2012年 9月

エンディング。ドロシーが靴の踵を3回鳴らし、オズの国から故郷へと一気に舞い戻り、家族と再会する光景を観て、感動が脳を経由せず、瞬間的に涙腺が緩み涙している自分に驚いた。理屈ではなく、五感がやられる面白さ。観客が喜ぶエンタテイメント創りに徹するプロが集結し、それを束ねる宮本亜門の手綱さばきも絶好調に、2012年日本版「ウィズ」は、子どもから大人までが楽しめる快作に仕上がった。

70年代の「ウィズ」の初演当時、黒人による黒人のためのミュージカルを創り上演するということは、かなりのセンセーショナルな出来事であったに違いない。ライマン・フランク・ボームの「オズの魔法使い」に黒人たちのスピリットを重ね合わせ、「自分たちの手で未来を変える」と謳い上げたその意気が、作品にグッと凝縮されている。しかし、決して苦難の歴史を語るということではなく、まるで礼拝時のゴスペルの様に、皆がそれぞれの思いを高らかに歌い上げ爆発させるという、パワー全開のエンタテイメントとして仕立て上げられているのだ。

2012年、日本は様々な問題を孕んだ時代を迎えている。そうした悶々とした空気感を抱え込む時代に風穴を開けようという意気と、本作「ウィズ」のスピリットがピタリと符号し、観る者の心にストンと腑に落ちていく。今、本作を上演する意義が、ヒシヒシと感じられるのだ。

2012年の日本で本作を上演するにあたり、宮本亜門が仕組んだ戦略は、異能の人々の抜擢にあった。ミュージカルの肝である音楽は、Nao’ymtの才によって、数々の名曲が現代にピッタリと呼応する楽曲として甦った。森雪乃丞の訳詞も心地良い。

ヴィジュアル面を監修するのは、増田セバスチャン。“kawaii”カルチャーの第一人者として、きゃりーぱみゅぱみゅのライブツアーの美術や演出などを手掛けてきた旬な御仁だ。舞台は、華やかな色彩に、可愛いらしい気ぐるみ、オリジナリティある造形物などが賑々しく揃い異彩を放つ。しかし、創り手の立ち位置目線というか、造形物のスケール感が、やや、スモールになってしまっている感が否めないシーンがあったと思う。デカイ舞台が埋めきれない空間が、時折存在していたと感じた。

衣装の岩谷俊和はDORESS33を率いる旬のデザイナーであるが、それぞれの役柄にマッチしたコスチューム造形が施されたクリエーションが、見事に「ウィズ」の世界と呼応し、現代に通じるセンスで作品にファンタジーとリアリティーを付加している。

演技陣もまた、スター性に満ち溢れた個性満開の俳優陣が居並び、自身の才能を直球で投掛けて来るパワーが圧巻だ。オーディションを勝ち抜いたAKB48の増田有華の歌唱力とキレのいいダンスには目を見張るものがある。今後、ミュージカル畑でも活躍出来る程の才能に満ち溢れていると思う。ISSAがかかしを演じているが、さすが華のある存在感で作品をグイグイと牽引していく。ブリキ男は良知真次が演じるが、心を持たないブリキ男の心情を説得力を持って演じていく。エハラマサヒロは伸びやかな歌唱力を武器にコミカルな側面も押し出しながら、ライオンを楽しく演じている。

森公美子の存在感が圧倒的だ。登場するだけで、その場を森公美子ワールドに一変させてしまうようなオーラが全開で、しかも楽しい。小柳ゆきの清廉さ、瀬戸カトリーヌのパキパキとした愛らしさ、ジョンテ・モーニングのダンス! 吉田メタルの狡猾さ、陣内孝則の貫禄と悲哀などが絶妙にブレンドされ、濃厚な味わいが融合していく。

宮本亜門は、スタッフやキャストを決して固定させることなく、作品ごとにピッタリと合った人材を起用するプロデュース能力に長けた演出家である。そのため、絶えず、観客にどう楽しんで観てもらえるのかという意識を持って、常に革新的に様々なコラボレーションを継続し続けている、その想いが、本作では見事開花したといえるのではないか。変に教条的に陥ることなく、子どもから大人までもが楽しめるエンタテイメントとして秀逸な出来映えであると思う。

これ程までアナーキーな演劇が、昨今、あったであろうか。蜷川幸雄と橋本治、そして、鈴木慶一のコラボレーションは、持ち得る限りの才能とパッションを作品に叩き込み、既成概念を覆す弩級のインパクトとオリジナリティー奪取した。

