2013年 2月

さいたまネクスト・シアターの若い俳優陣の中に潜む熱いパッションが、観客に叩き付けられるが如く噴出する。演じるというよりも、まるで己のこれまでの生き様を慟哭と共に吐き出していく、そんなヒリヒリとした緊張感が劇場内に充満していく。観客は役者と真摯に対峙せざるを得ない状況に追い詰められていく。

20余人のコロスが登場するのだが、物語の要所において、皆、手にした三味線を高らかに爪弾いていく。この強烈な音の圧力が群集の迷える魂の叫びとリンクし、購い、そして殉じていく王者の悲劇を伝承する己の哀しみを昇華させる装置として有効に機能する。

「トロイアの女たち」で3ヵ国の女性たちに自国語で台詞を語らせ、「祈りと怪物」では言霊をラップに乗せる表現でコロスを描いてきた蜷川が、今回は三味線を活かしきることで、ギリシア悲劇の中から時代を超える普遍的な真実を抉り取っていく。現代日本に、ギリシアの哀しみが確実にブリッジされていく。

本作の脚本はホーフマンスタール編を使用しているが、この選択が観客に物語を分かり易く伝えるために、大いに貢献する。煌びやかなレトリックは抑えられ、登場人物たちの感情がストレートに伝わってくるため、言葉が聞き取り易く耳にも心地良い。この直情さが、さいたまネクスト・シアターの若者の意気とシンクロし、パッションの放出が更に倍化する。

オイディプスとクレオンはダブルキャストで、公演回によって入れ替わって演じられていく。この回のオイディプスは小久保寿人で、クレオンは川口覚であった。

小久保は若き王の貫禄を感じさせながらも、真実に近付いていくに従い心に徐々に陰を落としていく、その変化を大胆かつ繊細に演じて迫力がある。川口覚は2番手の立場に居る者の品格と客観性を保ちつつ、オイディプスに嫌疑を掛けられ今ある地位を揺り動かされることにより、己の感情を冷静に白熱させる様が腑に落ちる。イオカステは土井睦月子が演じるが、真実を眼前に突き付けられたことで瓦解する王妃の気品を、豊かな情感を持って演じきる。

王家の悲劇を観客に伝承するコロスは、まるで我が事のように哀しみ、嘲り、苦しみ、憂うることで、事の顛末を相対化させる役回りを持ち得ることとなる。オイディプスの悲劇は、民衆の悲劇でもあることがくっきりと提示されていく。哀しみは連鎖していくのだ。

しかし、民衆たちは悲劇に捲き込まれ右往左往している存在としては描かれない。その時代の空気を吸いながらもそれぞれの意思を明確に発していくのだ。一人ひとりの生き様が透かし見えてくるリアルな人物造形に、演出と演者の信頼関係が見てとれる。

古色蒼然とした彼方の物語ではなく、今を生きる私たちに向けて、今を生きる若者たちが演じるオイディプスは、殊のほか清々しささえ感じる潔い感情表現に酔わせてくれた。去り行くオイディプスにすがる民衆に姿に、何を見出していくのかは、観る者に手渡されたメッセージとして心の隙間にストンと落ちる。余韻を引き摺る強烈なパッションに満ち溢れた生きのいい逸品であった。

伝説のピアニスト・ホロヴィッツと、その妻であるトスカニーニの娘ワンダ。そして、ホロヴィッツの調律師フランツ・モアと妻のエリザベス。登場人物はこの4人のみ。三谷幸喜は、モアの家にホロヴィッツ夫妻が訪れたある一晩の時間を切り取りながら、そこで交わされる会話の中に、全世界を映し出していくという果敢な挑戦に挑んでいく。

モアの著書によると、その一晩はとても親密なひと時であったと記述されているようだが、三谷幸喜はその事実に独自の解釈を加え換骨奪胎し、人間の心のひだが触れ合うことで起きる摩擦の繊細な震えを描ききる。

まずは、天才芸術家と一般市民との生活を対比し、一般人の感覚から掛け離れた天上人の我儘放題ぶりと、その言動に右往左往する夫婦の姿を描いていく。物事の差異が笑いを生み出すことを熟知した筆致が、2つの世界の間で揺れ動く価値観の相違を、見事に笑いに転じさせていく。

