が演じるという配慮のない、演じる者にとっては容赦ない苛烈な戯曲である。台詞を一旦身体の中に入れた上で言葉を吐かないと嘘が嘘の域で留まってしまうのは芝居の常であるが、本戯曲はその範疇においても成立するように書かれているため、役者にはそれを超える更なるハードルが架せられるという過酷さがエンドレスに繋がっていく。

頑強な台詞に拮抗するためか、演出は、語りの其処此処に、鼓の音をアクセントとして挟み込んでいく。この和のアプローチは興味深く、ある種のリズムは生まれるのだが、少々、多用し過ぎではないかと思った。

役者は実力派が居並んだ。平幹二朗の圧倒的な存在感は作品の大きな支柱となっている。あらゆる声質や詠唱法を駆使し、三島が創り上げた世界とガッツリと対峙しながらも、しっかりとその世界を我が手中に納めてしまう才能には舌を巻く。木場勝己のアプローチもまた見事だ。変に女性を演じるということに寄り過ぎることなく、女性の中の男性性とも言うべき部分を全面に押し出し、独自の女性像を造り出す。東山紀之は主役のオーラを放ち、観客の視線を釘付けにする。しかし、大ベテランを前にすると、台詞廻しの多彩さ、巧みさなどにおいて大きく乖離していることが露見する。しかし、滔々と美しい言葉を謳い上げる話術で観客を魅了し、その落差を埋めていく。生田斗真は行動力ある奔放な女性像を造り上げるが、ピュアな感性の奥に秘められた女の行動の起因となる核が見えずらい。大石継太は気品ある夫人の役柄であるが、カン高い声のトーンや急いた感じの台詞の被せ方などが、どうしてもコメディリリーフ的な傾向に流れがちになっていると思う。岡田正は、主人と元主人への忠誠の尽くし方のその本心が、透けて見えてこない。しかし、本作は、平幹二朗と木場勝己に牽引され、濃密で緊張感ある室内劇にまとまったと思う。

「わが友、ヒットラー」は、男4人の芝居だが、「サド侯爵夫人」と三島が対だと捉えていたように、陰陽、男女を逆さ合わせにしたような共通性を孕んでいる。レーム事件に材を取った本作は、その事件に至るまでの経緯を、レームとヒットラー、武器商人クルップ、左派シュトラッサーに焦点を絞り、密室の中で起こった出来事を綴っていく。

本作は「サド侯爵夫人」の鼓のような効果音などは一切挟まず、台詞のみで直球勝負を掛けてくる。文体も比較的現代劇に近く、男が男を演じるというノーマルな設定なため、グロテスクな怪異さとはまた違ったパワーを付加させなければならないという課題を抱えることになる。

本作の演出的ポイントは、レームとヒットラーを中心に描かれる、ホモソーシャル的な世界観だ。レームとヒットラーは頻繁に抱擁を重ね、膝枕までし合う仲として描かれる。政治的な駆け引きという視点からではなく、レームを慕い、尊敬するが故に、そういう存在にはなることが出来ないことの鬱陶しさが「裏切り」という決断をヒットラーに起こさせる、その愛憎が合いまみえる様を克明に描き出していく。

ここに、「サド侯爵夫人」との共通性が浮かび上がってくる。それは、他人を欲しているのに、決して受け入れることのないという「孤独」を、サド侯爵夫人もヒットラーも抱えて生きているということだ。もちろん、この「孤独」は、三島の心情が反映されたものに他ならない。

ヒットラー演じる生田斗真は、その逡巡する感情を迷いなく直情的に演じ、物語の中心に立ち続ける。それに対するレーム演じる東山紀之は、ゲルマンの優位性を兼ね備えた完璧な男と思われている様に自身が重ね合うかのようでもあり、最後までヒットラーを疑うことなく滅んでいく姿にデカダンな優雅ささえ感じさせる。また、ここでも、平幹二朗のしたたかな商人振りと、木場勝己の崩壊を予感し得る者の怯えと弱さが際立ち、各人が絶妙のアンサンブルで、見事にバランス良くカルテットを奏でていく。

「政治は中道をいかなければならない」というヒットラーの言葉で本作は締め括られるが、自らを中道と言わせしめるアイロニーが、後に続く惨劇の予感にも思えてくる。そして、その言葉を吐き出した直後の生田斗真は、今だ、困惑に渦中にいるようにも見えた。政治の歩を進めることには成功したが、本当に望むものは手に入れることが出来ないというある種の諦めが、彼を永遠に苦しめているようにも思えてくる。

両作共、サド侯爵夫人とヒットラーが立ち尽くすというエンディングであるが、その背後からは装置が剥ぎ取られ何も無い素舞台の中に、人物は置き去りにされたかのような状態となる。そこに提示されるのは、底無し沼の様な「孤独」。どこをどう斬っても、この三島作品から流れ出てくるものは、三島の「孤独」そのものでしか有り得ない。蜷川演出は、その「孤独」を掬い出し、現代の観客の意識にブリッジを掛けていく。いくつもの思いが交差する、室内劇の逸品に仕上がったと思う。

