2011年 6月

演劇というジャンルには、マスメディアが流す表層的なエンタテイメントとは一線を画す、時代と拮抗するパワーを放ち気を吐く御仁の意気が生き残っていて頼もしい。清水邦夫の手になる本作も、人間の泥臭い生き様が、リアルにかつ詩情豊かな言葉で紡がれていて、観客の想像力を融合させていくことで始めて作品が完成するという刺激的なアジテートが独特だ。

初演、再演、再々演と観てきているが、4度目の公演となる今回は、避難の象徴とも言える体育館で本作を上演するということに、何か予感めいたものがあったのかと感じ入る。しかも、劇団名は、大規模修繕劇団、である。命名は、井上ひさし氏と聞く。

過去の上演時は、バブル期、バブル崩壊期、ネットバブル期という、大きな社会環境の節目の時期に楔を打ち込み衝撃を与えてきてきた。しかし、今回の上演では、明日が見え難い混沌とした今日の日本の在り方を問う、というコンセプトがしっかりと浮き彫りにされている。“時代を問う”という、戯曲の核に置かれたゴツっとしたテーマが、作品の内側から染み出してくる。

ロルカのテキストがベースになってはいるのだが、贖えない血縁の物語は、連綿と続くギリシア悲劇の家族の絆にも共鳴し、現代を斬っていくと同時に、ある種の普遍的な神話性をも獲得し得たと思う。ちなみに、蜷川演出の「グリークス」の宣材写真と、そのテイストが酷似しているのは偶然か、それとも何か物語に共通する意図をクリエーターが感じ取ったためなのか。

物語の中心に位置する、窪塚洋介の存在感が圧倒的だ。しかも、演劇の技術論を駆使して役を演じるというのではなく、役柄の真髄を内側から掴んで立つという彼の舞台上での在り方が、観客の気持と自然に共振していく。彼方遠くを見やるその眼差しの先に彼が見出そうとしていることと、作品自体が指し示していく日本人が向かうべき“何か”を探るというアプローチが、見事にドッキングする。作品全体に対する深い読み取り作業を完全に自分なりに昇華させ、彼は作品そのものとなった。

伊藤蘭が成熟した女の色香を放ち、気風の良い女っぷりで物語にアクセントを付け加えていく。後半、詩を朗じ物語をクライマックスへと誘っていくのだが、その緊張感ある佇まいから目が離せない。中嶋朋子の、やつれた女の哀しさと、決して折れることのない女の強さとを同時に同居させたその存在感が、窪塚洋介の在り方と見事に拮抗していく。近藤公園のストレートな感情表現も目を惹く。マグマのような感情を押し殺し、ひたすら普通であることを装う落差の隙間に、観る者の心がスッと引き込まれていく。高橋和也の洒脱、丸山智己の愚直さ、青山達三の老練さ、田島優成の閉じたがゆえのピュアさなども、印象に残る。

雨を実際に降らし続ける演出は、初演時から変わらない。濡れそぼる登場人物の心情を反映させると同時に、こうした苛烈な状況を作ることにより、俳優たちが己の内側にあるパワーを最大限に爆発させることが出来る、起爆装置のような役割も担っているのかもしれない。また、見た目にも刺激的で、観客の興味を惹き付け離さない。

終盤、停電になるシーンがあるのだが、この場面が今までのどの公演の時よりも、グッと心に迫るものがあった。光さえ見えない今の“無”の境地から、何を見出し、そして、どのように、何を頼りに、明日に向かって駒を進めていけばいいのかと模索する登場人物たちの姿が、今の日本の状況とクロスし、ヒシと胸に迫り心の涙が溢れ出す。

若い役者も多く出演するのだが、彼らが身に纏う生きていること自体のリアリティーの希薄さが、まさに時代を反映していく。脆弱な肉体と思想では、未来は切り開くことが出来ないのではないかという危惧を感じるのと同時に、であれば祈りを捧げるしかないのではないかという精神性なるものが浮き彫りにされた感がある。死した時代を鎮魂するかのような静謐さを湛えた本作が、古びることなく時代を超えて息づく光景を目撃出来たことが、何よりも明日への活力へと繋がる気がした。衝撃作、健在である。

