2010年 12月

佐々木蔵之介がプロデュースするチーム申は、前回に引き続き、前川知大の作・演出作品を引っさげてPARCO劇場に還ってきた。作品は3年前に同カンパニーで上演された作品に手を加えたものだということ。それ以外の事前知識は無いまま、作品と接することになる。

舞台上には無機質で地下牢のような、堅牢な部屋らしき空間が広がっている。壁には隣の部屋へと通じる幾つかのドアと、多くの書物が中央に堆く積み上げられ、周囲の壁にも多くの本が立て掛けてあるので、書架のような雰囲気も醸し出す。そこで展開されるのは、輪廻転生の話。ぽつねんと登場する大杉漣と佐々木蔵之介であるが、過去、幾たびか、違う姿で出会い、深い関係性があったということが、物語が展開していく内に、だんだんと紐解かれていく。

キーとなるのは、周囲にある書物。そこには、これまで、何回にも渡り生死を繰り返してきたその時々に、この二人がどのように生きてきたのかが記されているようであり、二人がその書物に同時に手を触れると、その時代へとタイムスリップしていくという仕掛けになっている。医者であった佐々木蔵之介と、どうやらその医者と何らかの関係があった大杉漣とが、出会い、そして再会するという幾つかの段階を経ることで、だんだんと過去の出来事が露呈されていく。単なる接点などではない。実に深い、しがらみ、である。SFチックな設定であるが、だんだんと無意識へとダイブする心理劇の様相を呈していく。

この独特の世界観を作り上げるために、企画者である佐々木蔵之介と作・演出を受け持つ前川知大とが創作過程で拮抗し合い、双方のクリエイティビティーを最大限に引き出し合っているのが見て取れる。これに大杉漣が加わることで、さらに良い意味での緊張感が加味されていく。演出家が作品コンセプトを設定し役者を指導していく作品というのは数多く見掛けるが、こうした共同作業の体を示す演劇作品の肌触りは、知力が感じられるところが面白い。アイデアを搾り出している感が作品全体から溢れ出てくるのだ。そうすると観ている私たちの知的興奮も大いに掻き立てられることになる。この知性が、チーム申の醍醐味であると思う。

そして、美術、音楽、照明、音響、衣装など各スタッフたちも、その才能を遺憾なく発揮していくことになる。演出家の要望にどう応えるかという方向性だけではなく、それぞれが作品全体を自分の視点で捉える中で、自分のパートをどう構築していくと作品のクオリティーがアップしていくかという思いに執心しているようなのだ。故に、バランスの良い絶妙な均衡を作品に与えることになる。こういったスタッフワークは、観ていても実に心地良い。

物語が展開していく内に、二人は、前々世では親子であったことが分かってくるのだが、そこで起こった痛ましい事件が確執となって代々連鎖していたことが判明する。人生の復習をするということは、復讐を断ち切るためのレッスンとなっていくのだ。作品を観ながら、自分が、今、此処に存在しているという意味を自らに問い直していくことにもなる。静かに心に染み込んでくるこの寂寥感と、それと相反するかのような希望に満ちた未来が同時に襲ってくる。

ラストシーンが印象的だ。もう次の世代では俺に関わるなと言い合った二人が、これまでとは全く違う姿で渋谷のスクランブル交差点ですれ違うのだ。ふと、何かを感じ合う二人だが、スッとすれ違い、そして、離れていく。そうだ、皆、どこかで繋がっていたのかもしれないし、それに気付いていないだけなのかもしれないのだ! そこに、世の理の不可思議さと驚異を感じつつ、精神をシャッフルされたかのような心地良い余韻は、帰路、渋谷駅前のスクランブル交差点で、ふと、甦ってくることになる。後引く旨さが残る逸品である。

