2004年 12月

藤原竜也の舞台は特別なものになりつつあると思う。ベテランの舞台人はともかく、この若さで、圧倒的な存在感=その役に生きる、ことを体現出来る稀有な役者であるからだ。また、若者だけが持つピュアな「パッション」が相乗効果として加わるため、観客はテクニックだけではなく、心情的にものめり込み取り込まれてしまうのだ。本当にそこにロミオが存在するため、何だかずっと見ていても飽きないのだ。演じていないので自然なのだ。嫌だとか違うとは言えない次元なのだ。

蜷川演出は、可視的に世界の男女のポートレートを全面に打ち出すことで、この場の外の世界との共振を描くことに成功した。この場で起こることはあるひとつの出来事なのであるが、世界にはこういった悲劇は数知れず存在するのだという強い確信が、じわじわと押し寄せて来るのだ。その多くの思いとロミオとジュリエットの悲劇がシンクロし、この物語が神格化されてきた構造を解き明かすかのように、その永遠性を問いただしていくのだ。

鈴木杏(なんと17歳!)のこの馥郁たる表現の豊かさはどうであろう。彼女はジュリエットの心を自分の内面と照らし合わせながら、いくつもの段階を自然と経ることで鈴木杏のジュリエットを作り上げていったのであろうか。決して表層的な表現に陥ることはなく、ジュリエットがというより鈴木杏が思い苦悩し喜ぶ様を見ていた気がする。

笑顔が多いロミオとジュリエットである。恋の喜びや苦悩がストレートに伝わってくる作品である。しかし、何故か、生とは真逆の磁力が働いているのか、どの場面も抜けるような明るさには満ちていない。情死した男女の顔のインパクトはもちろんなのだが、マキューシオが死にティポルトが死に、そんな悲劇が逃れられない運命であるかのような哀しみと無力感にさいなまれていくのだ。そんな悲劇に贖おうとするのだがそんな行動も全て遮断されていく。その遮断のされかたが、今作のポイントである。起こってしまった出来事を誰もがあまり引き摺らないのだ。ティポルトを殺したロミオはその死そのものよりも、ジュリエットと引き離されることの苦悩に悶絶するといった具合だ。蜷川幸雄の達観した解釈の賜物か、舞台と世界との大きな振れ幅を持ち得ながら、その奥底にまさに毒薬を仕込んだごとく底知れぬ怖さを内包させていたのだ。死が彼岸から静観しているかのごとく。

ラスト、かつては敵対する両家が手を結び共に生きていこうという喜びに満ちた蜷川演出であったが、今作は、前述のごとく、逆らえない運命には従うしかなくこれからは身を寄せ合いお互い争うことなく生きていかなければ、という罪の償い方にて終焉を迎える。漠然とではあるが「絶対的なるもの」が、スコーンと透けて見えてきた。

壌晴彦の現世の囚われ人、嵯川哲朗の「神」の代理でありながら無力な神父、梅沢昌代の無償の愛の体現者、藤井びんのたまたまそこに居た薬屋など、誰もが、「何かの力」に作用してそこに存在しているのだという解釈。なかなか面白く、こういった掘り下げ方が実は正しいのではと思わせるに足る表現に満ち満ちており、シェイクスピア上演の新たな転回、となる作品であると私は確信した。

まずは、正面に映像が流される。大学卒業時に撮ったと思われるパーティーでのシーンだ。フォーカスがズレたり、対象物が曖昧だったりする映像が奇妙な世界観を形成し、酩酊感あるクールな雰囲気を醸し出す。映像が終わると、パチンと切り替わるように、明滅するライトと大音響の曲がステージを支配しロックコンサートを彷彿とさせる中、佐藤アツヒロがベッドの上に乗り飛び跳ねるオープニングは、シンプルで格好良い幕開きだ。

部屋にかつての友人が訪れる。ノックを聞いた佐藤アツヒロ演じるヴィセントは履いていたジーパンを脱いでシャツとトランクス姿になり、ビール缶を部屋に放り投げ荒れた状態で、赤坂晃演じるジョンを迎える。微妙な嘘。演じるということの虚構性。さながら「羅生門」のような嘘と真実の曖昧な境界線を辿る本作のテーマの布石をそこかしこに散らばし始めた。

かつて大学時代に起こった「あること」を巡って、登場人物3人が逡巡する様は、一筋縄ではいかない次の展開が予測出来ない面白さを詰め込んで、観客を飽きさせることがない。

但し、全体的に緊迫感が希薄である。台詞をなぞっている域に留まっている気がする。追い詰め追い詰められるというギリギリの状態の苦しさや驚きが伝わってこない。台詞の丁々発止のみで展開するため、役者に対する負荷が大きくのしかかってくる芝居なのではあるが、今回は3人芝居でありながら微妙に相違する3人の役者の質の違いが、どこか微妙に行き違ってしまうのが、緊張感を削ぐ理由なのであろうか。

