2010年 2月

三谷幸喜は演劇界において、演劇という概念を確実に変化させ、進化させている最先端に位置する作家ではないかと思う。刺激的な演出や選び抜かれた静謐な台詞を網羅する作家性の高いアプローチにて演劇という概念や形態を変えてきたクリエーターはこれまで多々いたと思うが、三谷幸喜は演劇の在り方そのものを問いながらもエンターテイメントとして作品を昇華させてしまうという、離れ業をやってのけている。

「なにわバタフライN.V」では、演じ手と観客との間にある、観る見られるという暗黙の了解の境界線を軽々と越えてみせたが、この「TALK LIKE SINGING」においては、主人公の脳内に分け入る物語展開を見せながら、同時に観客の脳細胞をも撹乱させ、劇場空間自体を大きなひとつの脳みそとして括ってみせる。観客がここで描かれている物語に、自然と気持ちを同化させていくというアイデアが、そこ此処に仕掛けられているのだ。

川平慈英の登場でステージは開幕するが、台詞は英語だ。このステージは、N.Y.の劇場で演じられているのだという設定なのだ。しかし、実際この演目がN.Y.で上演されたことは、観客の誰もが知っていること。しかし私たちは日本の観客である。川平慈英はもちろんそのことを分かっているというニュアンスで、観客をナビゲートしていく。英語字幕が流れている。

この幾重にも重ねされた重層的な表現の仕掛けに、思わずグイと前のめりになって、我々観客はさらに舞台を注視することになる。舞台で演じられていることは、所詮作り事であるのだということをあらかじめディスクロージャーするという前提の上で、物語を展開させていくのだ。オープニングからこの設定である。このシチュエーションは物語が展開していくのに従い、さらにクルクルと転回し変化を見せていく。

香取慎吾が主人公の青年ターロウを演じるが、この青年、話す言葉が全てメロディを伴い音楽になってしまう病に侵されているという設定である。その彼のエピソードは日本語で演じられるのだが、あれ、N.Y.ではどうしていたのかなと、いらぬことにアタマを使ってしまう。しかし後半、ニュアンスだけでは伝わらないであろう会話のシーンでは、英語字幕が添えられることになる。但し、会話がヒートアップし舌戦になってくると、字幕機自体も表示もおかしくなり、しまいには機械が煙を吐くという始末、というか演出だ。

其処此処に様々な演出が仕掛けられているのだが、観客にどう見えるか、という視点は終始一貫している。こう言葉に書いていくと複雑な様相を呈しているかのようにも感じられるが、実際には何のストレスもなく、「想像していたことの差異から起こる現象=笑い」に全てを転化させていくことになる。緻密な企み、である。こんな表現が出来るということは、才能以外の何物でもないと思う。

香取慎吾は強烈な存在感を示し、目まぐるしく展開していくこの物語の中において、全く軸をずらすことのない圧倒的な存在感で、ステージを牽引していた。また川平慈英は自らのキャラクターが上手く役柄に反映されているため、いい意味で観客とのブリッジの役割を果たしている。紅一点の堀内敬子の芸達者振りはさらに磨きがかかり、一面的な真面目になり過ぎないふくよかな引きの演技が、アンサンブルに温かなニュアンスを付け加えていた。新納慎也は、新たな側面が開発されたのではないか。いくつかの違った役柄を何役か演じるのだが、どの人物造形も違和感なくのびのびと自然体で演じているため、フレッシュなアクセントが作品に付加されることになる。

小西康陽の音楽がまたイイ。メロディーラインがずっとアタマに中で木霊する様な、ストレートに感情に飛び込む世界観を創出している。三谷幸喜が意図的に仕組んだ意味性を極力排したシンプルな詩の世界と、緊密なコラボレーションが成功していると思う。

真の革命は、微笑みながらやってきて、全ての人を虜にしてしまう魅力を放つものだと思う。本作もその様なセオリーに倣うがごとく、正統派のエンターテイメントに徹しているかのように見えているところが曲者だ。脳ある才能は鷹の爪のごとく秘めたる武器を隠し持ちながら観る者の深層心理をえぐり、じわじわと浸透していくわけですね。天晴れである。

