三谷幸喜は演劇界において、演劇という概念を確実に変化させ、進化させている最先端に位置する作家ではないかと思う。刺激的な演出や選び抜かれた静謐な台詞を網羅する作家性の高いアプローチにて演劇という概念や形態を変えてきたクリエーターはこれまで多々いたと思うが、三谷幸喜は演劇の在り方そのものを問いながらもエンターテイメントとして作品を昇華させてしまうという、離れ業をやってのけている。
「なにわバタフライN.V」では、演じ手と観客との間にある、観る見られるという暗黙の了解の境界線を軽々と越えてみせたが、この「TALK LIKE SINGING」においては、主人公の脳内に分け入る物語展開を見せながら、同時に観客の脳細胞をも撹乱させ、劇場空間自体を大きなひとつの脳みそとして括ってみせる。観客がここで描かれている物語に、自然と気持ちを同化させていくというアイデアが、そこ此処に仕掛けられているのだ。
川平慈英の登場でステージは開幕するが、台詞は英語だ。このステージは、N.Y.の劇場で演じられているのだという設定なのだ。しかし、実際この演目がN.Y.で上演されたことは、観客の誰もが知っていること。しかし私たちは日本の観客である。川平慈英はもちろんそのことを分かっているというニュアンスで、観客をナビゲートしていく。英語字幕が流れている。
この幾重にも重ねされた重層的な表現の仕掛けに、思わずグイと前のめりになって、我々観客はさらに舞台を注視することになる。舞台で演じられていることは、所詮作り事であるのだということをあらかじめディスクロージャーするという前提の上で、物語を展開させていくのだ。オープニングからこの設定である。このシチュエーションは物語が展開していくのに従い、さらにクルクルと転回し変化を見せていく。
香取慎吾が主人公の青年ターロウを演じるが、この青年、話す言葉が全てメロディを伴い音楽になってしまう病に侵されているという設定である。その彼のエピソードは日本語で演じられるのだが、あれ、N.Y.ではどうしていたのかなと、いらぬことにアタマを使ってしまう。しかし後半、ニュアンスだけでは伝わらないであろう会話のシーンでは、英語字幕が添えられることになる。但し、会話がヒートアップし舌戦になってくると、字幕機自体も表示もおかしくなり、しまいには機械が煙を吐くという始末、というか演出だ。
其処此処に様々な演出が仕掛けられているのだが、観客にどう見えるか、という視点は終始一貫している。こう言葉に書いていくと複雑な様相を呈しているかのようにも感じられるが、実際には何のストレスもなく、「想像していたことの差異から起こる現象=笑い」に全てを転化させていくことになる。緻密な企み、である。こんな表現が出来るということは、才能以外の何物でもないと思う。
香取慎吾は強烈な存在感を示し、目まぐるしく展開していくこの物語の中において、全く軸をずらすことのない圧倒的な存在感で、ステージを牽引していた。また川平慈英は自らのキャラクターが上手く役柄に反映されているため、いい意味で観客とのブリッジの役割を果たしている。紅一点の堀内敬子の芸達者振りはさらに磨きがかかり、一面的な真面目になり過ぎないふくよかな引きの演技が、アンサンブルに温かなニュアンスを付け加えていた。新納慎也は、新たな側面が開発されたのではないか。いくつかの違った役柄を何役か演じるのだが、どの人物造形も違和感なくのびのびと自然体で演じているため、フレッシュなアクセントが作品に付加されることになる。
小西康陽の音楽がまたイイ。メロディーラインがずっとアタマに中で木霊する様な、ストレートに感情に飛び込む世界観を創出している。三谷幸喜が意図的に仕組んだ意味性を極力排したシンプルな詩の世界と、緊密なコラボレーションが成功していると思う。
真の革命は、微笑みながらやってきて、全ての人を虜にしてしまう魅力を放つものだと思う。本作もその様なセオリーに倣うがごとく、正統派のエンターテイメントに徹しているかのように見えているところが曲者だ。脳ある才能は鷹の爪のごとく秘めたる武器を隠し持ちながら観る者の深層心理をえぐり、じわじわと浸透していくわけですね。天晴れである。
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