佐藤アツヒロは、いろいろなジャンルの舞台で鍛えた経験が心強く、奔放で元気な溌剌さが魅力の自由形。赤坂晃は、スタイリッシュな仕種が染み付いたミュージカル的身のこなしに長けたミュージカル形。奔放にぶつかる佐藤アツヒロを受ける赤坂晃のスタイリッシュ。状況は言い合っているのだが、どうしても台詞がバトルしないのだ。小池栄子は何色にも染まっていないのがカラーであり、その演技も素直さが前面に出た。演じるエイミーのように3人のパワーバランスを完全に把握し支配し切るまでには至らないが、3人の中で一番、「旬」を感じさせるパワーを放熱していた。

「OK!」という台詞が気になって気になってしょうがなかった。3人共、外国人風に聞こえてしまい、非常に違和感を増幅させるものがあった。

明滅するMOTELの電飾は途中で「T」の字を失うが、3人も何かを突き止めているようでありながら、何かを失っていくというような喪失感に苛まれていく。果たして真実は何なのであるのか。証拠としてTAPEに録音されていることには意味があるのであろうか。全ては観客の解釈に委ねられていく。

レイプ、ドラッグなどのモチーフが織り込まれた不条理劇を、ジャニーズファンをコアターゲットとした演目として取り上げたということは、かなりのチャレンジであると思う。でも、カーテンコールで心なしか拍手に勢いが無かったのは、皆んな、良く分からなかったんじゃあないのかな、などと思ってしまった。

一面荒れ果てた瓦礫の山の装置がゆるゆると天井に上り、舞台上にまで引き上げられると、まるで天空を覆う屋根のように瓦礫が舞台を見下ろすこととなる。ステージ舞台正面・上下には布が垂れ下がり、登場人物はその合間から出入りすることとなる。このいきなりのスペクタクルシーンに少し驚きつつも、これからの展開に期待が膨らんでいく。物語が始まる。

28年前に書かれた戯曲であるが、2004年の今を持ってしても「新しい」と感じるのは何故であろう。当時の風俗なども織り交ぜられており、風化する可能性は秘めてはいるものの、時を経て証明されたのは、野田秀樹という作家のモノやコトを選び取る審美眼が極めて優れていたということである。「古びないもの=真実なもの」を掬い取る類まれな才能があったということだ。才能は時に開花もするが、天賦の才能は最初からあるものなのだ。

言葉を紡ぎながら幾重もの状況が重なり合い、それが洪水にように寓話となって迸り出てくる。駄洒落の言葉遊びを繰り返しながら、その表層言語はコトの深淵にまで深く分け入り、真実を掴み出そうとしていく。そういった行き来をする中、登場人物は「こちら」と「向う」の両方にアイデンティティを持ちながら、虚実の重ね合わせの上に成り立つ現実というもののありかを探しているかのようだ。

言葉がそこかしこで跋扈するが、その言葉に根拠というリアリティを含み自らの血とせざるお得ないという過酷な課題を、豪華な演技陣は難なくクリアしている。

透き通るような存在感の深津絵里は野田演出4度目であるが、クルクルと展開する野田ワールドの中において、いつも強烈な魅力を放っている。饒舌にしゃべればしゃべる程、彼女の中の清楚な叙情性が立ち昇り、彼女の目線の先にある何か、「明日」とも「夢」とも思えるような何か、「希望」のようなもの、を何故か共有してしまい、いつの間にかその気持ちに共鳴しているのだ。中村勘太郎は、下着泥棒に見えない品の好さから青春ドラマのような爽やかな印象を残すという、アクの強い役者たちの中におけるオアシスのような存在感が逆に求心力となって、スッと主役として浮かび上がっていた。河原雅彦のアクがパロディとしてカリカチュアライズされることである種の普遍性を持ち、また、今の小劇場界の座長たちが多く参加するこの公演にて彼らを率いる親分的存在の役柄の古田新太は中軸となり異彩を放っていた。小西真奈美は、「赤鬼」に続いての続投であるが、身のこなしが軽くなり余裕が出てきた感じで、透明感ある素直な魅力が活かされていたと思う。

映像を駆使するのも野田演出としては珍しく、新たに様々な才能を取り入れながら、風圧の感じられない今の演劇界に対して、野田秀樹が発破をかけたような気がする。自ずから斬り開きトップを独走しながらも、後続に対してのアジテーションを仕掛けているのだ。

日本の演劇界で、野田秀樹以外、誰にも真似出来ない種類の公演である。「野田秀樹」という芝居のジャンルがある、ということだ。

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