橋本治が36年前に一晩で書き上げたと言われている本作は、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」をミュージカルに仕立て直しているのだが、“本家”の基本をしっかりと押さえた上で換骨奪胎されているため、“こう来たか!”とワクワクするような、双方の相違の妙がじっくりと楽しめる面白さに満ちている。また、一気呵成に書かれた“勢い”が登場人物たちにも反映されており、皆が悩みながらも迷いなく突っ走っていくスピード感が、作品に若々しいフレッシュさを与えている。

作り込まれたというよりも、才気が弾けたようなこの脚本だからこそ、成し得ていることがある。様々なガジェットが集積する世界だからこそ、ところどころにいい意味での“隙間”が生まれてくるのだ。そのエアポケットに、蜷川幸雄が作品をグッと押し広げる外連味をこれでもかとブチ込み、その中で旬の役者が熱い演技バトルを繰り広げるという幾重にも重なる仕掛けが施されている様相は、まさにパンキッシュだ。このテキスト自体が、自由な発想を収焉させる、仕掛けそのものになっていると言える。

時代の設定からしてふざけている。“昭和51年にして文政8年、さらに元禄14年であり、しかも南北朝時代。ところは東京都江戸市内”ときている。昭和51年に本戯曲は書かれ、文政8年に「東海道四谷怪談」は初演された。元禄14年は江戸城で松の廊下事件が起きた年で、「東海道四谷怪談」が「仮名手本忠臣蔵」の外伝として書かれたことを冒頭で示唆したか。南北朝時代とは駄洒落なのか、はたまた権力が1つに集約されない価値観の多様化する時代の暗喩なのか。想いは入り乱れて、平成24年に本作は甦ることになった。

出演者全員が和装で揃い、パッと扮装を脱ぎ捨てると現代の出で立ちへとワープするオープニングが、冒頭に記された時代設定を見事に体現していく。そこからは、70年代風な香り残しつつ、どの年代とも特定しない風俗で作品は彩られていく。そして、キャスティングの肝は、お岩の尾上松也にあった。熱に浮かされたように自分探しに奔走する蒙昧な輩の中にあって、歌舞伎の技法で織り成されるお岩の造形が、本作が「四谷怪談」であることをしっかりと支え、作品に普遍性を与えていく。

佐藤隆太演じる伊右衛門は、実力と華を持つ豪華なキャスト陣の中心に立ち、作品を牽引する。お岩が死に、その亡霊に悩ませる日々が続くが、亡霊の正体が暴かれた時、一気に自我を打ち破る瞬間の長大な吐露を繰り広げるシーンは圧巻だ。“何もない空間”で自問自答を繰り返しながら、明るく虚無を嘲笑する意気に、それまで作品が悶々と抱えていた鬱屈が一気に爆発する。

そこからはエンディングに向けて一気呵成に雪崩れ込んでいく。出演者総出で「ぼくらはみんな死んでいる」時代を祝祭するかのように、軍艦マーチにのって歌い、踊り、オリジナル楽曲「ロック版四谷怪談」で怪気炎を上げる。そして、まるで紅白歌合戦の最後のように、観客に向けて銀の帯が爆発し投げ掛けられる。まさに、ザッツ・エンタテイメント!である。

役者陣はその誰もが、自らの中にあるブッ飛んだ手の内を開陳しながら、奇妙奇天烈な作品世界とスパークする。小出恵介のクールとダサさの共存、勝地涼の小心者の小悪人振り、栗山千明の小股の切れ上がった女っ振り、三浦涼介の清濁合わせ持つ二面性、谷村美月のピュアな愚鈍さなど、それぞれのキャラがクッキリと際立ち、楽しませてもらった。

麻美れいがこんなにも砕けた面白さを発揮するとは意外なサプライズであり、勝村政信は絶えず作品にコミカルな要素を付加し続けるため目が離せない。瑳川哲朗は柔軟に様々な役柄をこなしながら可笑し味を振り撒いていく。

鈴木慶一の音楽も絶品だ。あらゆる技法を駆使し、はちゃめちゃな詞に詩情を与えていく。どの楽曲も素晴らしいが、権兵衛とお袖がラップする食事のシーンは大いに笑った。また、もちろん氏の作品ではないのだが、ワルキューレの騎行の曲にのせて、第二のお岩がオリジナルの詞を高らかに歌うシーンは、可笑しさを通り越して、愕然としながらも、大笑いしてしまった。

勝芝次朗の照明も素晴らしい。夢の中を表現する明かりは確実に異次元を表現し得ていたと思う。中越司の美術も、前田文子の衣装も、時代性を軽々と凌駕し、普遍性を獲得していた。

エンタテイメント精神が溢れる傑出した逸品であると思う。こんな馬鹿げたお祭り騒ぎのような作品には滅多にお目に掛かれることはないだろう。この作品に出会えた人は、ラッキーであったとしか言いようがない。

