演出家により演劇作品は大きく変貌する。そんなスリリングな体験を本作でたっぷりと堪能することが出来た。演出は、ルーマニアのシルヴィウ・プルカレーテ。上演台本も手掛けている。シェイクスピアの「リチャード三世」を換骨奪胎し、見事にオリジナリティを獲得している。
冒頭、ヴァシル・シリーがクリエイトするクラブ・ミュージックのようなビートを刻む音楽に乗って、登場人物たちが登場するオープニングのシーンで、完全にこの作品世界に身を委ねてしまうくらいのインパクトが放熱される。
ダンテの神曲の様なイメージが描かれた壁に囲まれた舞台は、登場人物たちを覆い囲むように威圧する。何処にも逃げることが出来ない閉塞感を醸し出す。神の掌で弄ばれる人間たちが、王権奪還のために精一杯に悪足掻きをする様が浮き彫りになる。
そうなのだ。本作は、王という頂点を巡る椅子取りゲームに焦点が当てられているのだ。王権を目指す者とそれに付き従い、あるいは翻弄される者たちが右往左往しながら蠢く様が強烈なパワーを発していく。
俳優陣は渡辺美佐子以外、全員男性という布陣である。リチャード三世を演じる佐々木蔵之介を中心に、シルヴィウ・プルカレーテの下、実力派俳優がずらりと居並んだ。なかなか壮観である。
佐々木蔵之介はリチャード三世を飄々と演じているかに見える。コンプレックスに原動力を置いていないため、作品に良い意味での軽妙さが生まれていくのだ。まるで、子どもが欲しい玩具を手にしたいがために、躍起になって奔走しているかのような幼稚ささえ感じられる。権力を手にした者の言動が周りの者を疲弊させるなんてことは露にも思わず、ひたすら疾走するリチャード三世を活き活きと造形した。
アン夫人を手塚とおる、マーガレットを今井朋彦、エリザベスを植本純米、そして、ヨーク公夫人を壌晴彦が、それぞれ演じていく。男優が演じる女性は、何事にも動じない女性の強靭さをくっきりと刻印する。また、運命に流される諦観をも帯び、男たちの愚直さを一歩引いて凝視する客観的な視点を獲得し得ている。
渡辺美佐子演じる代書人は、物語の枠外から事の成り行きを見つめる存在だ。ここにまた別の視線が重なることで異化効果が生まれ、中心で展開する権力争いの儚さを見事に浮き彫りにする。
人間の業を掘り下げつつ、その生き様を一歩引いた地点から眺める客観が物語を複層化している。リチャード三世の暴君振りを活写しつつ、冷静にそれを見つめるメタ的視点を作品に据えることで、人間が持つ怖さ、弱さを大胆に抉って描き圧巻であった。
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