藤原竜也の舞台は特別なものになりつつあると思う。ベテランの舞台人はともかく、この若さで、圧倒的な存在感=その役に生きる、ことを体現出来る稀有な役者であるからだ。また、若者だけが持つピュアな「パッション」が相乗効果として加わるため、観客はテクニックだけではなく、心情的にものめり込み取り込まれてしまうのだ。本当にそこにロミオが存在するため、何だかずっと見ていても飽きないのだ。演じていないので自然なのだ。嫌だとか違うとは言えない次元なのだ。
蜷川演出は、可視的に世界の男女のポートレートを全面に打ち出すことで、この場の外の世界との共振を描くことに成功した。この場で起こることはあるひとつの出来事なのであるが、世界にはこういった悲劇は数知れず存在するのだという強い確信が、じわじわと押し寄せて来るのだ。その多くの思いとロミオとジュリエットの悲劇がシンクロし、この物語が神格化されてきた構造を解き明かすかのように、その永遠性を問いただしていくのだ。
鈴木杏(なんと17歳!)のこの馥郁たる表現の豊かさはどうであろう。彼女はジュリエットの心を自分の内面と照らし合わせながら、いくつもの段階を自然と経ることで鈴木杏のジュリエットを作り上げていったのであろうか。決して表層的な表現に陥ることはなく、ジュリエットがというより鈴木杏が思い苦悩し喜ぶ様を見ていた気がする。
笑顔が多いロミオとジュリエットである。恋の喜びや苦悩がストレートに伝わってくる作品である。しかし、何故か、生とは真逆の磁力が働いているのか、どの場面も抜けるような明るさには満ちていない。情死した男女の顔のインパクトはもちろんなのだが、マキューシオが死にティポルトが死に、そんな悲劇が逃れられない運命であるかのような哀しみと無力感にさいなまれていくのだ。そんな悲劇に贖おうとするのだがそんな行動も全て遮断されていく。その遮断のされかたが、今作のポイントである。起こってしまった出来事を誰もがあまり引き摺らないのだ。ティポルトを殺したロミオはその死そのものよりも、ジュリエットと引き離されることの苦悩に悶絶するといった具合だ。蜷川幸雄の達観した解釈の賜物か、舞台と世界との大きな振れ幅を持ち得ながら、その奥底にまさに毒薬を仕込んだごとく底知れぬ怖さを内包させていたのだ。死が彼岸から静観しているかのごとく。
ラスト、かつては敵対する両家が手を結び共に生きていこうという喜びに満ちた蜷川演出であったが、今作は、前述のごとく、逆らえない運命には従うしかなくこれからは身を寄せ合いお互い争うことなく生きていかなければ、という罪の償い方にて終焉を迎える。漠然とではあるが「絶対的なるもの」が、スコーンと透けて見えてきた。
壌晴彦の現世の囚われ人、嵯川哲朗の「神」の代理でありながら無力な神父、梅沢昌代の無償の愛の体現者、藤井びんのたまたまそこに居た薬屋など、誰もが、「何かの力」に作用してそこに存在しているのだという解釈。なかなか面白く、こういった掘り下げ方が実は正しいのではと思わせるに足る表現に満ち満ちており、シェイクスピア上演の新たな転回、となる作品であると私は確信した。
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