2007年 7月

三谷幸喜作の「笑の大学」が、見事に英国のスタッフ・キャストによって、「ラスト・ラフ」として甦った。初演当時より秘かに、この戯曲、それこそロンドンやニューヨークに持って行っても十分通用するのではと思っていたのだが、そんな思いがまさか実現するとは想像もしていなかった。

しかし、こうして、英国人によって脚色された本作を観ると、この作品がいかに普遍的なことを描いているのだと痛感させられた。4月に公演された「コンフィデンス」もそうであったが、三谷戯曲は、日本とか海外とかいう概念を超えたところにあるスピリットを掬い上げるのが卓越しているのだと思う。時代性を感じさせる風俗的な記号は、物語の主軸の中には決して侵入しては来ない。芝居に関しては、イギリスでは検閲は無かったようではあるが、戦争や芝居や情といったものは、地域や時代を特に限定するものではない。特に、情の部分だが、親愛・親子愛・夫婦愛・信頼・尊敬・哀れみ等、そういった感情に一喜一憂するのは、まさに世界共通なのだ。そして、その誰もが共有出来る感情が丁寧に描かれているので、思わず引き込まれていってしまうのだ。

若干の相違はあるものの、大体はオリジナルに近い物語展開をしていく。まず、驚嘆したのが、美術セットだ。床のフローリングの木目の模様、ドアのデザインとドアノブのリアルさ、ドアの開いた廊下の壁やそこに置かれた椅子、電源のスイッチ、使い込まれた椅子、錆びたゴミ箱、大きな窓とガラスに貼り付いた汚れ、そして、丸く婉曲したドーム型の天井等々。セットという概念も、事実をリアルに積み重ねていくイギリス流は健在だ。また、演出過多にならないナチュラルな照明も、この物語にピッタリと合っている。

マーティン・フリーマンとロジャー・ロイド・バックの人物造型は、台詞のひとつひとつを検証し紡いでいきながら、大きなひとつの感情や行動に繋げていくといったリアルな方法で、観客に対し明確に意思を訴求していく。観ていてどういう気持ちなのかが分からないということがないのだ。曖昧さを排除した表現は、観る者の創造力を喚起させないとも思えるが、実際は逆で、そう言う、そう行動する、といった言動の背景や根拠となるその人物の内面にフォーカスが当るといった具合なのだ。物語が拡散せず、深く沁み込んでいく。

物語は進み、ラストへと近付いていく。途中、検閲する芝居をふたりが演じる姿が可笑しく会場からも笑いが起こる。しかし、検閲官と作家の間に芽生える、情、というものが、ことさら日本版よりも強調されていない気がした。あくまでも、それぞれの立場で考え、モノを言う関係性が成立しており、非常にクールなのだ。そこで、検閲官の息子が戦死したという日本版にはないエピソードが、ジワジワと効いてくる。微かにだが、検閲官は、出征するこの作家に、少しだけ息子の姿を投影したようなのだ。しかし、ことさら、その感情を強調する演出もしないし、他人を決して自分とは同化させない。野田秀樹の「THE BEE」の日英版の違いでも見られるように、自分に中に、他者は存在しないのだ。あくまでも、他者は、外にあるのだ。完全に自立しきったドライな関係性の上に、情が成り立っているというリアルが、また、物語の本質を曇らせずに、鮮明に浮かび上がらせていく。

いい芝居を観たと思える出来であった。戯曲の奇異さや、演出の外連とはかけ離れた作品ではあるのだが、不必要なものが一切ない、潔い作品であった。迷うと、ついつい装飾したくなるんですよね。シンプル・イズ・ベスト。これに尽きますね。

日本バージョンが、目まぐるしく場や役柄をクルクルと変換させ、ダンボールや映像を駆使した多面的な表現アプローチが出来たのは、この、ロンドンバージョンがあったからであることが、よく理解出来た。

リアル、なのである。役者の一挙手一投足には、全て根拠があるのである。どんな行動でも、その動きをとるにあたっての感情の起因があり、また、動きながらにだんだんと変化していく情感の起伏も、ピンセットで気持ちのひだをつまむがごとく、役者たちは繊細に感情を積み重ねて表現していく。

日本バージョンが、野田芝居特有のスピード感と視覚的な面白さでグイグイと見せていけたのは、ロンドンバージョンでの、こうした登場人物たちの感情の根幹部分がベースにあったからこそ、いろいろな表現手段を付加することが出来たのであろう。また、演出家として、全く違うアプローチをした、野田秀樹の才能のひきだしの多さにも驚嘆した。

タイトルにもなっている「THE BEE」=「蜂」の扱い方の相違が、両作を捉える上での一番のポイントであろうか。ロンドンバージョンは、蜂の具体的な姿は全く登場しない。ブーンという音は役者が声で奏でるが、飛んでいるであろう蜂を目で追い、テーブルの上にコップで覆い被せてしまう。日本バージョンでは、幾重にも重なった巨大な蜂のシルエットが背景に映し出され、主人公の身体を内側から蝕んでいくような抽象的なアプローチであった。

また、蜂を仕留めた後、ハチャトリアンの「剣の舞」に日本語の歌詞を被せた曲が大音量で流れるのだが、この音にのせて踊る日英の役者の演技方法も全く表現を異にする。

キャサリン・ハンターが演じるのは、勝利の雄たけびだ。こぶしを挙げ、目をカッと見開き観客を鼓舞するように、ゆるやかだがドッシリとした風格で舞い踊る。また、野田秀樹は全く違うアプローチにて、四肢を振り回し飛び跳ねながら、狂ったように乱舞していくのだ。ロンドンバージョンでは蜂は異物の象徴であり、だからそれを封印することで迷いなき行動がとれるのであろうか。日本バージョンはアタマの中に住み着いたやはり異物なのであるが、もはや自分の意思ですら確認出来ないような混沌とした状態で、判断や解決する冷静さを大きく欠いている。

異物が、「外」にあるか、「内」にあるかという解釈の違い。全く、逆のテーゼを野田秀樹は提出していたのだ。同じ作品での、真逆のコンセプト。両作を観ることで、初めてその罠に気付かせるという仕掛け。ライブならではの醍醐味である。

ラスト。日本バージョンは、まるでこれまで起こっていたことは、既に通り過ぎた伝説であったかのように、何もかもが全てはゴミとなりただ堆く積まれているだけであった。ロンドンバージョンは、リアルに皆、死を迎え、息絶える。リアルの積み重ねと、妄想と感情が境界なく融合した状態。他者は「外」にいるか、「内」にいるか。同じ台本から、全く異なる解釈を導き出した野田秀樹の才能の感服である。また、視覚的表現のめくるめく多彩な手法にも脱帽である。ギュっと才能が詰め込まれた珠玉の作品群であった。

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