2013年 11月

蜷川幸雄が劇団青俳時代に、稽古場公演として演出に取り組んだ最初の作品が同作。作者・ヴォルフガング・ボルヒェルトは、1921年、ドイツのハンブルグに生まれた。19歳の時に劇団に入るが、間もなく徴兵され対ソ戦線に赴いた。戦地で負傷し、ナチスの反対言動で投獄を繰り返し、終戦でフランス軍捕虜となるが、護送中に逃亡し、600キロの距離を歩いて故郷に帰還したという。

作品には、自らが抱いた思いや、実際に経験した出来事などが反映されている。ギリギリにまで追い詰められた兵士であった作者が吐露する慟哭が、観る者にもヒリヒリとした触感を与えていく。この若者特有の繊細なアジテーションが、年齢を同じくするさいたまネクスト・シアターの役者陣の真情と上手くシンクロする。蜷川幸雄の意図が、見事に開花する。

約100席程の自由席の観客席に座っていると、オープニングは大稽古場外の通路から始まる旨が係員から伝えられ、観客は通路に設えられた椅子席にてんでに着くことになる。すると、通路の彼方から、負傷した兵士たちがゆっくりとこちらに向かって歩み寄ってくる。心身共に疲弊した兵士が背負う苦悩が胸に突き刺さる。一行は、観客が座るエリアを横切り、舞台となる大稽古場の中へと入っていく。私たちも、係員の誘導により、会場内へと移動する。ほんの数分の出来事である。

会場内に入ると、約20人程のメンバーが床に転がり、各人にはそれぞれに明かりが注がれている。美しい。そして、俳優陣が、ヴォルフガング・ボルヒェルトが描いた詩作の言葉を、其処此処で順繰りに語り始める。自分がここに生きているという事実を冷静に考察しながらも、自らが存在している在り様の不確かな曖昧さを吐き出すという、アンビバレンツな感情が綯い交ぜになり思わず各人の姿から目が逸らせなくなっていく。

大きく二部構成になっており、一部は、戦時下に作者が綴った、詩・評論・小説の中に込められた様々な思いが、コラージュのように織り成されていくことになる。塹壕に潜んで周囲にいる名も知らぬ敵国の兵士を撃つ兵士2人の会話を、2組が順に演じることで、戦いの核に潜む虚無感を照射し合う手法が面白い。また、墓堀の青年が、もう墓を掘るのは嫌だとエスケープするパートも胸を打つ。衣服を全て脱ぎ捨て、将校たちの罵声を振り切り彼方へと立ち去っていく姿に、勇気と希望を見出すことになる。

二部では、戯曲「戸口の外で」が演じられる。一部でも、墓守で印象的であった内田建司が、物語の中軸に立つ青年・ベックマンを繊細に演じていく。戦場から帰還し自宅に戻ると妻は間男と共におり、そこから抜け出しベックマンは街に出るが、そこで一人の娘と出会い、彼女の家へと赴くことになる。パートナーが不在である娘もまた、心に空洞が空いている。しかし、お互いのポッカリと空いた隙間は、ピタリと当てはまることなく、哀しい心の差異を引き出してしまうことになる。求めてはいるのに、求めているものが行き違うことの寂しさが辛い。娘を演じる周本絵梨香の熱情に心揺さぶられる。

ベックマンがかつての上官が家族と食事をする席に乗り込むことで、物語はクライマックスを迎えることになる。自分の周りで死した者たちが、夢に出てきて忘れられないのだと上官を糾弾し始めるのだ。すると、ベックマンはアメーバのように増殖し、何人ものベックマンが登場し、それぞれに思いのたけを上官一家に叩き付けていく。

きっと、世の中に、このベックマンはあまた居るに違いないのだ。蜷川幸雄は、それを多くの人間に託し具体的に可視化することにより、ベックマンが主張する言葉の重みに普遍性を与えていく。上官の家族は、多くのベックマンに包囲される。真偽や正義の概念が転覆させられることになる。

あらゆる感情や行動が、様々な角度から切り取られていくことにより、ここで描かれる物語は世界と呼応する気さえしてくる。最後に、登場人物全員で、オープニングのシーンをリフレインする。同じテキストを語っていくわけであるが、何だか、あらゆる辛苦を舐めた後に聞くこの言葉の中に、当初は感じなかった微かな希望さえ立ち上るような気さえしてくる見事な幕切れだ。実験的な手法で、ヒリヒリとした若者の慟哭を描ききり絶品であった。

