2008年 3月

「パレルモ、パレルモ」は衝撃的な幕開きだ。今まで噂には聞いてはいたが、実際のこの演目が観れるとは、観る前からドキドキものであった。

開演のベルが鳴りしばらくすると真紅のベルベットの緞帳が左右にスルスルと開いていく。すると、灰色の巨大な壁が立ちはだかっている。高さ5m、幅14mあるらしい。1~2分位であろうか、全くの無音のまま、壁は威容に聳え立ったままだ。すると、何の前ぶれもなく、その壁はそのまま舞台奥の方向にいきなり崩れるのだ! いきなり廃墟。その崩壊の仕方だが、意外にバラバラに散逸することはなかった。崩れて分かったのだが、壁はブロックの積み重ねで構成されていたようだ。黒服のスタッフの方々がダンサーたちと混じり、ブロックの位置を直したりして、その場を整えていく。ステージはそんな中スタートしていく。

パレルモに行ったことはないが、ヴィスコンティの「山猫」に見るシチリアの風景は砂と埃と風が印象的であったが、その空気感と、シチリアの地に刻まれてきた遠大な歴史の重みを表現していく方法として、こういう場を作り出すことになったのであろう。決して崩壊が主題ではない。大地からエンパワーされる人々の底知れない逞しさが、のっけから強烈に叩きつけられてくる。

様々なエピソードが紡がれ、微笑ましくも逞しい人間たちを描写する構成の見事さは、ピナの真骨頂である。特に印象的だったシーンなのだが、背景に青空と雲が拡がる舞台手前に6台のピアノが並べられ、そこに昭和音楽大学の学生も混じった6人の男性奏者が現れ、ピアノに向かい、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番の一部を連弾する、そのシーンである。1つのことを同時に奏でていくということ。言葉も説明もないのだが、ジーンと胸が締め付けられ目頭が熱くなっていった。何故なのかが、自分にも分からない。ただ、こういうシーンに出会うために、ステージを見続けているのだなあ、と漠然とその光景を注視する自分がいた。

ラスト、男性ダンサーと女性ダンサーがそれぞれ横1列に並び、アタマの上に林檎を載せ舞台前にゆっくりと進み出てくるシーンも強烈だ。無言で訴える何かを感じ取るのは、観客それぞれの感性に委ねられていく。理解と不寛容。このことがアタマの中を駆け巡る。

「フルムーン」は、また、趣を変えた出だしである。岩だけがある空間に男性ダンサーが2人現れると、手にしたカラのペットボトルを、手で振り上げ振り下ろしていく。観客はその行為と、微かにそのペットボトルの口が奏でる音に集中していく。一挙にステージの1点に観客の意識を向けていく。幕開きのこの見事さ!

「フルムーン」は、水の舞台であった。舞台後方に左右幅一杯に水を湛え、まるで川のような設えである。題名にあるように、満月と水との密接な関性を彷彿とさせるが、人はこの自然の驚異の中で自由に自分を解放し本能を露わにしていく。水がその媒介として大きな役割を果たしている。雨が降りその下で乱舞し、バケツを持ち出し満々と湛えられた水を掛け合い、まるで子どものように騒ぎ出す。童心が疼き出す。

この掛け合う水が、弧を描いて空中に撒かれる様は、もう何にも例えようのない美しさに満ち溢れている。そこには、照明のテクニックを駆使した仕掛けもきっとあるはずであろうが、まるで水が生きているかのように飛び跳ねているのだ。高速度カメラでも使っていれば別であろうが、裸眼なのに、まるでスローモーションのように、水の一粒一粒に生命が宿っているかのように見えるなんて、これは、驚異、である。

一生、忘れられないようなものを、また、見てしまった。カーテンコールのピナは相変わらず謎めいた微笑みを浮かべていた。その超然とした姿に、また、涙してしまうのだ。もう、泣き虫野郎である。でも、絶対的な、美、を前にしたら、もう、涙するしかないでしょう、と自問自答の私でありました。

何だか日本の持てる才能を集結させたかのような、劇場のオープニングに相応しいと言えば相応しいスタッフィングである。出演者もジャンルや出自を敢えてバラバラに選定したかのようなキャスティングであり、アーメイの出演によりアジア圏からの来場も見込めるといったように、ターゲットを絞るというよりは、幅広い観客の興味を喚起させようという企画意図が見てとれる。

祝祭音楽劇と謳っているように、演劇ともミュージカルとも異なるフェスティバルのようなその華やかさに圧倒されてしまう。金に糸目をつけずにステージを作ると、こういうものが産まれるのだという大規模な実験のようでもある。故に、各パートの制作時間も多いに掛かっているであろうし、これまで様々な大勢の人々が関わってきたのだと思う。その色々な要件や人材をうまく使いこなし、作品としてひとつに集約していったのであろう、演出の宮本亜門の力技にとても感服した。何だか、作品の内容ではなく、その周辺のことばかりに関心が向いてしまうが、作品のウリのコンセプトが、そこ、にあるのだから致し方あるまい。

