2013年 7月

つかこうへい作品というと、演出方法に一種の“型”があるという既成概念を持っていた。パッショネイトで叩き付けるような台詞廻し、役者が熱いハート全開で迸らせる圧力、見栄をきる見せ場のシーンの連打、派手な効果音など、外連味ある演出方法が特徴だ。

しかし、創り手も、観客も、連綿と踏襲されてきている、その“型”を、当たり前の如く享受していたということが、本作を観て気付かされることになる。

三浦大輔は、これまでのつかこうへい作品の呪縛をすっぱりと剥ぎ取り、戯曲の中からそこに生きる人間の真情を掴み取っていく。しかも、スーパー・リアルにである。一見、従来のつかこうへい作品とは全く異なるアプローチの様にも見えるが、自虐と諧謔とが綯い交ぜになり、建前と本音を逆転させたかの様な感情の表出は、つかこうへいが描いた人物像そのままだ。そこが、凄い。

三浦大輔はつか作品の中から、自らの資質と呼応する本作を選らんだのだとは思うが、あまりにも自然に、つかこうへい戯曲が、三浦大輔色に染まっていることに驚きを隠せない。強烈なイコンと見事拮抗することにより、三浦大輔はその才能を観る者にしかと叩き付けた。

その演出意図に沿ったキャスティングも、完膚なきまでに絶妙過ぎて嬉々としてしまう。まさに、今、旬の役者陣が居並び白眉である。旬とは、メディア露出が多いタレントという意味合いではない。老練な手練手管に酔い痴れ幸福感を与えてくれる真に熟した演じ手である、というその1点において、旬、と括りたい。

リリー・フランキーの、この独特な存在感は一体何なのであろう。役者を生業とする者とはそのフィールドを異にする、人間そのものの魅力を放つ強烈な存在感で舞台を席巻する。人間的な魅力が、演じるという架空を飄々と凌駕していく。ドキドキする。ハラハラする。次のどう動くのかという予定調和を全く感じさせることがない。これぞ演劇だ。

でんでん、である。「冷たい熱帯魚」での、あまりにも強烈な殺人鬼振りは、未だ記憶から取り外すことは出来ないが、本作では内に秘めた暴力性を温存しつつも、洒脱で人情味ある親分肌のストリップ一座を率いる男を演じ、リリー・フランキーとガッツリと拮抗する。そのヒリヒリとした空気感が堪らない。本当の楽屋を覗き見ているかのような、このリアルさ。癖になりそうである。

渡辺真起子が、また、いい。ヒモであるリリー・フランキーとの間に築かれた濃密な関係性を、説得力を持って表現していく。この女が、何故、しがない男にしかに見えないリリー・フランキー演じるヒモを大事にしているのかという想いがジンジンと伝わり、やるせなく哀しい。そして、彼女を愛おしいと思う強烈な求心力が観客の中に生まれ、知らず知らずの内に舞台に吸い込まれていく。

安藤聖が身体を張ってあけすけでピュアなストリッパーを哀感込めて演じきる。肉感的な存在感を魅惑的に放ちながら、溌溂と生きる女の気風が心地良い。いつしか、彼女の行く末を親身に憂うる自分がいたことに少々驚くことになる。

渋川清彦演じるヒモの純粋さが、人を癒しもするが傷付けもするという裏腹な人間の在り様を映し出し感じ入る。古澤裕介の、淡々と佇み生きる中に潜む意気が表出するステージ登壇シーンが印象に残る。新田めぐみの肉体が放つ、朽ち行く女の哀れに振り切ることのない、小股に切れ上がった女っ振りにエンパワーされる。三浦大輔作品常連の米村亮太朗が繊細な感情を作品に持ち込み、観客とのブリッジの役割を果たしていく。門脇麦は、その若さを武器に、痺れた感情の最中において、唯一、未来を指し示す夢を託され、見事にその期待に応えていく。

展開する物語の表層的な表現に捲き込まれることなく、登場人物たちが舞台上の架空の人物ではなく、自分に近い人間として生きる様をまざまざと見せつけられるこのリアルさは稀有な面白さだ。才能が時代を凌駕してスパークし、綺麗ごとを一切排除し人間を描く本作は、紛れもない逸品であると断言出来る。

本作は、1972年に蜷川幸雄が結成した「櫻社」に、1973年に唐十郎が書き下した戯曲の再々演である。初演は未見だが、桃井かおり、木村拓哉、財津一郎が居並ぶ再演は、1989年に初見している。そこから約四半世紀を経て、蜷川幸雄は本作の上演を敢行する。