オープニングのシーン。プロローグの楽曲を歌いながら出演者たちが舞台上下から現れてくるのだが、その何とも言えない皆の沈鬱な表情が胸に突き刺さる。日本が語られるこの作品の中において、この“今”の日本の気分を表現した場合、このような表情になるのだなと感じ入る。明らかに、3.11の影響が見てとれるのだ。生ものである演劇が、観客との間にこのような心のブリッジが掛けられていくことで、劇場は一体感に包まれていく。

続くナンバー「太平洋の浮き島」の楽曲に乗り、150年程前の日本の様子が活写されていく。そこでは、独特の美学と自然を愛する心を持ち、礼節をわきまえた優しい国民性が日本人の本質であると表現されていく。たかだか150年前の時代のことではあるのだが、遥か彼方の出来事かのような錯覚に襲われていく。開国以来、一体、日本人は何処に向かって生き急いできたのであろうか。そして、その向かった先の延長戦上にある今のこの世の中は、果たして日本の正しい在り方を指し示しているのであろうかなどと、様々な思いが頭の中を去来する。

1976年のアメリカ初演時と今とでは、受け止める我々の土壌が全く異なるため、本作は、当初、意図されていたコンセプトとはその伝わり方が異なっているのかもしれない。しかし、秀逸なクリエーターたちは、日本の本質を抉り描き出していたため、日本が今なお内包する問題点について、何ら乖離することなく、こういう時期だからこそかえって明確に浮き彫りにさらされた感がある。

開国を迫るアメリカを始めとする国々の圧力に、右往左往する日本側の対応がコミカルに描かれていく。そして、浦賀奉行所の目付役に取り立てられた香山と、アメリカに難破し日本に送り届けられたジョン万次郎とがタグを組んだ丁々発止の外交交渉の模様が嬉々として演じられていく。この二人の人物の描かれ方はフィクションではあるのだが、立場の異なる者同士がだんだんと打ち解け合っていきながら交渉に成功していく様は、まるで、バディムービーのような爽快感を醸し出す。

交渉はテント内でクローズな状態で行われたため、その様子を伝える術はないのだと語られる。しかし、木の上でその内部の光景を見ていた青年が、老年になってその時の様子を伝える「木の上に誰か」のナンバーが、グッと作品の視点と時空を拡大させる効果を生み秀逸であった。物語が一気にパースペクティブな振れ幅を持ち得た瞬間であった。

日本側の交渉団は艦隊を引き上げさせることに最初は成功するのだが、徐々に開国を迫る交渉が難しくなっていくにつれ、物語はだんだんと日本の深部の域へと斬り込んでいく。外国人に日本の地を踏ませてはならぬという禁が破られると、そうした前例のない解決出来ない問題に関しては、大名などストラクチャーの上の方へとその責任問題が遡っていくという社会構造が炙り出されることになる。しかし、究極の大本山である天皇は現人神ゆえ、別次元の存在として燦然と輝くアンタッチャブルな存在として筆致されていく。

そして、諸外国の人や文化が流入してくることにより、さまざまな軋轢が生じていく光景も描かれていく。洋服を身に纏い、ワインを飲みながら苦悩する香山の姿に、果たして何を見て取るのか。正解だと思う気持と、後悔の念とがないまぜになる、その思いが、まさに、今の自分の気持ちとリンクする。グッときた。

役者陣は誰もが素晴らしい。八島智人と山本太郎がしっかりと主軸に立ち物語を支え、語り部である桂米團治がしっかりと脇から物語を支えている。佐山陽規、畠中洋、戸井勝海、園岡新太郎、岡田正、石鍋多加史、そして、田山涼成らベテラン勢の厚みのある鉄壁な布陣が作品にしっかりとした重みを付け加えていく。

作品は、ラストのナンバー「ネクスト」で、強烈な印象を残して締め括られる。1976年当時、そこには、音を立てて次のステージへと発展し続けていく日本の希望が託されていたに違いない。しかし、2011年の現在、先行き不透明な情勢の中、3.11を経て、日本は、日本人は、今こそ変わらなければならない時なのだとうメッセージを本作は提示していく。「ネクスト」をどんな世界へと作り上げていくのかは、今を生きる私たちの双肩に掛かっているのだ。このズシリと重いテーマは、劇場を出て現実の生活に戻った瞬間から、それぞれの人間がこれからどう生きていくのかということを鋭く問うていく。2011年の時代の気分が反映された衝撃作であると思う。

