2014年 10月

劇場内に入ると、緞帳は既に上がり、ステージの上では俳優たちが、ストレッチをしたり、会話を交わしたりと、思い思いの姿で存在している。開演すると、物語は劇団のオーディションへと自然にスライドしていくことになる。

台詞は韓国語。イヤホンガイドで流れる日本語と、リアルに聞こえてくる韓国語とが融合するまでに少々戸惑ったが、慣れる瞬間を越えると、後は自然にステージを注視することができるようになっていく。

野田演出は、かつて観た同作へのアプローチと、その手法を大きく変えていることがないように思える。しかし、演者は言語が異なる故、何処かしらで違和感が生じてくるのかと思いきや、韓国俳優陣が本作が内包するパワーを更に倍化してくような弾け具合で、観る者を惹き付けて離さない。

韓国人俳優の表現はストレートで的確だ。言語を違えど、鍛錬されたスキルの上に成り立つ演技は、しかと観る者の心に伝わってくるため、軽々と国境線を越境していく。

文化は政治とはその在り方を異にする。この時期、日韓の関係性はセンシティブな要素を孕んでいたと思うが、少なくともこの作品を共有した役者と観客の間には、国同士を阻む壁は一切取り払われていたと断言出来る。観客席には韓国の方もいらした。心地良い空間が、そこには存在していた。

シャム双生児の姉妹を演じる、チュ・イニョンとチョン・ソンミンが中心に聳立し、作品を牽引していく。特に、可愛い妹に嫉妬する姉を演じたチュ・イニョンの哀切が、心にしこりとなって残っていく。天真爛漫な妹を演じたチョン・ソンミンとの対比がクッキリと示され、最終的にどちらかの命を救わなければならないという局面において、胸が締め付けられるような感情が沸き起こってくる。

双生児を見守る家庭教師を、イ・ヒョンフンが演じるがパワフルでありながら実に冷静。観客を惹き付ける魅力もタップリと溢れ、フレッシュな存在感で作品をしっかりと側面から支えていく。韓国での活躍振りは詳しくはないのだが、韓国演劇界の人財の豊富さが、しかと伺える逸材であると思う。

数学者・ドクターはオ・ヨンが造形するが、落ち着いた安定感が観る者にふくよかな温かさを感じさせてくれる。双生児の父母を、パク・ユニ、イ・ジュヨンがカリカチュアライズされたテイストを付与して演じることで、柔らかなニュアンスが添えられることになる。

韓国俳優陣の安定感あるスキルとアグレッシブな表現力とが相まって、野田作品を、ではなく、役者の演技を堪能出来る作品として成立する、強烈なインパクトを受け取ることになる。演じ手たちが、野田秀樹というビッグ・ネームに縛われ過ぎることなく、最大限に己の表現の領域を拡げようとすることにより、野田秀樹の才覚を更に浮き出たせる様な逸品に仕上がったのだと思う。

開演時間が近付くと、ステージに設えられた大階段には、其処此処からコートを纏った俳優陣が現れ、観客の耳目を集めていく。と、開演時間になると、全員がコートを一気に脱ぎ捨て、その下に着ているトーガ風の装いに変換すると、もう、そこは、ローマの広場になってしまうという蜷川マジックに、冒頭より惹起してしまう。

「ジュリアス・シーザー」である。登場人物たちは、誰もが知っている歴史上の人物で、シーザーとブルータスの妻以外は、全てが男たち。男と男の舌戦劇である。君臨する者と従う者、継続していこうとする意思や転覆させようという画策、憧れと嫉妬など、様々な想念が綯い交ぜになりながら、ヒエラルキーの中に生きる男たちの葛藤が、生々しく描かれていく。やっぱり、シェイクスピアは、面白い。

シェイクスピアの台詞は、その大概が相手を説得するため発せられているのだと思うが、本作はその傾向が顕著に現れ面白い。キャシアスがシーザー暗殺をブルータスに焚き付けていくところから、物語は本格始動していく。ブルータスを阿部寛、キャシアスを吉田鋼太郎が演じていく。

覇権を拡大していく一方のシーザーの独裁体制に楔を打つべきだと、キャシアスは訴える。吉田鋼太郎が掛ける発破は、行く末を憂うる識者のそれでもあるが、一世を風靡するシーザーに対する男の嫉妬を真情に滲ませ、実に人間的に人物造形が成されるため、ついついその策略に同調しそうになってしまう。唸ります。

シーザーへの信頼も厚い高潔なブルータスは、遂にはシーザー暗殺に加担していくことになるのだが、何もそれはキャシアスの口車に乗ったからだけではない。組織のトップの地位に就きたいという男の野望が、周囲で彼を引き立てる者たちの加勢を受け暴走していくことになるわけだ。ブルータスを演じる阿部寛は、その思念がむくむくと肥大していく様を、ある種の冷静さを湛えながら周囲の動向に左右されている訳ではないという体裁を演じ抜く。決して感情だけに流されたのではないのだという事由の上に行われる暴挙に、説得力を付与していくことになる。

