物語は、舞台が溶明すると、松たか子の独白からスタートする。人魚という設定の松たか子であるが、野田秀樹がアンデルセンの様な童話を標榜しているとも思えない。最近の野田秀樹の新作は日本の歴史の暗部を抉り出す秀作を多く生み出してしているため、伏線になるであろう台詞に耳目を注視させながら、物語の展開の行方を見守っていくことになる。
登場人物たちは、人魚の世界と現世とを行き来しながら物語を推し進めていく。現世の舞台となるのは水中水族館。警備員を阿部サダヲ、電報を届けにきた瑛太、資産家の池田成志、その娘を井上真央、水族館の従業員を満島真之介が担っていく。人魚の松たか子の母を銀粉蝶が、野田秀樹は柿本人麿ならぬ魚麻呂なる役名で、真理を解明する役目を背負っていく。
タイトルとして冠されている「逆鱗」とは、触れてはならないものに触れて怒りを買うというような意味合いであると思うが、所以を辿ると、伝説の竜が持つ81枚の鱗の内、顎の下に1枚だけ逆さに生える鱗のことを指すのだと言う。野田秀樹はその伝承を掬い取り、物語の根幹へと忍び込ませる。
逆さまの鱗が持つ様な違和感が物語に次第に蓄積されていき、その鬱積が「怒り」へと転じていくことになるのだが、そこに至るまでのプロセスを深刻さに陥らせることなく、観客が楽しんで享受できる展開を示していく。言葉や駄洒落の韻や洒脱を手玉に取りながら身体能力の限界を突き詰めていた、かつての野田秀樹芝居の醍醐味が堪能でき嬉々とする。
物語が帰着点へと向う軌跡を早々に現さないため、旬の役者たちが放つ魅力や、演技を熾烈に闘わせるエンタテイメントの楽しさを味わうことができる。役者陣のアンサンブル具合が、実に良い。誰もが突出し過ぎることなく、お互いがお互いを認め合いながら、ぶつかり合っていく様が心地良い雰囲気を観客に届けてくれるのだ。
その中でも、松たか子は中心にカンパニーの中心に立ち、物語を牽引する力強いパワーを発揮していく。瑛太は舞台経験を重ねる内に、幾重にも重なる役柄の複雑な感情を多くの観客に届ける技を身に付け成長著しい。阿部サダヲの安定感ある飄々とした存在感は、作品にいい意味での軽妙さを与えていく。井上真央は大河主演後に続く登壇であるが、ザコという役名も可笑しく、我儘なお嬢様振りも板に着き自由奔放に演じきる。
池田成志の矮小な尊大さ、満島真之介の明るい深刻さ、銀粉蝶の達観した視座に、野田秀樹の存在そのものが、それぞれ際立ちながらも融合していく様が見事である。また、井手茂太が振り付けるカンパニーの皆の立ち振る舞いは、役者のそれではなくまさにダンサーだ。海に棲むものたちの群像がシーンとシーンとをつなぐ、アーティスティックなアクセントとなり美しい光景を紡ぎ出す。
シーンの美しさが印象に残れば残る程、事の顛末の悲惨さが浮き彫りになっていく。物語は、急転直下、坂道を転げ落ちるように、地獄の淵へと雪崩れ込んでいく。時代は戦中へとスパークし、人魚は人間魚雷と変換する。青年たちは“人魚”に包まれ、敵機へと続々と突進してくのだ。贖うことができない運命に驚愕しつつ、思わず涙している自分を発見する。何故、こんなことが行われていたのだという「怒り」が頭をもたげてくる。まさに、「逆鱗」である。
野田秀樹はまたもや戦争の無謀さ、無意味さを暴いてみせた。それは、悲劇を決して繰り返してはならないという、現代の世界に向けての警鐘に他ならない。野田秀樹の憂いは、鎮魂というちんまりとしたカテゴリーに納まることなく、喜劇的な様相を装いながら描かれるところが秀逸である。
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