15世紀に生きた「リチャード三世」をシェイクスピアが描いた戯曲世界が、大胆にも日本の鎌倉時代に翻案された。登場人物たちも実在の人物に摩り替わり跳梁跋扈する本作は、外連味タップリな演出が心地良い“いのうえシェイクスピア”として、平成の世に見事に甦った。

脚本の青木豪は、リチャード三世を源範頼の当てはめる発想を発端として、全ての役柄のピースをパチパチと当て嵌めていくことに成功した。大胆に、そして緻密に、ディティールを積み重ねていく繊細さに目を剥いてしまう。しかも、所々に笑いも振り撒き込みながら、シェイクスピアも鎌倉幕府も良く知らないという観客すらも捲き込んで、エンタテイメントとして成立させる強固なる基盤を築いていく。

磐石なる戯曲を基点に、演出・いのうえひでのりは、華と実力を併せ持つ俳優陣の個性と魅力を最大限に開陳させていく。と同時に、集団で斬り合う殺陣の場面や、幽玄な異次元空間をクッキリと現出させながら、図太い物語のアウトラインに引っ張られ過ぎることなく、観客を徹底的に楽しませる工夫を凝らし、飽きさせることがない。

照明の原田保の仕事が、いのうえひでのりが描く世界を、華やかに押し広げていくと共に、観客席を作品にグイと捲き込む大きなブリッジとなっていく。二村周作の美術は、鎌倉の乱世を美しく彩り、小峰リリーが提示する華麗な衣装は作品に華やかさを付与していく。

岩代太郎の音楽が、また、いい。篳篥の音色なども混在させながら叙情性豊かなダイナミックなメロディを創造し、音楽で劇場空間に大きなうねりを生み出していく。演劇という概念は取り払われ、一大ページェントを目撃しているかのような陶酔感を観る者に与えてくれるのだ。

リチャード三世改め、源範頼、通称・鉈切り丸を演じるのは、森田剛。数々の舞台で功績を積んできている自信、アイドルとしての華、そして、人間の心の奥底に眠る、触れると壊れてしまいそうな繊細な人間の機微を、どでかい大劇場の隅々にまで伝播させる資質は驚愕すべきことだと思う。本作でも、悪漢の邪気を観客の心と共鳴させてしまう工程を丁寧に作り上げ、観客を魅了していく。座長としての存在感も十分にある。

源頼朝を生瀬勝久が演じるが、フットワークも軽く初代征夷大将軍を嬉々として造形していく。生瀬勝久の飄々とした存在感が、作品の中に渦巻く様々な感情を、より豊かに拡散させていく。物語が深刻なベクトルへと振り切るのを抑え、観客に笑いを提供しながら、作品のエンタテイメント性に拍車を掛けていく。

北条政子は若村麻由美が演じ、生瀬勝久との丁々発止のやり取りが実に爽快だ。女傑の貫禄もタップリと楽しめ、余裕綽々なスタンスが物語にふくよかさを与えていく。麻美れいの存在感は、やはり特別だ。建礼門院を演じるのだが、生霊としてしか登場しないというユニークな在り方にも強烈な説得力を持たせ、観客の腑に落ちる凛とした悲劇の皇后振りだ。秋山菜津子は源範頼の生みの親である遊女イトを演じる。哀しみを帯びながらも、逞しく生き抜く女の性が哀れを誘い、作品に艶やかなアクセントを付与していく。

渡辺いっけいは梶原景時に武士の気骨を吹き込み、成海璃子が演じる巴御前は森田剛とのセッションに一服の清涼感を吹き込んでいく。源義経は須賀健太が演じ、初々しく新鮮な佇まいが清潔感を漂わせる。比企尼の宮地雅子は、なんと鳥居や置屋の女将にもなる変幻自在さで、作品を脇からガッチリと固めていく。千葉哲也は武蔵坊弁慶を豪快に造形し、義経とのコンビネーションも相性が良い。山内圭哉はラップで物語る大江広元を飄々と表現し、木村了は和田義盛のけなげで実直な資質を拡大し、新鮮な印象を残していく。