時の総大将であるシーザーは横田栄司が演じるが、カリスマ性ある威厳と品性をパワー全開で演じきり、クッキリと印象に残る。声が誰よりも通ることが、人物像を一層際立たせることにもなっていく。シーザーの妻・カルパーニア演じる山本道子の妙齢なリアルさが、シーザーがこれまで培ってきた生き様を脇から押し支えていく。藤原竜也演じるアントニーが慕う貫禄、偉丈夫さが備わった大人物として、そこに存在していた。

敬い慕うシーザー亡き後、アントニーは、敵対する一派に反旗を翻さないと約しながら、市民たちに混乱の状態を説き伏せるという場を与えられることになる。まずは、ブルータスが登壇するが、優等生的な演説は市民にもすんなりと受け入れられる。場面は、アントニーのシーンへと転換する。

市制の直接的な批判は言葉上では覆い隠しながらも、体制を転覆させた行状を赤裸々に語るアントニーを、藤原竜也は感情に溺れることなく、対峙する市民たちに冷静さを装いながら説き伏せていく。その求心力が物凄いパワーを放ち、圧巻だ。演説1つで、アントニーが市民から絶大な信頼感を獲得するという設定を、藤原竜也が見事に成立させていく。シーザーに対する思慕を覆い隠しながらも、明確に自己の主張を、市民を通して観客に確実にリーチさせ圧巻である。

他の意見を寄せ付けないある種の男同士の濃密な信頼関係、言い換えればホモソーシャル的なニュアンスとでも言えようか。そんな思念を随所に付与することで、単なる論争劇を超えた生身の人間の愚かさを作品に吹き込んでいく。

日本の武士をも髣髴とさせる、主従関係や義理人情を最優位に置くローマ人の言動を掬い取り、現代へとブリッジさせ白眉である。歴史上の人物たちから、決して教科書では著わすことのない生身の人間の慟哭を炙り出し、購うことの出来ない事実を突き付けられ愕然とさせられることに安寧させられ心地良い。

野田秀樹の戯曲の中で、傑作とも難解とも言われる同作の演出に臨むのは、若くして秀作を連打する、マームとジプシーの藤田貴大だ。藤田がどのように、野田戯曲に取り組むのかが本作の一番の見所だ。

開場された劇場内に入ると、ステージ上の其処此処に据え置かれた装置が白い布に覆われた光景が目の前に広がり、既にマームとジプシー=藤田の世界が現出しているのが見て取れる。上下の両袖も遮るものなくオープンになっているため、開演を待つ待機中の俳優たちの姿も見える様相だ。演劇は作りものなのだということが、自然にディスクロージャーされていく。

物語がスタートすると、まるで野田秀樹作品に接しているとは思えないその感触が新鮮で、舞台から目が離せなくなっていく。台詞は原本のままなのであるのだが、野田の言葉のレトリックに翻弄されることなく、物語の真髄を掴み取っていこうとする藤田のアプローチは独特で、まるで、不条理劇のような静謐な世界を現出させていく。

勝地涼が物語の中心に聳立するが、スターとしてフューチャーされ過ぎることなく、あくまでもアンサンブルの一員としての役回りを担っていく。松重豊が重鎮の存在感をキリリと残すが、俳優陣は物語を創造するための要員であり、演出の視点は、時空を縦横無尽に跋扈する人々が背負う“思い”紡いでいくことに集中していく。

戯曲に刻印された言葉を頼りに、大海原へと航海の舵を取る藤田の手綱捌きは、いたって冷静だ。先達が創造した方法論を敢えて避けるかのように、オリジナルな表現を追及していく様は真摯だが革新的でもある。当り屋の話なので、実際の車やエンジン・カートなども出てくるのだが、機器が持つ疾走感とは無縁で、時空を行き来するための手段として機能させていく。

藤田の真骨頂であるリフレインによるシーンの反復運動と、時代を自由に行き来する野田が筆致する観念とが呼応し、観る者の無意識部分に言霊がダイブしていく。野田演出が、クライマックスに向かってカタルシスを醸成していくのとは違うアプローチにて、藤田演出はあらかじめ起こってしまったことを検証していく様な冷静さを持って荒馬を手なずけ、身体の内側から滲み出る様な官能性を獲得していく。

観念的な域で物語が語られていくのかと思いきや、俳優陣は、その誰もが、演じる役に身を投じ、リアルに生きる人物を造形しているというのが驚愕だ。野田が創造したパラレル・ワールドに人間的な温かさが付与され、作品に不思議な透明感が生まれていく。

野田演出のダイナミックさとは様相を異にする藤田貴大の繊細な手捌きにより、野田戯曲が見事に換骨奪胎された。藤田が演出する、他の既成戯曲作品も観てみたいという思いにも駆られた。これからも楽しみな逸材だ。

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