だからといって作品が面白くないというわけではない。物語は、プッチーニの同題名作品オペラを独自に翻案していったものである。そのストーリー展開のエッセンスを掬い取り、主要人物を適宜に配置して、誰もが楽しめるような工夫を凝らしていく。ちょっと台詞を聞き逃すと内容が分からなくなるなんてことは決してない。それぞれの登場人物たちが、その場その場で歌い上げる心情が大きなうねりとなり、少しずつ接点を持ちながら連鎖していく。

久石譲の音楽は、コロコロと展開する運命に翻弄される人々の熱い思いを、ストレートに確実に観客に届けていく。歌が主役、なのである。ここでは、演劇の濃密な台詞劇などを期待してはいけない。祝祭音楽劇と謳っているように、流転する人生を謳歌し、前向きに生きていく希望の明日を歌に感じ取り、思い切り楽しむことが出来ればいいのだ。さらには、ワダエミの衣装である。1点1点が全てオリジナルであり、しかも一流の職人に手に掛かった芸術品である。目にも鮮やかな衣装は、心までゆったりと贅沢な気分にさせてくれる。

岸谷五朗はこの一大イベントの中心軸にいて、全くぶれることがなく、物語全般を牽引していく。中村獅童は、その岸谷五朗という大黒柱に対峠するポジションにて、悪者の役回りを悠々と演じた。アーメイは、そのふたりの間で揺れ動く女心が愛おしいが、正直、言葉の壁を感じないではなかった。感情の表出に、多少の、壁、を感じた。早乙女太一は独特の色香を放ち、安倍なつみのとても分かり易い直球の感情表現は、アイドル時代に多くの観客を前に培ったのであろう実力をシカと見せつけた。

五感を刺激されるこの絢爛豪華な舞台は、万人の心を掴むであろう。しかし、作品のどこかに、えぐられるような心の痛みとか、突き刺さる悲しみといった、観終わった後にまで余韻を引きずるようなヒリヒリとした後味をもう少し感じさせて欲しかった。しかし、ビジュアルの強烈さは、未だに目にも鮮やかに思い起こすことができる。いや、これが、宮本亜門演出が人気である所以なのかもしれない。私は多くのことを望み過ぎているのであろうか?

藤原竜也のデビュー作である。その時の公演とその再演。遡ること、武田真治のバージョンまで全て観てきたが、主役である身毒に対する捉え方は全て違っている。武田真治は、半分大人になりかけた青年であった。それが藤原竜也に代わり、その時の実年齢故か、身毒は少年になっていた。そこから10年。同じ藤原竜也でありながら、今回の身毒は、男、になっていた。

白石加代子演じる撫子と初めて会うシーンの身毒と撫子は、「近松心中物語」の忠兵衛と梅川の出会いの時のように、見つめ会うその姿は、男と女以外の何者でもない。一瞬、その場がストップし、凍りついたようにふたりの身体は硬直してしまうのだ。あらかじめ予期されていたかのような出会いにも思え、運命、を予感させるシーンである。

身毒は撫子という新しい母親に一向に馴染むことはないが、自分を産んだ本当の母親が忘れられず、土足で自分の家に入り込んで来たかのような他人の撫子を拒否しているだけではない、その心の奥底にある、ヒリヒリと疼く身毒の深層心理が、今回は見え隠れする。訳なくどこかで惹かれる現実を振り払うがごとく、愛憎が整理出来ないまま混然として、撫子に辛くあたってしまうのだ。

白石加代子演じる撫子が捉える身毒は、あくまでも子供であると思う。運命の愛を感じながら否定する身毒と、母親の愛情が少しずつ女の愛へと変わっていく撫子の気持ちの推移のズレと融合が、今回の見所であろう。但し、繊細で微妙な感情を紡いでいくため、演じる方も観る方も、ウカウカして何かの感情をツイツイ見逃してしまったりすると、ふたりの心情が途端に分からなくなってしまう危険性も秘めている。他人同士が、本当の親子以上の絆で結ばれていくというこれまでのロジックに加え、男と女の感情が横軸で織り込まれていくのである。複雑な心理劇の様相を呈してくる。

藤原竜也は、声色も低く落ち着いた台詞廻しで、動作もあえて状況に俊敏に反応し過ぎない冷静さで、大人の男としての身毒を造り上げていく。家族合わせのカードを引き合うシーンでひとりのけものになった後なども、以前は自分の存在感を主張する気持ちが全面に出て母親のカードを振り飛ばしていたと思うが、今回はグッと気持ちが内省化し哀しい思いにいたたまれずカードを振り落とすという具合である。

