さいたまネクスト・シアターの俳優たちは、皆、オーデションで選ばれたわけではあるが、その後、即、公演を行うというその展開の速さには驚いた。このプロジェクトは彩の国さいたま芸術劇場の開館15周年記念という位置付けで、当初より予定されていたことではあると思うのだが、実際に公演を実現させてしまうというのは、やはりプロジェクトを率いる蜷川の功績が大きいと思う。それだけ制作やスタッフの磐石な体制が整っているというとなのであろう。
本公演はその演劇を創る現場の人々、ゲストで出演している俳優さんたちも含めて、その優秀さが際立った公演であったと思う。そのプロの集団の中に、まだスタートし始めたばかりの若者が放り込まれるカタチとなり、混沌としたカオスな状況を創出している。体裁は整っているのだが、中身は常に落ち着きどころを探している状態で、不安定に揺れている感じなのだ。その危うさが、戦国時代末期の若者の真情とクロスするとみるか、乖離しているとみるかは、受け手次第なような気がする。そう思うのは、やはり、若者たちはピュアな資質を持ってはいるのだが、明らかに技量がまだまだ“若い”と感じたからだ。
舞台上に敷き詰められた泥は、若いさいたまネクスト・シアターの面々が、この戯曲と真正面から対峙でするための仕掛けとして、蜷川が仕掛けたノイズである。砂や水を使うことは度々あったが、蜷川演出で泥を使うのは「南北恋物語」以来であろうか。このリアルにそこにある異物と役者たちが格闘する中から隠れた本能を引っ張り出そうという装置であると共に、江戸時代の整備されていない街の泥臭さも表現していく。観客も泥がいつ飛んでくるかもしれないといった緊張感を持つこととなり、会場の気持ちをひとつに繋ぐ役割も果たしている。泥が幾重もの意味を持ってくる。見事、である。
福田善之の台本は1962年の初演時には、安保闘争と重なって見られたというが、今、上演されたこの作品を観ると、体制を否定的にみる思いや、このままでいいのかと悩む心情など、若者が抱える普遍的な思いが貫かれていて、秀逸である。物語の核となる真田十勇士以外の、武士や農民の若者ひとりひとりの思いにも焦点を当て、物語は重層的になっていく。
物語の世界がグッと収縮していくのを弾け飛ばすように、彩の国さいたま芸術劇場の客席を使った演出が見事である。今、観客が居る場所は実は彩の国さいたま芸術劇場大ホールの舞台の上であり、ホールの客席側に向いて座っているわけである。故に、前方の屏風絵が開かれると、その向こうは通常の観客席が背景となって見えてくるのだ。物語の節目で時折その壁が開くと、その舞台端ではカルテットが生演奏をしている光景が現れてくるのだ。観客をサプライズさせる仕掛けがここにも仕組まれている。
やはり、ゲスト出演者の、横田栄司、原康義、山本道子、妹尾正文、沢竜二の方々は、安定した軽やかな芝居で、作品を節々からしっかりと支えている。若者が熱くストレートなので、ここでもベテランの力量が浮かび上がってくることになる。若者は、川口覚や隼太などに、今後の期待を感じた。
次回はどういう演目が選ばれ、さいたまネクスト・シアターの面々が取り組んでいくのかが楽しみだ。ある意味、若さを最大のウリにしたストレートな熱さは、本公演で披露してくれたわけである。この面々から今回とはまた違ったどのような側面を引き出していくのかが蜷川の手腕の見せ所であろうし、役者の皆も役と物語に対するアプローチ方法のバリエーションをどれだけ増やしているのかが観たいポイントでもある。いいプロジェクトだと思うので、継続していって欲しいと思う。
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