2017年 10月

演出家により演劇作品は大きく変貌する。そんなスリリングな体験を本作でたっぷりと堪能することが出来た。演出は、ルーマニアのシルヴィウ・プルカレーテ。上演台本も手掛けている。シェイクスピアの「リチャード三世」を換骨奪胎し、見事にオリジナリティを獲得している。

冒頭、ヴァシル・シリーがクリエイトするクラブ・ミュージックのようなビートを刻む音楽に乗って、登場人物たちが登場するオープニングのシーンで、完全にこの作品世界に身を委ねてしまうくらいのインパクトが放熱される。

ダンテの神曲の様なイメージが描かれた壁に囲まれた舞台は、登場人物たちを覆い囲むように威圧する。何処にも逃げることが出来ない閉塞感を醸し出す。神の掌で弄ばれる人間たちが、王権奪還のために精一杯に悪足掻きをする様が浮き彫りになる。

そうなのだ。本作は、王という頂点を巡る椅子取りゲームに焦点が当てられているのだ。王権を目指す者とそれに付き従い、あるいは翻弄される者たちが右往左往しながら蠢く様が強烈なパワーを発していく。

俳優陣は渡辺美佐子以外、全員男性という布陣である。リチャード三世を演じる佐々木蔵之介を中心に、シルヴィウ・プルカレーテの下、実力派俳優がずらりと居並んだ。なかなか壮観である。

佐々木蔵之介はリチャード三世を飄々と演じているかに見える。コンプレックスに原動力を置いていないため、作品に良い意味での軽妙さが生まれていくのだ。まるで、子どもが欲しい玩具を手にしたいがために、躍起になって奔走しているかのような幼稚ささえ感じられる。権力を手にした者の言動が周りの者を疲弊させるなんてことは露にも思わず、ひたすら疾走するリチャード三世を活き活きと造形した。

アン夫人を手塚とおる、マーガレットを今井朋彦、エリザベスを植本純米、そして、ヨーク公夫人を壌晴彦が、それぞれ演じていく。男優が演じる女性は、何事にも動じない女性の強靭さをくっきりと刻印する。また、運命に流される諦観をも帯び、男たちの愚直さを一歩引いて凝視する客観的な視点を獲得し得ている。

渡辺美佐子演じる代書人は、物語の枠外から事の成り行きを見つめる存在だ。ここにまた別の視線が重なることで異化効果が生まれ、中心で展開する権力争いの儚さを見事に浮き彫りにする。

人間の業を掘り下げつつ、その生き様を一歩引いた地点から眺める客観が物語を複層化している。リチャード三世の暴君振りを活写しつつ、冷静にそれを見つめるメタ的視点を作品に据えることで、人間が持つ怖さ、弱さを大胆に抉って描き圧巻であった。

コデルロス・デ・ラクロの原作をクリストファー・ハンプトンが戯曲化した本作「危険な関係」、大好きな戯曲である。暇を持て余す貴族が色恋沙汰をゲームのように弄ぶ、その刹那的な儚さに何故か心惹かれてしまうのだ。原作小説は、これまで何回か映画化もされている。この物語が放つ強力な魔力は、観る者を魅惑して止まないのだと思う。

そんな魅惑を放つ物語を立ち昇らせるには、体現する俳優陣も魅力的でなければならない。作品の中心に聳えるのは、玉木宏と鈴木京香。見目麗しく、大人の色香を放つこの二人の磁力が、作品を強力に牽引していく。

RSCで研鑽を積んだ演出家リチャード・トワイマンは、登場人物たちの心に巣食う心情を切っ先鋭く掬い上げながら、物語に時代性を照射させて見せる。コデルロス・デ・ラクロが生きていた時代、そして、クリストファー・ハンプトンが本作を書き上げた時代と現代とを、クロスオーバーさせていくのだ。原作が執筆されたのはフランス革命前のきな臭い時代、1782年。戯曲が著されたのはサッチャー登場後の社会的成功を希求する価値観転回のうねりが跋扈した、1986年。これからの時代の行く末が見え難い社会状況は、まさに、現代日本とも合致するようなのだ。

作品全編を通して不穏な不安定さが漂う空気感が、そこはかとなく覆っているのが印象的だ。本音と建て前とを上手く使い分けていると思い込んでいる登場人物たちの、表層的な華麗な側面を押し上げているのが、ジョン・ボウサーが担う美術と衣装だ。

室内の設えが多い美術であるが、襖の様な横引き戸を多用して場面転換を図るそのアイデアや、その向こうに広がる外景が日本庭園であることから、日本で上演されることを大いに意識していることが明らかだ。現代美術の様にソリッドでモダンな造りなため、和の空間というよりも、ハイソなクラスの人々がジャポネスクを取り入れた内装にも見え、国や時代を超越する効果を発していく。

衣装も、また、セレブが纏うであろうハイ・ブランドのデザイン・テイストが反映され、舞台衣装の概念を超越している。衣装が、俳優陣を憧憬する存在に押し上げる役割を担っていく。

鈴木京香の華やかな存在感は、「危険な関係」の肝となる。男たちが牛耳る社会の牙城を切り崩す勢いで、果敢に恋愛ゲームを仕掛けるメルトゥイユ侯爵夫人を説得力を持って演じていく。ゲームのイニシアチブは決して手放さないという意思を貫く強固な姿勢が、女性の立場の弱さを、逆に浮き立てることにもなる。

自分の回りにいる女性たちを翻弄しているかに見えるヴァルモン子爵を、逆に弄ばれてもいたかもしれないという曖昧な関係性を説得力を持って玉木宏は表現していく。飄々とした態度を取りながらも、悲劇へと堕ちていく男を演じる玉木宏に漂う哀感は、作品に憂いを付け加えていく。

恋のシーソーゲームの果ての様々な悲劇を経た後、脇を支える重鎮、新橋耐子、高橋惠子と鈴木京香が居並び、日常の延長であるかのように会話を交わすオーラスが衝撃的だ。その傍らには、前のシーンで死した玉木宏が血を流して倒れたままなのだ。

覆い隠された真実、裏腹な言動、崩壊する価値観、忍び寄る死。二重三重と複雑に織り成された真実を前に、何事も無かったかのように振る舞い、生き続けていく女たちに、逞しさすら感じてしまう。本作は、今、此処で起こっている真実をきちんと見据える信念を持っているか否かを観客に問う衝撃作に仕上がったと思う。

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