2016年 1月

物語は、舞台が溶明すると、松たか子の独白からスタートする。人魚という設定の松たか子であるが、野田秀樹がアンデルセンの様な童話を標榜しているとも思えない。最近の野田秀樹の新作は日本の歴史の暗部を抉り出す秀作を多く生み出してしているため、伏線になるであろう台詞に耳目を注視させながら、物語の展開の行方を見守っていくことになる。

登場人物たちは、人魚の世界と現世とを行き来しながら物語を推し進めていく。現世の舞台となるのは水中水族館。警備員を阿部サダヲ、電報を届けにきた瑛太、資産家の池田成志、その娘を井上真央、水族館の従業員を満島真之介が担っていく。人魚の松たか子の母を銀粉蝶が、野田秀樹は柿本人麿ならぬ魚麻呂なる役名で、真理を解明する役目を背負っていく。

タイトルとして冠されている「逆鱗」とは、触れてはならないものに触れて怒りを買うというような意味合いであると思うが、所以を辿ると、伝説の竜が持つ81枚の鱗の内、顎の下に1枚だけ逆さに生える鱗のことを指すのだと言う。野田秀樹はその伝承を掬い取り、物語の根幹へと忍び込ませる。

逆さまの鱗が持つ様な違和感が物語に次第に蓄積されていき、その鬱積が「怒り」へと転じていくことになるのだが、そこに至るまでのプロセスを深刻さに陥らせることなく、観客が楽しんで享受できる展開を示していく。言葉や駄洒落の韻や洒脱を手玉に取りながら身体能力の限界を突き詰めていた、かつての野田秀樹芝居の醍醐味が堪能でき嬉々とする。

物語が帰着点へと向う軌跡を早々に現さないため、旬の役者たちが放つ魅力や、演技を熾烈に闘わせるエンタテイメントの楽しさを味わうことができる。役者陣のアンサンブル具合が、実に良い。誰もが突出し過ぎることなく、お互いがお互いを認め合いながら、ぶつかり合っていく様が心地良い雰囲気を観客に届けてくれるのだ。

その中でも、松たか子は中心にカンパニーの中心に立ち、物語を牽引する力強いパワーを発揮していく。瑛太は舞台経験を重ねる内に、幾重にも重なる役柄の複雑な感情を多くの観客に届ける技を身に付け成長著しい。阿部サダヲの安定感ある飄々とした存在感は、作品にいい意味での軽妙さを与えていく。井上真央は大河主演後に続く登壇であるが、ザコという役名も可笑しく、我儘なお嬢様振りも板に着き自由奔放に演じきる。

池田成志の矮小な尊大さ、満島真之介の明るい深刻さ、銀粉蝶の達観した視座に、野田秀樹の存在そのものが、それぞれ際立ちながらも融合していく様が見事である。また、井手茂太が振り付けるカンパニーの皆の立ち振る舞いは、役者のそれではなくまさにダンサーだ。海に棲むものたちの群像がシーンとシーンとをつなぐ、アーティスティックなアクセントとなり美しい光景を紡ぎ出す。

シーンの美しさが印象に残れば残る程、事の顛末の悲惨さが浮き彫りになっていく。物語は、急転直下、坂道を転げ落ちるように、地獄の淵へと雪崩れ込んでいく。時代は戦中へとスパークし、人魚は人間魚雷と変換する。青年たちは“人魚”に包まれ、敵機へと続々と突進してくのだ。贖うことができない運命に驚愕しつつ、思わず涙している自分を発見する。何故、こんなことが行われていたのだという「怒り」が頭をもたげてくる。まさに、「逆鱗」である。

野田秀樹はまたもや戦争の無謀さ、無意味さを暴いてみせた。それは、悲劇を決して繰り返してはならないという、現代の世界に向けての警鐘に他ならない。野田秀樹の憂いは、鎮魂というちんまりとしたカテゴリーに納まることなく、喜劇的な様相を装いながら描かれるところが秀逸である。

「元禄港歌」は1980年と1984年の上演は拝見しているが、1998年~2000年のカンパニー公演は未見である。本公演は、「近松心中物語」で絶賛された、秋元松代作、蜷川幸雄演出の続作として、東宝で企画された同作の、15年振りの公演となる。1982年には3部作の終章「南北恋物語」が上演されたが、同作の再演はその後ない。面白かったのになあ。