部屋が臭いといっては消臭スプレーを撒き、サーモンの賞味期限が気になりパックの表示を見るまでは手に取ろうとすらしない。水分はエビアンしか口にしないマエストロだが、エビアンが足りずにボルヴィックと和えたものを供するとそれに気付くのだが、妻にたしなめられ、これが飲めない訳ではないと承諾する。その他にも、用意したパスタが気に入らない、かつて食したことがあるムール貝も実は嫌いだったのだと言い放ち、マエストロの文句は枚挙に暇なく続いていくことになる。これが実に可笑しい。

そして、舞台には登場しない子どものことについて話が言及されていくと、徐々にその場に充満する空気は不穏な様相を呈していくことになる。モアの子どもが家にあった調度品を学校で売買し、注意を喚起されたらしいことがモア夫婦の会話からもれ聞こえてくる。それを、ワンダが一喝する。“子どもの育て方が悪い。私は娘をどんなに大切に育てたと思っているのだ”と。

いかにも立派な人生を歩んでいるのかのように語られるワンダの娘であるが、実は自殺していたらしいことが分かってくる。母・ワンダは、未だその呪縛から解かれていないのだ。ここで、持つ者、持たざる者の概念がガラガラと音を立てて崩れていくことになる。剥き出しの人間の姿が露わとなり、装うことでは決して繕うことの出来ない心の痛みが観る者に突き付けられてくる。

そして、物語は家族の絆について語られていくことになるのだが、そこで、ドイツからの移民であるモアが第二次大戦の時に、家族を失った体験を語り始めていく。自分の心の内に仕舞い込んでいた、決して断ち切ることが出来ない人の命の大切さ、心と心のつながりを想う気持ちなどを、モアは噴出させていくのだ。

物語は登場人物たちの心の奥底へと深くダイブし、幾重にも重ねられてきた心の内壁に降り積もったしこりのようなものを、あらゆる方向から剥ぎ取っていく。冒頭に登場人物たちの個性が面白おかしく描かれたことで観客との間に親近感が醸成されてきたのだが、その土壌に登場人物たちの真情が折り重なり合うことで、一気に観る者との気持が一つに収焉していく。

渡辺謙は大木の様にセンターにスクっと聳え、曲者揃いの面々の丁々発止を真っ向から受けて立ち、物語に揺ぎ無い安定感を与えていく。渡辺謙が受けの演技に徹するというのは、なかなか珍しいことなのではないだろうか。ここに、三谷幸喜が仕掛けた戦略がある。渡辺謙から新たな資質を掴み出す。

高泉淳子が圧巻だ。高飛車な態度を取りつつも、可笑し味と哀しみを綯い交ぜにさせながら、ワンダという女の生き様をクッキリと描き出す。また、諦観した視点を持ち得ているため、人物像により一層の厚みが生まれていく。立ち振る舞いも生粋のセレブの様で、こんな著名人いるよなという思いを抱かせるリアルさで観客を唸らせる。

段田安則のホロヴィッツは癖になる。実際のホロヴィッツを真似たのであろう緩慢な一挙手一投足の動作に、ついつい見入ってしまうのだ。人物造形もかなりカリカチュアライズされているのだが、物語が向かうベクトルに合わせつつ、グッと表層部分にも真情を染み出させていく技が、また、見事だ。

和久井映見は、巧者の中において1輪の花の如く、可憐な存在感で場を和ませる役割を担っていく。また、観客が一番気持ちを投影し易い一般の人々の感覚を持ち合わせた役どころの核を掴み、物語と客席とのブリッジになっていく。

稀代の名ピアニストは舞台上で果たして演奏するのであろうかという観る者の思いを、物語の締め括りで見事に完結させていく。観客の想像力を喚起させ、一気に幕を閉じることで、それまで描かれてきたことが瞬間冷却されたが如く、観る者の記憶に封じ込められることになる。観客の想像力を信じる三谷幸喜の思いが満ち溢れた秀作であると思う。

最近のコメント

    アーカイブ