本作「ベッジ・パードン」は、夏目漱石が1900年から1902年の間、ロンドン留学していたある時期に焦点が当てられた物語である。そこでは、「ベッジ・パードン」というあだ名を付けた下宿先の女中との出会いから別れが描かれると共に、漱石が作家としてデビューするまでの軌跡や、異国の地で異邦人が感じる葛藤など、あらゆる感情的な要素が盛り込まれている。

ここのところ、人間の暗部に分け入るアプローチが多かった三谷作品であるが、本作はソフィスティケートされたラブストーリーで、かつて東京サンシャインボーイズの頃に創作されていたような作品群を彷彿とさせられる。しかし、作品の中にはあらゆる趣向が詰め込まれており、そこはやはり一筋縄ではいかない様相を呈している。

まずロンドンのおける異邦人を描く際に、作家として最も気になるのは“言葉”の問題であろう。三谷幸喜はその問題をクリエイティブの一つの要素として、物語の中に完全に取り入れてしまう。

まず、冒頭のシーンで、野村萬斎演じる漱石と浅野和之演じる下宿先の主人との会話は英語で交わされるのだが、「観客の鑑賞の妨げになるので、英語の台詞を日本語で上演します」とのアナウンスが入り、台詞は日本語へと変換する。笑いが起こる。そして、漱石は、日本語で話される普通に交わされているはずの英語の台詞が、あまり理解できていないという態度を示していく。この姿が、また、可笑しい。

そして下宿者に大泉洋演じる日本人がいるのだが、「日本語で話そう」と懇願する漱石に根負けして、日本語を話し始めると、その相手はなんと東北弁。だから英語のままが良かったのだと大泉洋が嘆くのだが、この趣向で、新たな笑いが生み出されていく。また、深津絵里演じる女中と、やくざものの弟を浦井健治が演じるが、二人は同郷にも関わらず、姉だけ極端に訛りがあるところも面白い。多分、この二人のこれまでの生き様のサイドストーリーは、きっと三谷の中にあるはずに違いない。

もう一人、浅野和之はなんと11役も演じ、観客を多いに沸かせてくれる。早替わりの驚きと、次はどんな役で出てくるのかという期待感が作品に良い意味での緊張感を与えていく。そして、同一人物がこれだけの役をやるという意味が、ただ面白いを狙っただけではなく、作品内容に確実にリンクしているところが凄い。漱石は言う。「イギリス人が皆同じに見えてしまうんだ」と。こう落とし込んできたのかと、心に中で快哉を叫んでしまった。

ストーリーは、海外で一人ぼっちで暮らす漱石と、故郷を離れ孤軍奮闘する女中との間に、恋愛関係が生まれてくるという物語が紡がれていく。そこに、ビクトリア女王の逝去や、女中の弟が銀行強盗を企てるというエピソードなどを挟み込みながら物語は進んでいく。しかし、下宿先の夫婦の離婚により皆が下宿を出ていかなければならなくなったことや、銀行強盗計画が頓挫した弟が抱えた借金のかたに女中が水商売の道を次なる生き方として選んだことで、二人は離れ離れになってしまうことになる。異国の地に咲いた愛は、現実を前に、あがなえなくなってしまうという悲恋。キューンと胸が締め付けられるような展開だ。

処女作「吾輩は猫である」を執筆するに至る端緒などを描き、漱石が作家としてデビューする予感を感じさせながら物語は締め括られる。若さゆえの、希望に満ち溢れているからこそ持ち得ることが出来る未来の可能性が、甘酸っぱくもキラキラと輝いて見える、その時期特有の初々しさに感じ入る。種田陽平の繊細なタッチの美術が、作品にさらにふくよかなリアルさを付け加えていく。本作は、三谷幸喜が氏の原点とも言うべき、ハートウォーミングな“愛”を紡ぎ上げ秀逸である。

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