2018年 1月

アングラ世代の戯曲を掘り起こし、若手・気鋭の演出家が現代の視点で捉え直す、故扇田昭彦氏発案の“RooTS”と銘打たれた東京芸術劇場の企画は面白い。今回の演目は、本多劇場の杮落しの際、1982年に書き下ろされた、唐十郎の「秘密の花園」。演出を担うのは、出演も果たす福原充則である。

福原充則は、唐十郎作品を独自の解釈で演出するというよりも、唐十郎が描いた作品世界を忠実に再現することに執心しているような気がする。迷うことなく唐十郎をリスペクトする福原充則の作品に対する取り組み方に、“これ”が観たかったのかもしれないと、グッと親和性が湧いてくる。

俳優陣もまた、魅力的な逸材が集結した。初演で緑魔子が演じたヒロインは寺島しのぶが担っていく。二役を演じ分けるという難役だが、唐十郎の詩的で流麗な言霊に命を吹き込むことの困難さを、軽々と凌駕しているように見えるのは実力の成せる技であろうか。

寺島しのぶが演じる女に翻弄されるアキヨシは柄本佑が担うが、同役は初演時、柄本明が演じた役である。勿論、それを知った上でのキャスティングであろうが、父子で同じ役を継承することになるとは粋な配慮である。

アキヨシは、ポン引きの旦那のいるキャバレーホステスいちよに、毎月給料を付け届けている。ポン引きの旦那は田口トモロヲが演じていく。愛おしい、絆される、意地らしい、狂おしいなど、社会的枠組みとは大きく隔たりのある感情によって物語は紡がれていく。

いちよに瓜二つのアキヨシの姉もろはが登場し、寺島しのぶがクッキリと両者の性格を際立たせ演じ分けていくのが見事である。しかし、時としてどちらともつかない表現を繰り出し、観客の脳内も徐々に攪乱させられていく。それがまるで謎解きの様にも感じられ、ついつい前のめりになってしまう。

玉置玲央や池田鉄洋のエッジの効いたパワー満載の存在の在り方は、今っぽい洗練さとは確実に一線を画している。大仰な立ち廻りに観客も同化し始め、知らず知らずの内に観るだけで大いにストレスが発散出来ていくようなのだ。

福原充則の作品に対するアプローチに、観る内に段々と嵌っていってしまう。初演時、本多劇場を水浸しにした嵐のシーンも、きちんと本水で再現される。自分なりの解釈を繰り出すのだという野心とは地平を異にし、唐十郎の戯曲を細大漏らさず表現しようという強烈な意思が作品にパワーを付与していく。故に、このスポットを押して欲しいというポイントを外すことがないため、観ていて実に心地良い。

ある種の幻想の物語とも言える夢幻の世界を精緻に構築することで、フラットな現実世界に発破を仕掛けるパワー全開の佳品であった。アングラも継承していかなければ、その意気は途絶えてしまう。福原充則には、また、新たなアングラ作品を再生して欲しいと希望したい。

言わずと知れた1979年に蜷川幸雄が演出した、傑作の誉れ高い「近松心中物語」。初演時、帝国劇場でその舞台を拝見しているのだが、それまでの演劇という概念を大きく超えた強烈な衝撃を受けたことが思い起される。

元禄の大阪新町に生きる100人近い群衆、長屋の屋根で咲き誇る彼岸花、森進一の歌唱、辻村ジュサブローの艶やかな衣装、そして、満々と水を湛えた蜆川を再現した美術など、スペクタクルと圧倒的な美学が舞台を完全に支配し観客を劇世界へと誘ってくれたのだ。蜷川幸雄亡き後、演出を託されたいのうえひでのりがどのような手腕を発揮するのかが大いに期待される。

いのうえひでのりは、秋元松代の戯曲と真正面から向き合っていく。スペクタクル性を追求するというよりも、戯曲の中で生きる元禄の人間たちの思いを掬い取ることに執心しているような気がする。

しかし、蜷川演出が構築した作品のイメージを大きく逸脱することもない。敢えて、こう変えるのだという山っ気は微塵もなく、戯曲の解釈の仕方を自分なりにどのような変換を施していくのかという作業に真摯に取り組んでいく。

2017年に予定されていた同作の公演と同じキャストかどうかは、もはや知る由はないのだが、華も実もある俳優陣が居並んだ。堤真一と宮沢りえ、池田成志と小池栄子の対照的な2組のカップルが物語の中心となるが、市川猿弥、立石涼子、小野武彦、銀粉蝶など、実力派俳優がしっかりと脇を固めていく。