豪放磊落な筆致でリチャード三世のエッセンスを掬い取り、見事、鎌倉の時世に華咲かせた本作は、エンタテイメントとしての魅力も充分に放射するプロの創り手の意気に満ち溢れ、その迫力にしばし酩酊してしまう心地良さだ。シェイクスピアの傑作が見事翻案されたエンタテイメント作品として画期的であり、大胆で緻密な繊細さを娯楽に転じる手腕も見事な快作に仕上がった。

1時間15分程の小品であるが、夾雑物を全て取り払った後に残る、人間が身体の中に囲い込んでいる痛みと哀しみが胸の隙間にズシリと染み入り、心が揺さ振られる。

開演時間になると、観客席や舞台端から3人のミュージシャンが現れ、音楽を奏で始める。ギター、トランペット、ピアノである。そうなのだ。本作は音楽が重要なモチーフとなっているのだ。人間のハートを掴み出すきっかけを音楽が作り出し、作品に深い造詣と示唆を与える役割を担う音楽劇となっている。

舞台はアパルトヘイトの嵐が吹き荒れる1950年代の南アフリカ。妻をこよなく愛する夫が、ベッドに妻を残し勤め先へと出掛けるところから物語はスタートする。トイレが共同であるという表現があるものの、そこには、アパルトヘイトを感じさせるようなアクセントがこれ見よがしに挟み込まれることはない。至って穏やかな、住宅街の爽やかな朝の光景にしか、観客の目には映らない。

美術は、原色に彩られた椅子やハンガーラックなどシンプルな道具を駆使して、あらゆるシーンを舞台上に創り出していく。「何もない空間」に、南アフリカの生活の一部分が立ち現れていく。妻が鮮やかな赤いドレスを纏っている他、男優陣やミュージシャンはベージュや白い衣装を身に付けており、目にも美しい演出が施されていく。

物語は、夫が職場の同僚に、妻が昼の間に男を家に招き入れているようだと耳打ちされるところから、大きく転回していくことになる。仕事を抜け出した夫が家に帰ると、どうやら睦みごとの最中に、旦那の帰還を察した男が、窓から逃げ去った後の光景が広がっていた。そこには、タイトルにもなっている、男が置き去っていった「スーツ」が残されていた。その「スーツ」に、当時の社会状況がオーバーラップしていく。

夫は、間男が置いていった「スーツ」を、客人を持て成す様に接することを妻に強要していく。この、何とも奇妙なゲーム。購うことのできない圧力、従うしかない弱者、異を唱えることの出来ない周囲の人々など、「スーツ」のゲームは、あらゆる隠喩を含みながら、居心地の悪い奇妙な違和感を拡大させていく。

珠玉のシーンを目撃した。妻を演じるノンランラ・ケズワが、スーツの腕に手を通すと、まるで「スーツ」が生きた男のように、彼女を抱擁していくのだ、彼女の手によって。この場面に接することが出来ただけでも、本作を観る価値があると思う。そのやるせない優しさに、安堵感を覚えていくが、なかなか複雑な思いである。

家で催されたパーティーにおいても、衆人環視の下、妻は擬態を演じさせられることになるのだが、出自のタンザニア民謡「マライカ」を自ら謡い上げることで、ノンランラ・ケズワはあらゆる“状態”を凌駕する生命力を迸らせていく。人間が作った枠組みを、人間が駆逐した瞬間だ。

ピーター・ブルックが演じ手を選ぶ基準は、「ハート」と「アート」にあるのだと言う。その資質に充分叶う演者とミュージシャンが、演出家の想いを見事に体現する本作は、演劇の可能性をグッと押し拡げていく。

残酷な差別社会を、その意図を真摯に汲みながらも、軽やかさを持って描いた本作は、万人に通じる普遍性を持って、観る者に訴え掛けてくる逸品だ。周りを取り囲む環境の苦しさを表出させると共に、人間の心の豊かさを現出させる「スーツ」は、私たち、皆が持っているであろう、ある種の“しこり”をつまびらかにしていく。世界基準のワークを、タップリと堪能することが出来、幸福感に包まれた「スーツ」であった。