白石加代子は少ししっとりとした女のヒダを随所で感じさせてくれた。後半、鬼の形相になり身毒に立ち向かうシーンでも、以前よりも激しい気持ちが抑えられているような気がし、本音を言えない身毒というパートナーへの苛立ちにも見えてくる。品川徹の父は枯れた老人の佇まいを見せ、石井愃一の気風の良さが舞台に一陣の風を吹き込み、蘭妖子は寺山修司のイコンとしてクッキリと印象を残していく。

蜷川演出も基本プランは変わらないが、終盤、幻想の人々が乱舞するシーンや、プロローグ、エピローグなども、驚かせ弾けまくるというよりも、ベクトルを身毒と撫子へと向かわせるためのひとつの状況として捉え、ヒタヒタと忍び寄る静けさすら感じさせる寂寥感に満ちていた。

今公演は、ともすると破綻する危険性を孕むことで、よりスリリングな要素を獲得したとも言える。以前の焼き直しではなく、役者の成長と共に確実に変身を遂げていて、見応えある大人のドラマに変質していたと思う。

1993年、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した同題名作品を音楽劇として再生させた作品である。映画版は濃密な感情や目まぐるしく変化していく社会情勢の混沌が大きなうねりとなって、観る者を圧倒させる壮大な叙事詩であったが、本作ではそのエッセンスが汲み取られ、エピソードによって紡がれていく美しい織物のようなテイストであった。

オープニングのシーンで、まずは、グッと気持ちを鷲掴みされた。舞台奥から母親に追いかけられ逃げて来る幼い頃の主人公がスローモーションで現れる。捕まった主人公は6本ある指の1本を刃物で切り落とされる。異形が封じ込まれる! 途切れることのない序曲。その後も、京劇の学校へ追いやられた主人公のエピソードを、映画のフラッシュバックのようにドンドンとスピーディーに見せていく。京劇の稽古のシーンも織り交ぜながら、ダイナミックに描かれるプロローグは刺激的だ。

岸田理生の脚本は、物語をとことん突き詰めその核となる感情や出来事だけを抽出してく。つながっていく次なるシーンに感情をブリッジしていくのも限られた台詞の中で演じなければならず、また、その感情の高まりを歌で表現していくため、役者がその役柄に感情を込め、かつ、一貫性を保ちながら演じていく作業がとても大変であろうと感じた。その場で沸き起こる感情とは別の、物語の進行を司る通低音のような一貫した視点を持ち合わせて演じなければ気持ちが伝わってこないのだ。しかも、気持ちを伝えたいけど伝えられない、話すこととは裏腹の思い、思ってもいないことを言わなければならない苦痛などなど感情は幾重にも重なっており、またその流れを分断するかのように、中国民衆のアジテーションや、日本軍の横槍などが挿入されるので、感情の行き場がクルクルと変わり、ひとところに留まろうとする観客の意識を次から次へと翻弄していく。

観客は、東山紀之の一挙手一投足を、固唾をのんで見守っていた。会場はシンと水を打ったような静けさであった。華があり、揺らぐ心を演じて繊細だが、秘めたる思いを表出させるという難解で屈折した役どころに、未だ馴染みきっていない感があった。いまひとつ感情が観客にまで届かないのだ。故に、同情も反発もなく、溢れ出る心揺さぶられる思いが紗幕の向こうで留まってしまい、ただ時代に翻弄されるひとりの男を目撃しているような感じなのである。もっとグッと心を突き刺してきて欲しかった。

遠藤憲一は体躯がでかくインパクトがあり、野放図だがデリケートな二面性をうまく演じ分けていたが、歌が多少苦しい気がした。西岡徳馬は東山紀之を寝床へと誘う役どころだが、カラッとしていて陰湿な感じが全くない。強引に誘ったというよりも、避難してきた小鳥をかばうがごとく、慈愛に満ちた大きさを感じさせてくれた。木村佳乃は、サバサバとしていて美しいが、微細に心移りゆく心境の変化など感情が少し分かり難い。

終盤、様々な者が不幸な顛末を迎えるのだが、その後、再度、オープニングの幼少の頃のシーンがリフレインされてくる。もしかしたら、こんな悲惨な物語は幻や夢ではなかったのか。現実に起きたことではなかったのではないか。精一杯に生き抜いた皆々の原点に回帰することで、オープニングと全く同じシーンではあるのだが、白昼夢とも、走馬灯ともとれる、懐かしさと甘酸っぱさが詰まった皆が我武者羅だった頃の空気感が立ち上ってくる。中国近代史の横軸も織り交ぜながら、変われない、いや、揺るがぬ生き方を貫いた者に向けての、まさに鎮魂歌であった。オリンピックの入場行進であろうアナウンスがうっすらと流れる中、これからの中国が、日本が向かうべき道について、ついつい思いを巡らせてしまう自分がいた。

最近のコメント

    アーカイブ