男女二組の恋模様が中心に描かれたこれまでの上演作からキャストが一新されたことにより、作品の趣きは一変した。なるほど、演じ手が変わることにより、こういう風に作品は変転していくものなのだと感じ入ることになる。

ピンを張るのは、市川猿之助。これまでは、嵐徳三郎や藤間紫が演じてきた役柄である。その所以からすると正統的な継承であると思うが、同役は、以前は漂泊しる男女二組の生き様を脇から支える存在であったと記憶している。しかし、本作においては、作品全体を底辺から支える“母”の様な在り方で、物語の中心に聳え立つ。

今さらながら、秋元松代が創造した戯曲の緻密さに驚嘆せざるを得ない。どの人物も端的で過不足なく描かれているため、誰がクローズアップされてもおかしくないことに気付かされることになる。頑強な筆致で構築された世界で、当代一流の演者たちが、見事なアンサンブルを織り成していく。

更に驚いたのが、物語の凝縮度合。言い換えれば、場面の端折り方である。そういう感情に変化していくには、もう二、三場、シーンがあってもいいのではと思うくらい、登場人物たちは迷わず、自らの信念をどんどん貫き通していくのだ。外野の意見になどに耳を貸すことない人間たちの生き様が融合すると、この上ない疾走感が作品に生まれていく。この登場人物たちの感情は、作者の資質とも呼応するのではないかとも邪推する。

瞽女の女芸人を率いる糸栄を市川猿之助が演じ、瞽女の初音を宮沢りえ、そして、目に明るい瞽女歌春を鈴木杏が担い、廻船問屋大店長男の段田安則が初音と、次男の高橋洋が歌春との運命的な恋に堕ちていくことになる。しかし、身分の差異などによる障害が横軸として挟み込まれていく。

物語は、繁栄する者とその陰で生きる者とが共存して描かれていく。富む者が権力を掌握し、流浪の身とは言え瞽女は歓迎されるが、念仏信徒一行は道を横切るだけで疎まれる情景が活写される。元禄、昭和という時代を経て、現代であるからこそリアルに感じる“格差”あるいは“差別”がしかと刻印されており、作品が内包する普遍性が浮き彫りにされる。

市川猿之助は、女方で培った所作や立ち振る舞いが美しく、思わず目が惹き付けられる。物語の終盤には、心の内底に沈殿した思いをマグマの様に噴出させ、作品をクライマックスへと昇り詰めさせ圧倒させられる。同じく母を演じる新橋耐子は、廻船問屋に生まれた出自を醸し出しながら、二人の息子への異なる情感を分かりやすく表現していく。

宮沢りえの艶やかさは作品に煌きを与えていく。盲目や津軽三味線もすっと身体に染み込ませ、物語の中心に立ち観客から涙を絞り取っていく。段田安則が運命の男を担っていくが、恋へと傾いていく感情の飛躍にもしかとリアリティを与え、揺れ動く男の感情を繊細に紡いでいく。真情を内包した鈴木杏の複雑な思いや、その思いの相手である高橋一生の次男坊の奔放さ、あっけらかんとしたはじけ具合も印象に残る。兄弟の父の市川猿弥の何事にも動じることのない存在感は、かつて確かに存在していた父親像がしかと描写され郷愁さえ感じさせる。

美空ひばりの歌声が、観劇後も耳にこびり付いて離れない。作品の彼岸に回り込み、そこからこの劇世界を俯瞰して眺めるような視座で言霊を放熱していく。初演当時、群衆、花、そして音楽を三種の神器と標榜していた蜷川幸雄の意図は、古びることなく現代に生きる人々の心の琴線を、今も揺り動かしていく。

弟・高橋一生を恨む男が振り撒いた毒薬に目をやられ失明してしまう兄・段田安則の顛末は、まさに「オイディプス王」だ。贖うことが出来ない運命に翻弄される人間が抱える普遍的な哀しみが憐れを誘う。悲恋物語を通して様々な価値観の相克が描かれ、誰もが誰かに思いを重ねることが出来る秀作であると思う。終始、舞台に振り落ちる椿の花の美しさも、決して脳裏から離れることはないだろう。

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