さいたまネクスト・シアターの若い俳優陣の中に潜む熱いパッションが、観客に叩き付けられるが如く噴出する。演じるというよりも、まるで己のこれまでの生き様を慟哭と共に吐き出していく、そんなヒリヒリとした緊張感が劇場内に充満していく。観客は役者と真摯に対峙せざるを得ない状況に追い詰められていく。
20余人のコロスが登場するのだが、物語の要所において、皆、手にした三味線を高らかに爪弾いていく。この強烈な音の圧力が群集の迷える魂の叫びとリンクし、購い、そして殉じていく王者の悲劇を伝承する己の哀しみを昇華させる装置として有効に機能する。
「トロイアの女たち」で3ヵ国の女性たちに自国語で台詞を語らせ、「祈りと怪物」では言霊をラップに乗せる表現でコロスを描いてきた蜷川が、今回は三味線を活かしきることで、ギリシア悲劇の中から時代を超える普遍的な真実を抉り取っていく。現代日本に、ギリシアの哀しみが確実にブリッジされていく。
本作の脚本はホーフマンスタール編を使用しているが、この選択が観客に物語を分かり易く伝えるために、大いに貢献する。煌びやかなレトリックは抑えられ、登場人物たちの感情がストレートに伝わってくるため、言葉が聞き取り易く耳にも心地良い。この直情さが、さいたまネクスト・シアターの若者の意気とシンクロし、パッションの放出が更に倍化する。
オイディプスとクレオンはダブルキャストで、公演回によって入れ替わって演じられていく。この回のオイディプスは小久保寿人で、クレオンは川口覚であった。
小久保は若き王の貫禄を感じさせながらも、真実に近付いていくに従い心に徐々に陰を落としていく、その変化を大胆かつ繊細に演じて迫力がある。川口覚は2番手の立場に居る者の品格と客観性を保ちつつ、オイディプスに嫌疑を掛けられ今ある地位を揺り動かされることにより、己の感情を冷静に白熱させる様が腑に落ちる。イオカステは土井睦月子が演じるが、真実を眼前に突き付けられたことで瓦解する王妃の気品を、豊かな情感を持って演じきる。
王家の悲劇を観客に伝承するコロスは、まるで我が事のように哀しみ、嘲り、苦しみ、憂うることで、事の顛末を相対化させる役回りを持ち得ることとなる。オイディプスの悲劇は、民衆の悲劇でもあることがくっきりと提示されていく。哀しみは連鎖していくのだ。
しかし、民衆たちは悲劇に捲き込まれ右往左往している存在としては描かれない。その時代の空気を吸いながらもそれぞれの意思を明確に発していくのだ。一人ひとりの生き様が透かし見えてくるリアルな人物造形に、演出と演者の信頼関係が見てとれる。
古色蒼然とした彼方の物語ではなく、今を生きる私たちに向けて、今を生きる若者たちが演じるオイディプスは、殊のほか清々しささえ感じる潔い感情表現に酔わせてくれた。去り行くオイディプスにすがる民衆に姿に、何を見出していくのかは、観る者に手渡されたメッセージとして心の隙間にストンと落ちる。余韻を引き摺る強烈なパッションに満ち溢れた生きのいい逸品であった。
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