2016年公演の「元禄港歌」を観た時にも感じたことなのだが、秋元松代戯曲の場面の端折り方は大いに大胆だ。一瞬で恋に堕ち、一気に運命の渦に巻き込まれ、これまでの人生とは全く異なる選択をしていくことになるのだ。俳優が演じるにあたって、役に注ぎ込むパワーは半端ないなと感じ入る。

人生のクライマックスだけを繋げたかのような戯曲の中に生きる人間たちに、名優たちは見事に命を吹き込んでいく。展開の早さに引っ張られることなく、何故、心中という顛末に陥っていくのかということがしっかりと腹落ちする。

恋と金銭の呪縛に絡めとられ堕ちていく男女たちは、大阪新町で生きる人々の中の1つのピースだということを、群衆たちが教えてくれる。その群衆であるが、個々の生き様は感じつつも感情が突出し過ぎず、整理、抑制されていると感じるのは、いのうえ演出の成せる技であろうか。群衆も、作品の1ピースとなって作品に刻印される。

艶やかで哀しく、しかも可笑し味さえ含んだ本作は、人間の生き様そのものだとも言えると思う。伝説の名戯曲が、当代随一のキャストとスタッフによって、見事に再生されたと思う。

デヴィット・ルヴォーの演出作品は見逃せない。しかも、演目は「黒蜥蜴」。同作の上演は美輪明宏の独壇場であったが、果敢にも近代能楽集以来、デヴィット・ルヴォーが三島由紀夫作品に着手するということに、観る前から何ともワクワクさせられる。

日生劇場の豪奢な劇場へのアプローチは、観劇がハレの場なのだということを感じさせてくれる。劇場内に入ると緞帳は上がっており、舞台美術の設えを確認することが出来る。デコラティブな装飾は廃され、色彩設計もモノトーンが基調となったシンプルな印象を与えてくれるが、造作にアールヌーヴォー様式が取り入れられているところにアーティスティツクなアクセントを感じていく。

大悪党の黒蜥蜴を担うのは、中谷美紀。見目麗しいルックスは、彼女に近付く者を虜にしてしまうという説得力ある魅惑を放っていく。流麗な三島由紀夫の言霊を血肉として語る台詞廻しも美しい。

しかし、黒蜥蜴の美しさの裏面にある悪漢も包み隠さず開陳し、裏面が表面に噴出し彼女の企みが全面に押し出されていく。冒頭で起こる誘拐事件をきっかけに物語は展開していくのだが、犯人捜しというドラマツルギ-とは異なり、犯人である黒蜥蜴の視点から事の顛末が描かれていく。

誘拐される令嬢のボディガードとして名探偵・明智小五郎が付き添っているのだが、その目をかいくぐり犯罪を実行した黒蜥蜴と明智小五郎とのバトルが正面切って描かれ、物語のメインストリームとなっていく。

明智小五郎は井上芳雄が演じていく。氏の資質の中からクールで知的な側面がフューチャーされ、中谷美紀とガッツリと対峙していく。自信満々でありながらも、黒蜥蜴に翻弄され右往左往する様を色香を放ちながら繊細に表現していく。

黒蜥蜴と明智小五郎との丁々発止の鞘当てが本作最大の見どころだ。しかし、決して相容れ合うことはないのだが、相反する立場であるが故に、かえって惹かれ合うという通底音を紡ぎ出し、錯綜した感情が重層的に織り成されていく。

黒蜥蜴の手下である雨宮潤一を担うのは成河。黒蜥蜴に認めてもらいたい一心で付き従っているのだが、満足してもらえる結果を出せずに虐げられている青年を、鬱屈とした感情表現で造形していく。しかし、現在の境遇から脱する機会を得て大きくパワーを発するシチュエーションで、成河が持つ強靭さが際立っていく。

終盤に登場するエロス、タナトスの微妙な均衡の上に成り立つかのような、生人形や宝石など様々なくレクションが展示される恐怖美術館は、黒蜥蜴が抱くアンビバレンツな思いを具現化しているかのようにも見えてくる。完璧な美の瞬間を封じ込めようとしているのだが、その完璧さを目指す隙間から零れ落ちる綻びが悪臭を放つような光景にも絆されていく。本作に取り組むということは、“美”をとことん探求するための果敢な挑戦なのかもしれないのだという思いを強くする。

三島由紀夫の美学を、デヴィット・ルヴォーの感性でモダンに描き出したピカレスク・ロマンを堪能することが出来た。三島由紀夫戯曲の表現の可能性を感じさせる1作でもあったと思う。

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