N.V、ニュー・バージョンである。タイトルにもそう謳われているからには、初演時とは決定的に違う何かを見せてくれるに違いないという思いは見る前から抱いていた。三谷幸喜のことであるので台本にも大分手を入れるのであろうし、初演時とは決定的に違う何か仕掛けがあるのかもしれない。そんな期待を持って開演を待っていたのだが、スッと始まったそのN.Vの世界に、グッと惹き付けられ、だんだんと目を離すことが出来なくなっていく。

そこには何か特異な要素を付け加えて劇世界を広げていくのとは真逆にある、出来る限りプラスの演出的要素を削ぎ落とすという限りないシンプルなアプローチにより、戯曲の、そして役者の魅力が、初演時以上にストレートに伝わるという、仕掛けといえば仕掛けが施されていたのだ。初演時、戸田恵子も、そして三谷幸喜も、すごく頑張ったな、大変だったろうな、でも面白かったなという、頑張った感が全面に出ているという印象が強烈にあったのだが、今回はその頑張りを一切感じざせないという戦略を採っているのだ。ステージレベルが一段階上がったということか。

開演時間になると特にベルがなるわけでもなく、上手からヒョコッと戸田恵子が顔を出し、そろりそろりと舞台上に登場してくる。ここで、挨拶が始まる。一人芝居だからずっと私しか出ませんのでお互い頑張っていきましょうねとか、一人芝居はこれまでいろいろなパターンで作られてきたがこのお芝居はそのどれにも属さないのだというようなことを話し、そのいくつかの一人芝居のパターンを演じてみせる。

こういう自然な感じで始まる前口上も珍しい。そして既に舞台上に置かれていた小道具を広げ始め、床に敷く布を観客にサポートしてもらい敷き終える。もうこの本核的に芝居が始まる前の時点で、観客はこの舞台、そして戸田恵子と一心同体となり、会場全体が完全にひとつにまとまっているのだ。いや、まとまるように、演出されているのだ。もう、それだけで、すごいと思う。こういう言葉があるのかどうか分からないが「隠れ演出」とでも言おうか。技を技と感じさせない技が炸裂する。

今回この再演を見て、一人芝居へのいろいろなアプローチがされている作品であるということがとても良く分かった。前口上で、この作品はどのジャンルの一人芝居にも属さないと言われていたが、逆にどの手法をも実に巧みに取り入れながら、結果、全く新しい手法を編み出しているのだ。モノローグで語る。相手がいるという想定で会話が交わされる。そしてそういう状況を傍観者のように客観的に語っていく。様々な手法で、一人芝居の主観を絶えず客観へと引き戻しながらも、どの位置にも留まることなくスパイラルさせながら、物語をズンズン進めていくのだ。

これは三谷流異化効果とでも言うべき手法だと思う。作られた作品が、これ見よがしに観られるのを控えているために気付き難いが、今作において演劇の新たな視点、手法が開発されたのではないだろうかと思う。三谷演出ではブレヒト幕を使うことが良くあるが、まさにそのブレヒトの異化効果を意識しつつも、演劇のある種の固定した枠組み、観る観られるというこれまで絶対的だと思われていた演者と観客との関係性の壁を取っ払うことに成功したと思う。これは画期的なことであると思う。文学的に書かれた戯曲の意図を汲み劇世界へと展開させていくという従来の演出という概念を、作者を兼ねる三谷幸喜が内側から破ってみせたのだ。それもごく自然な感じに見えるように。

ひとりしか出演しないからといって、戸田恵子に飽きることは全くない。むしろ惹き付けられた目は最後の最後まで釘付けになったままだ。ミヤコ蝶々という稀有な芸人の人生を変に物真似などをして表層的になぞることなく、その真意を汲み取り自分のフィルターを完全に通してから表現されるため、その人物はミヤコ蝶々という人物を超越して、あるひとりの女の生き様へと完全に昇華しているのだ。

劇表現の新しい手法が編み出されたエポック的な作品であると思う。しかし、決して斬新なことに挑戦しているのだという風に見せないというところが、また実に巧みであると感じ入る。

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