野田秀樹は、またもや歴史を遡る。脳内でイメージを紡ぎ、言霊を転回させていきながら時空を跋扈する展開はまさに野田秀樹ワールドだが、本作は、まるで時代の薄いベールを1枚1枚剥ぎ取っていくかのごとく、歴史の奥底に蠢く真実へと肉迫していく。

2012年の新作として、野田秀樹が盛り込んだスペックは、オリンピックと新劇場の杮落とし。オリンピック・イヤーであることと、自らが芸術監督と務める東京芸術劇場のリニューアルとが融合する。そして、劇場に遺された寺山修司の未完の戯曲を読み進めながら、その中に書かれた歴史の真実を辿っていくというスタイルで物語は展開していく。ナビゲーターである戯曲は、大衆の欲望を操作する支配者階級の思惑を遡り、その蛮行を暴いていくという、まるで推理小説を捲っていくかのようなスリリングな様相を示していく。

語られる物語の中軸に立つのは、タイトルにもなっている「エッグ」である。「エッグ」とは卵を使う架空のスポーツであり、その競技がオリンピックに正式採用されるかどうかという時代設定が成されている。観る者は、当然、リアルな現代を思い浮かべる訳なのだが、だんだんと東京で行われるオリンピックの時代であるということが分かってくる。読み進めていく内に、ハタと気付かされる出来事に遭遇する小説の醍醐味を、野田秀樹演じる劇場の芸術監督が、寺山修司の架空の戯曲から掴み出していく。

では、1963年のオリンピックであろうと、そういう視点で物語を解釈していくと、またもや、矛盾点が浮かび上がってくる。そして、1940年に東京で開催されるはずであった時代こそ、この物語の舞台であることが露見してくるのだ。日中戦争等の影響から政府が開催返上した幻のオリンピック。何やら、キナ臭い香りが漂ってくる。

大衆の欲望を吸い上げる装置として機能するのは、スポーツだけではない。音楽もまた、扇情的に人間の心を煽るために働くことを明らかにさせていく。そして、世を司る立場の者たちは、真実を覆う手段として、“祭り”を、大衆に送り出し続けていく。そして、その先には“戦争”というビジネスが待っている。

音楽を担当するのは椎名林檎だ。野田作品で、オリジナル音楽がこれ程フューチャーされたことは、此れまで無かったのではないか。椎名林檎の楽曲を得て、飛び交う台詞の奥に潜む人間の哀しみや憂いがグッと引き出され、野田の才気にふくよかな温かみを付け加えていく。また、繊細な構造物のようなひびのこづえの衣装や、さまざまな仕掛けが施されたおもちゃ箱のような美術を形作る堀尾幸男の才能が、作品をリアルさから解き放ち、普遍性を獲得させていく。

演じる役者陣は脂の乗り切った旬の逸材が集い、作品に魂を吹き込んでいく。妻夫木聡の快活さ、そして、心の奥底に秘めた哀しみと諦めにも似た希望が、観客の心とシンクロする。居並ぶ名優たちが繰り出すパッショネイトなアプローチを一気に引き受け、スクッと物語の中心に立ち続ける。深津絵里は、支配者階級の思惑から決して逸脱することが出来ない、持つ者の立場の逡巡する想いを、歌姫振りも堂々に謳い上げていく。

仲村トオルは、屈強な体躯を活かしたスポーツマン役だが、どんでん返しのキーマンともなり、作品世界を側面から支え、物語に安定感を与えていく。秋山菜津子の嬉々とした弾け振りも心地良く、橋爪功の狡猾さと共に、リアルさをエンタテイメントに塗り替えていく。大倉孝二の存在は、常に、穏やかな空気感を振り撒き独特の笑いに包まれる。藤井隆は、コメディーリリーフと正統さの間に居て、役柄にふくよかな人間性を与えていく。野田秀樹の役者振りは、もはや、名人の芸を堪能するかのごとく、至宝の域に辿り着いていると思う。

大衆が戦争の軍靴に駆逐された時、その裏で一体何が起こっていたのかという、その一端を、本作はストレートに提示していく。しかし、あまりにも直球なため、少したじろいでしまう自分が居た。忘れてはならない歴史の真実を伝えていくのは、“書く者”にとっての義務なのかもしれない。大衆の欲望が上手く利用され、戦争へと転向していく様を見て、“祭り”の裏にある本心を見抜く力を民衆は蓄えておかなければならないのだという思いを強く抱いた。今でも、この構図は、きっと変わりなく機能しているのであろう。野田秀樹が鳴らした警鐘は、鋭い刃となって心の奥底に仕舞い込まれた。衝撃作であった。

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