「操り三番叟」は楽しい演目だ。前半は獅童と鶴松の厳かな踊りが華やかに繰り広げられる。ゆったりと歌舞伎の雰囲気に浸っていきます。その二人が去ると、後見役の松也が人形箱から勘太郎演じる三番叟を取り出し、三番叟の見えない糸を手繰りながら操っていく。その動かされている勘太郎の動きの可笑しいこと。思わず笑みがこぼれてしまう。そして後半、その糸が絡まってしまうところが最大の見せ場。くるくると回される勘太郎と松也の息もぴったり合って客席は大いに湧いていく。何とも楽しい舞踊である。
「野崎村」は歌祭文という形式を取るのだが、これは物語を三味線で弾き語るというものだという。何故「野崎村」かというと、大阪は野崎村が舞台であるから。奉公先で金を無くしたことで実家に戻された橋之助演じる久松を、福助演じるお光が実家で待っている。そして孝太郎が演じる奉公先の娘・お染が久松を追いかけてくる。この3人を中心に物語は展開していく。追ってきたお染を邪険に扱うお光が可笑しい。また悔しさ紛れに野菜を叩き切るお光の動作などにもドッと笑いが起きる。最後は、お光が身を引き尼となり、久松とお染を見送ることとなる。三味線の音色が、お光の哀れさをより一層引き立てる。笑いを織り交ぜながらも、役者陣の艶かしい質感がたっぷりと楽しめ、しっとりとした男女の機微を描いて秀悦である。
「身替座禅」は、常磐津と長唄の掛け合いという形式を取る舞踊劇である。話はシンプルだ。奥方に隠れて恋人に会いたい大名が、一夜屋敷内の仏堂で座禅をしたいと奥方に嘘をついて許しを得て、太郎冠者に身替りになってもらうというもの。しかしその晩、奥方が仏堂に来て、その嘘がばれてしまう。翌朝、帰ってきた大名は、身替りになっている太郎冠者に事の顛末を話して聞かせるのだが、その話した相手は実は衣を被った奥さんであったというものである。
色事が好きで弱気なのだが、愛嬌ある憎めない大名・山蔭右京を演じる勘三郎には本当に笑わせられる。また、怖いのだが反面旦那思いの優しさを滲ませる奥方・玉の井は三津五郎が演じており、こちらも可笑しさ一杯だ。太郎冠者は染五郎が演じるが、主人である大名と、その奥方との間で揺れ動いている様がまた可笑しい。岡村柿江作の明治に書かれた作品であるが、いつの世にも通じる普遍的な出来事を描いて楽しい演目だ。
宮藤官九郎作・演出の新作歌舞伎「大江戸りびんぐでっど」である。くさやの汁を掛けると死人がゾンビとなって甦り江戸の町を闊歩するという、度肝を抜かれるのを通り越して大笑いしてしまうような、何とも破天荒な舞台設定が面白い。そしてそのゾンビたちに、人間が嫌がる仕事をさせようということで、ゾンビを派遣する仕事が始まっていく。ただ奇妙奇天烈というだけではなく、アイロニカルな要素も含んだ展開になっていく。この視点が本作のポイントだ。そして死して何を一番のプライオリティに置くのかという問題を突きつけ、それが“愛”へと収斂していく展開の中に、宮藤官九郎のメッセージが垣間見られたような気がした。
派遣の仕事を始める染五郎演じる半助と、その相方お葉を演じる七之助が中軸を担うが、その清潔感ある爽やかさが観客とのいいブリッジとなり、スプラッターな設定を地上の出来事としてうまく着地させていた。勘三郎のゾンビはまがまがしくも品が立ち、三津五郎の剣劇役者のような侍のカリスマ性が華やかさを醸し出し、獅童の和尚は物語の人の二面性を浮き彫りにして作品に深みを与えていた。
勢いある向井秀徳の音楽、弾けまくる八反田リコの振付、妙に歌舞伎座とマッチしたしりあがり寿が描く幕など、異能たちのぶつかり会いなども、目に、耳に楽しい。歌舞伎の新たな可能性を見出した作品であったと思う
11時の開演で終演が16時15分位の長丁場ですが、たまにはどっぷりと歌舞伎の世界に浸るのも、小トリップ気分になって、贅沢な気分転換になっていいものだなと感じ入りました。日本人なんで、たまには歌舞伎を見るようにしようと思いました。
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