つかこうへい作品というと、演出方法に一種の“型”があるという既成概念を持っていた。パッショネイトで叩き付けるような台詞廻し、役者が熱いハート全開で迸らせる圧力、見栄をきる見せ場のシーンの連打、派手な効果音など、外連味ある演出方法が特徴だ。
しかし、創り手も、観客も、連綿と踏襲されてきている、その“型”を、当たり前の如く享受していたということが、本作を観て気付かされることになる。
三浦大輔は、これまでのつかこうへい作品の呪縛をすっぱりと剥ぎ取り、戯曲の中からそこに生きる人間の真情を掴み取っていく。しかも、スーパー・リアルにである。一見、従来のつかこうへい作品とは全く異なるアプローチの様にも見えるが、自虐と諧謔とが綯い交ぜになり、建前と本音を逆転させたかの様な感情の表出は、つかこうへいが描いた人物像そのままだ。そこが、凄い。
三浦大輔はつか作品の中から、自らの資質と呼応する本作を選らんだのだとは思うが、あまりにも自然に、つかこうへい戯曲が、三浦大輔色に染まっていることに驚きを隠せない。強烈なイコンと見事拮抗することにより、三浦大輔はその才能を観る者にしかと叩き付けた。
その演出意図に沿ったキャスティングも、完膚なきまでに絶妙過ぎて嬉々としてしまう。まさに、今、旬の役者陣が居並び白眉である。旬とは、メディア露出が多いタレントという意味合いではない。老練な手練手管に酔い痴れ幸福感を与えてくれる真に熟した演じ手である、というその1点において、旬、と括りたい。
リリー・フランキーの、この独特な存在感は一体何なのであろう。役者を生業とする者とはそのフィールドを異にする、人間そのものの魅力を放つ強烈な存在感で舞台を席巻する。人間的な魅力が、演じるという架空を飄々と凌駕していく。ドキドキする。ハラハラする。次のどう動くのかという予定調和を全く感じさせることがない。これぞ演劇だ。
でんでん、である。「冷たい熱帯魚」での、あまりにも強烈な殺人鬼振りは、未だ記憶から取り外すことは出来ないが、本作では内に秘めた暴力性を温存しつつも、洒脱で人情味ある親分肌のストリップ一座を率いる男を演じ、リリー・フランキーとガッツリと拮抗する。そのヒリヒリとした空気感が堪らない。本当の楽屋を覗き見ているかのような、このリアルさ。癖になりそうである。
渡辺真起子が、また、いい。ヒモであるリリー・フランキーとの間に築かれた濃密な関係性を、説得力を持って表現していく。この女が、何故、しがない男にしかに見えないリリー・フランキー演じるヒモを大事にしているのかという想いがジンジンと伝わり、やるせなく哀しい。そして、彼女を愛おしいと思う強烈な求心力が観客の中に生まれ、知らず知らずの内に舞台に吸い込まれていく。
安藤聖が身体を張ってあけすけでピュアなストリッパーを哀感込めて演じきる。肉感的な存在感を魅惑的に放ちながら、溌溂と生きる女の気風が心地良い。いつしか、彼女の行く末を親身に憂うる自分がいたことに少々驚くことになる。
渋川清彦演じるヒモの純粋さが、人を癒しもするが傷付けもするという裏腹な人間の在り様を映し出し感じ入る。古澤裕介の、淡々と佇み生きる中に潜む意気が表出するステージ登壇シーンが印象に残る。新田めぐみの肉体が放つ、朽ち行く女の哀れに振り切ることのない、小股に切れ上がった女っ振りにエンパワーされる。三浦大輔作品常連の米村亮太朗が繊細な感情を作品に持ち込み、観客とのブリッジの役割を果たしていく。門脇麦は、その若さを武器に、痺れた感情の最中において、唯一、未来を指し示す夢を託され、見事にその期待に応えていく。
展開する物語の表層的な表現に捲き込まれることなく、登場人物たちが舞台上の架空の人物ではなく、自分に近い人間として生きる様をまざまざと見せつけられるこのリアルさは稀有な面白さだ。才能が時代を凌駕してスパークし、綺麗ごとを一切排除し人間を描く本作は、紛れもない逸品であると断言出来る。
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