詩、である。心の叫びである。凍てつくような孤独の涙である。
この作品を前にして、観客は、陶然として立ち尽くすしか術がない。意識下の孤独を見透かされたような戦慄と安心を同時に感じつつ、音も無く頬を伝う涙の暖かさに、また、慄然としてしまうのだ。テオ・アンゲロプロス作品にあるように、「いくつの国境を超えたら本当の故郷に辿り着けるのだろう。」といった民族の中に潜む根源的な哀しみと相通じるような、人間の実在性を問われるようなヒリヒリした感触に、ヨーロッパの奥深さを感じ取っていく。
ソリスト・服部有吉をイメージの軸として作られたという本作は、単純に日本人としてうれしいし誇らしい気持ちである。純粋な若者が出会うさまざまな人や事。無垢であるがゆえにその視線に曇りはないが、傷つき疲れ果てる若者が再生するパワーは内なる氷点下の孤独と拮抗しながら、世界と対峙していく。日本人というヨーロッパでの異邦人が演じることで、逆に、孤独感が増幅し煽られていく。
ハンス・ツェンダーの解釈は、神経細胞にまで侵食するような斬り込み方にて、若者の内なる心象を絞り出していく。さまざまな効果音も駆使し、風景が自然と立ち上がってくるようだ。
また、今作が2001年12月16日に初演されたことは、一種、象徴的な出来事である。9・11を通過した直後の作品であり、若者の視線は確実に現代社会に向けられている気がする。
途中で途切れた階段で立ち尽くしあるいは転げ落ち、逆さに吊られた菩提樹の元で少女と踊る。出会うことすべてを、ただただ見つめる若者の心に降り積もっていく何か。壁一面の顔のポートレートがテロの犠牲者にも見えてくる。神は一体何処に居るというのであろうか。
終盤、背景の壁には天上から見た風景のごとく雲海が広がり、ここが、現実世界なのか、幻想であるのかが混然としてくる。この場が何処なのかが分からなくなってくる。これは、希望の前兆なのであろうか。
ひとり残される若者の元に辻音楽師が現れる。服部有吉とジョン・ノイマイヤーのデュエットはまさに圧巻! そして、ひとつの人生をやり遂げたかのように若者は最初に登場してきた扉の向こうへと帰っていく。シンシンと降りしきる雪の上で、辻音楽師は鳴らない太鼓を叩きながら、観客に哀切の笑みを投げ掛けながら幕は閉じる。明日に向けての希望は、決して放棄してはいけないのだ。ジョン・ノイマイヤーが発するメッセージは、暖かく気高かった。
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