スティーブン・ソンドハイムが、あの傑作「スウィーニー・トッド」の次に発表した本作は、初演時には16回の上演で幕を閉じるという憂き目にあった作品だ。その初演時から、幾たびか手直しが加えられてきたのだと思うが、キューンと胸に響くキュートさを振り撒きながらも、人間のシニカルな側面を抉り出し、哀愁に満ちた思慮深さを其処此処に染み出させていく。

ハリウッドの人気プロデューサーとなったフランクのホーム・パーティーで管を巻く元ベストセラー作家メアリー。今や、すっかりアル中の体であるが、フランクとメアリーとは、どうやら永年の付き合いがある関係性のようだ。そのパーティーでの会話の中で、ピューリッツァー賞作家のチャーリーという名が挙がる。最近、ブロードウェイで話題の演目を書いた人物らしい。その名を聞いたフランクは、顔を曇らせる。そして、メアリーは3人が、かつて親友であったことを告白する。その時点から、物語は時を遡り少しずつ過去へと立ち返っていく。

初演時は、若いパフォーマーがアマチュア風のパワーを前面に押し出すというコンセプトであったという。演出は、あの、ハロルド・プリンス。直近の上演は、本年4月。ウエストエンドのハロルド・ピンター劇場で、現在の時点の年齢に近い俳優陣を擁した布陣での公演だったようだ。解釈は多々あると思うが、本作は、20歳代の役者をキャスティングしたという点において、宮本亜門は初演時のスピリッツを継承しているのかもしれない。

キャストは生きのイイ役者陣が居並んだ。プロデューサーのフランクを演じるのは柿澤勇人。仕事で成功を収めてはいるのだが、何故かプライベートでは空虚さを湛える陰影ある佇まいをニヒルに演じていく。フランクが抱える心のシコリが、過去に遡るにつれ、その要因となる出来事が詳らかになっていくという趣向になっているのだが、心なしか、フランクが抱える重荷が、物語が進むにつれ軽くなっていくような気がしてくる。人間的にも段々とピュアになっていくその過程が、もう少しふくよかさを持って演じられると、物語に厚みが出たような気がする。

フランクと旧知の作家チャーリーは、小池徹平が演じていく。バリュー的には座長ではあるのだが、役どころはフランクと対等のポジションで拮抗していく。柿澤勇人が“硬”の資質だとすると、小池徹平は“柔”の資質。お互い対立しながらも、補完し合っていくという構造がクッキリと浮き上がる。キャスティングの妙であろう。

特筆すべきは、その2人と永年の友人メアリーを演じるラフルアー宮澤エマである。初見ではあるが、バラエティー番組やラジオのパーソナリティーで活躍しており、本作が初舞台であるという。また、元首相・宮澤喜一の孫であるという出自でもある。彼女の存在感が、何しろ圧倒的なのだ。

少しメタボ気味の妙齢の頃から物語はスタートするのだが、25歳である彼女は完全に中年の女性として存在していた。女性が己の内面に抱合するいい意味での開き直り具合を全開させ、作り物ではないリアルな感情表現で観客を直撃していく。その溢れるパワーと存在感に目が釘付けになる。決して自分に限界を設けることなく、可能性を拡げることだけを視座に生きてきたような在り方が、何とも心地良いのだ。

ブロードウェイの大女優・ガッシーはICONIQが演じる。カリスマ性ある奔放さで、周りの人々を翻弄するセレブリティを、哀感を持って表現していく。有名人が持つ、哀しみがジンと伝わってくる。

フランクの離婚する妻は高橋愛が演じていく。可憐で清楚な中にも、決して曲げることない一本芯の通った女性のスピリッツを表出させていく。多くの個性派俳優が居並ぶ中において、一輪の可憐な花のような可愛さが清冽な印象を与えていく。

休憩も挟まずに、一気呵成に人生を遡った先に待っていたのは、誰もが若かりし頃に思い描いたであろう“希望に満ちた未来”であった。オール20歳代キャストの中から、宮本亜門は、“希望”を掬い取ってみせた。乗峯雅寛の変幻自在な美術や上田大樹の映像も、時代を瞬時に表現する効果を見事に生み出していく。

人生の辛苦を、若い布陣の意気を全面に押し出すことで筆致した本作は、ソンドハイムの甘酸っぱい懐かしさに満ちた楽曲が胸に染み入る逸品であった。

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