大正の新劇創世記の時代が舞台となった宮本研の戯曲がフレッシュに現代に甦った。100年の時の隔たりをブリッジする役割は、演出家・蜷川幸雄が担っている。蛍光灯が仕込まれた約20基の水槽に入った老人たちを、現代の若者がゆっくりと押して出てくるというのがオープニングのシーンだ。この戯曲に登場するかつての若者を老人に見立て、これからその物語を再生するさいたまネクスト・シアターの若い役者たちが、その者たちを呼び起こすかのように劇場に運び入れ、そして皆はそれぞれ舞台袖へと消えていくという趣向だ。今昔の時を、この場にギュっと凝縮するという演出コンセプトが明確に伝わるスタートダッシュになった。観客は、まずアタマで、この時間軸の捻転を理解する。

美しく、そして、明確な意図が示されている見事な幕開きなのだが、何故か既視感を彷彿とさせられることにもなっていく。この水槽、「零れる果実」以来、度々、蜷川演出作品に登場しており、また、音楽に関しても「キッチン」以来これも使用頻度の高いシガーロスのメロディーが劇中の其処個々に流れるとなると、両パーツは大きなアクセントとして使われているが故に、かつて観た作品がアタマの何処かで思い出されてもくることにもなり、新鮮な驚きが薄まってしまうのは否めない。まっさらな気持ちでいつも上演作品には接しているが、切り札が同じであれば意識はそこに引っ掛かりを覚えてしまうのだ。この作品の演出意図としては、正しいのかもしれない。しかし、蜷川作品が初見の人でなければ、そう感じる人もいるということを言い添えておきたい。

本作を観ていて感じたのが、私には思想がない、ということであった。登場人物たちは、演劇を通じて、世界を見て、また、社会に対する反発も醸成させていく。そこには、さまざまな思想や活動があり、投獄され死刑に処せられた者もいる。そういった状況と現在とを照らし合わせてみると、それぞれの時代に生きる人々の意識が大きく乖離していることが明らかになっていくのだ。演じる役者たちが真面目で従順な若者であるが故に、その意識の断層は一層クッキリとした様相を呈していく。

自分に思想がないことが明白になってしまったので偉そうなことも言えないが、反発心のない若者が、反骨する志を演じようとしている姿を見て、そう気付かせてくれたのだと思う。演出の力技で作品のフレームワークはきっちりと作られているのだが、反体制意識が社会を覆っているという、そのリアルさを現代の若者の身体に通していくことは、非常に困難なことなのであるのだなと感じ入る。

しかし、演出の手捌きは、しなやかに若者の資質を活かす方法を採っていくことになる。社会性をことさらフューチャーさせることなく、登場人物それぞれが抱えているピュアな感情を表現の機軸としていくのだ。登場人物の核心に眠った心の内を紐解き、台詞に意識を集中させていくことで、その人物の本心を炙り出していく。会話や対話が交わされる一見静かなシーンが、ズシリと胸に迫る。

野枝を巡る新旧夫婦であるクロポトキンと幽然坊たちの会話から立ち上る無常感、成功者である島村抱月と対峙する学生との対話は、体制側とそれを批判する若者像の姿を普遍的な関係性の在り様として捉えて印象に残る。後半、こうした、会話のシーンが続いていくと、表面的な時代性はだんだんと剥ぎ取られ、人間の生き様自体が大きくクローズアップされて見えてくるようになる。

ラスト、オープニングと同様、水槽が登場し、大正という時代を生きた若者たちはその水槽の中に身を投じていく。さて、皆はこれから何処に向かうというのか。そのまま現代へと運ばれてくるのか、いつか孵化することを目指し揺籃され続けるのか。観客に何か問題を突き付けるというよりは、登場人物たちのその後の行方についつい思いを馳せるような共感性を残しつつ、未来を切り拓いていく人間の大いなる意思の大切さをも感じさせ幕を閉じる。今、このカンパニーにある資質を最大限に活かし切ることができた、珠玉の作品に仕上がったと思う。

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