戯曲が特定の役者に書かれたという話は聞くに及ぶが、蜷川幸雄に書かれた本戯曲は、やはり、当人が演出を手掛ける使命を帯びた作品に他ならない。その前提自体が、既に、物語であり、伝説ですらあると感じ入る。

不服従の犬・ファイキルは、既成の権力に購うメタファーとして物語全体を支配していく。ファイキルを見失った盲人・影破里夫は、コインロッカーでシンナー遊びに興じるフーテンにファイキル探しを託すことになる。

そのコインロッカーの鍵穴に詰まった爪に火をつける女・奥尻銀杏。コインロッカーの一つに初恋の手紙を詰めたまま南の国へと旅立ち、バンコックのキャバレーダンサーに射殺された夫。銀杏は、今も、コインロッカーに100円を投入するために、毎日ここに通い詰めている。

物語の設定自体が、リアルなロジックなど何処吹く風な展開が、弩級に心地良い刺激を与えてくれる。詩であり、生き様であり、時代であり、今を生きる人間の観念が、舞台の中に収焉していく様を、まさに、目撃しているかのような臨場感がたっぷりと味わえる。

かつての時代を漂泊する人々が抱く焦燥感は、現代に生きる人々の真情にも通じる通低音として作品の中で鳴り響く。先行きの見えない世の中ではあるのだが、未来を発破する意気が沸々と作品から滲み出してくる。しかし、現状を打ち破った後に見えてくる目の前に拡がる世界観は、過去と現在とでは、きっと大きな隔たりがあるのだろう差異をヒシと感じることになる。

アジテートすることで何かが変わるかもしれないことに、あらかじめ諦めてしまった今を生きる観客たちの姿を、姿の見えない不服従の犬・ファイキルが照射する。時を経て、戯曲の本質が今の空気感と見事にスパークする。その熱さを、冷ややかにではなく、パッショネートに描く手腕は、かつての時代を生きた御仁たちの、それこそ熱い想いが滾る熱情に他ならない。

銀杏の目の前に、盲導犬学校の研修生となっている初恋の相手タダハルが現れる。かつてしたためた手紙をロッカーに封印された男と隔てられた3年という月日が、2人の逡巡する想いを暴発させる。その叩き付け合う感情が、愛おしく、且つ、哀しみを帯び、観る者の心がほぐされていく。また、亡き夫が現れ、物語を南洋へと誘う展開に目を見張る。日本とアジアとの間に存在する、現代にも連綿と通じる“縁”が透けて見えてくる。

銀杏を演じる宮沢りえは艶やかな華があり、観る者の耳目を一気に集める。唐十郎の台詞を嬉々として謳い上げ、詩的な情感までをも感じさせる意気が溌溂と満ちていて酩酊させられていく。古田新太は盲人の破里夫を演じるが、戯曲の中からウイットに富んだ軽妙さを掴み出し、また、ゲイテイストも可笑し味に変えながら演じる存在感が楽しく、作品を面白くふくよかさを与えることに大いに寄与している。

小出恵介はフーテンの少年を演じるが、無垢なピュアさがもう少し前面に出てくると、この少年のあてどない空虚感がもっと感じられたと思うが、破里夫に翻弄され、だんだんとほだされていく様が面白い。木場勝己は、盲導犬養成学校の教師と銀杏の夫を演じるが、渇や情感を見事に演じ分け、作品世界にグッと厚みを加算させていく。

金守珍がコミカルに刑事を演じ軽妙なアクセントを付加させていく。盲導犬学校の研修生の一人を演じる大鶴佐助の肩に手を差し伸べるシーンがあるのだが、時代を超えたエールを受け渡すかの様にも感じられ、グッときた。タダハルは、さいたまネクストシアターの小久保寿人が演じるが、再演で観た渕野直幸と声の質が酷似していると感じてしまう。純粋な真情が透けて見え、銀杏との悲恋に説得力が増す。

袋小路の様に閉じられたかに見える混沌とした現状を打破し、後の続く者たちを牽引するパワーを全開させて幕を閉じるが、最期に破里夫が叫ぶ台詞があまりにも格好良すぎる。未来を切り拓く強烈な意気とその中に孕む苦い想いが共存した、淡い哀しみが滲ませることに成功した秀作である。

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