思いがけず真実を突き付けられた時、人は、一瞬、どう対応してよいのか、たじろいでしまうことがあるが、本作に対する観客は、まさにそのような驚異に直面することになる。非日常の感覚が呼び起こされるようなアジテーションの洗礼を浴びる内に、身も心もドップリと劇世界に巻き込まれていくことになる。

傑作であると思う。何故か? 感動してしまったからだ。しかし、心が揺り動かされたその理由は、観ている間は完全にアタマで理解していた訳ではないようなのだ。左脳をスルーし、右脳にダイレクトに直撃するそのパワーにあがなうことが出来ず、ただ体感することでしか舞台と拮抗することができない状態に陥っていくのだ。そういった観客の心理をコントロールしていくインパクトある表現は、整然と論理で論破するという巧みに考察された構成によって、観客の脳髄に確実にリーチする。そのアプローチが実にスリリングで、快くさえある。

舞台となる富士山ならぬ無事山の観測所に赴任した正体不明の男のり平、火口に飛び込もうとしていた虚言癖のある女あまねを中心に物語は展開していく。無事山の噴火が近いという噂が流れることでマスコミの連中が集まり、面白いニュースネタを探し始める。そこでは、目の前にある危機よりも大儀を優先する意識や、事実を曲解して伝える報道、熱し易く冷めやすい国民性などが炙り出されていく。そして、物語は、大噴火のあった300年前や、第二次世界大戦後の時期をシンクロさせ、日本という国の本質をパースペクティブに捉えながら、切り裂いて開陳していく。

野田秀樹は、日本が戦後の戦争責任に、きっちりと立ち向かわなかったことに言及する。それまで神格化されていた天皇が象徴へと変貌し、戦後、神の不在の状態が続くことで、日本人が本来持っていたであろう本質が、そこから失われていったという事実を突き付ける。そして、天皇が、それまで国家運営のために、いかに利用されてきたかという在り様を示していく。また、時空間をさらに遡り、日本国が天皇という存在をどのように祀り上げていったのか、その根源にまで肉迫していく。野田は、「日本は天皇を利用して、天皇詐欺を働いてきた歴史がある」と筆致し、自らが台詞としてその言葉を吐いていく。

物語は、日本人が大陸から渡ってきた原初の頃にまで、フォーカスが当てられていく。「南へ」と、日本に下ってきた者は、一体どういう人々で、その後、どのような生き方をしてきたのか? 蒼井優演じるあまねが、白頭山が故郷なのだと語る。妻夫木聡演じるのり平は、名前も何処から来たかをも喪失した日本人。「おーい、日本人。俺は一体誰なんだ」と観客に向かって雄叫びを上げ、今を生きる日本人のアイデンティティーに強く揺さ振りを掛ける。グラグラと五感が覚醒させられ、身体の奥底に眠っていたDNAが呼び覚まされていく気がする。

この、のり平の正体は最後まで謎のままなのだが、ラスト、兵隊帽を被ってこの場を去る姿を見て、英霊なのではないかというアクセントを付加させる。世を憂う哀しみがジワジワと襲ってくる。妻夫木聡はこの複雑な役どころを明晰な演技で清々しく表現し、共感すら誘っていく。蒼井優もまた威勢の良い啖呵が似合うあまねの強さと、そして、儚さとを融合させ美しく輝いている。渡辺いっけいが平和ボケした日本人をシンボリックに演じ、チョウソンハは正論は通るのだという妄信に取り付かれた若者像を体現していく。

スタッフワークも素晴らしく、目で見て、耳で聞いて、美しい舞台に仕上がっている。野田演出も、20名以上の人物を駆使して、ある時は群がるマスコミ、また、ある時は農村に住む住民であったりと、社会的なバックボーンをきっちりと構築し表現していくため、絵空事にさらなるリアルさが加わり、作品が重層的に深さを持ち得ることになる。また、スピーディーな展開が、この複雑な話に勢いを盛り込み、飽きさせることなく物語を紡いでいく。

野田秀樹は相変わらず、挑戦的に観客に発破を仕掛けてきた。語り口は他に類するものがない独特のスタイルで、発せられるメッセージはヒリヒリと刺激的で、日本が潜在的に抱えるタブーを威勢良く引っ剥がし露見させていく。現状維持を標榜する輩に、鉄槌を喰らわせるような苛烈なパンチを浴びさせていく。今、この日本において、一体何を信じて生きていくべきなのかについてひしと考えさせられ、そのことが呪縛となって頭からこびりついて離れない。衝撃度から言っても、正直、抜きん出た逸品であると思う。

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