2009年 12月

「操り三番叟」は楽しい演目だ。前半は獅童と鶴松の厳かな踊りが華やかに繰り広げられる。ゆったりと歌舞伎の雰囲気に浸っていきます。その二人が去ると、後見役の松也が人形箱から勘太郎演じる三番叟を取り出し、三番叟の見えない糸を手繰りながら操っていく。その動かされている勘太郎の動きの可笑しいこと。思わず笑みがこぼれてしまう。そして後半、その糸が絡まってしまうところが最大の見せ場。くるくると回される勘太郎と松也の息もぴったり合って客席は大いに湧いていく。何とも楽しい舞踊である。

「野崎村」は歌祭文という形式を取るのだが、これは物語を三味線で弾き語るというものだという。何故「野崎村」かというと、大阪は野崎村が舞台であるから。奉公先で金を無くしたことで実家に戻された橋之助演じる久松を、福助演じるお光が実家で待っている。そして孝太郎が演じる奉公先の娘・お染が久松を追いかけてくる。この3人を中心に物語は展開していく。追ってきたお染を邪険に扱うお光が可笑しい。また悔しさ紛れに野菜を叩き切るお光の動作などにもドッと笑いが起きる。最後は、お光が身を引き尼となり、久松とお染を見送ることとなる。三味線の音色が、お光の哀れさをより一層引き立てる。笑いを織り交ぜながらも、役者陣の艶かしい質感がたっぷりと楽しめ、しっとりとした男女の機微を描いて秀悦である。

「身替座禅」は、常磐津と長唄の掛け合いという形式を取る舞踊劇である。話はシンプルだ。奥方に隠れて恋人に会いたい大名が、一夜屋敷内の仏堂で座禅をしたいと奥方に嘘をついて許しを得て、太郎冠者に身替りになってもらうというもの。しかしその晩、奥方が仏堂に来て、その嘘がばれてしまう。翌朝、帰ってきた大名は、身替りになっている太郎冠者に事の顛末を話して聞かせるのだが、その話した相手は実は衣を被った奥さんであったというものである。
色事が好きで弱気なのだが、愛嬌ある憎めない大名・山蔭右京を演じる勘三郎には本当に笑わせられる。また、怖いのだが反面旦那思いの優しさを滲ませる奥方・玉の井は三津五郎が演じており、こちらも可笑しさ一杯だ。太郎冠者は染五郎が演じるが、主人である大名と、その奥方との間で揺れ動いている様がまた可笑しい。岡村柿江作の明治に書かれた作品であるが、いつの世にも通じる普遍的な出来事を描いて楽しい演目だ。

宮藤官九郎作・演出の新作歌舞伎「大江戸りびんぐでっど」である。くさやの汁を掛けると死人がゾンビとなって甦り江戸の町を闊歩するという、度肝を抜かれるのを通り越して大笑いしてしまうような、何とも破天荒な舞台設定が面白い。そしてそのゾンビたちに、人間が嫌がる仕事をさせようということで、ゾンビを派遣する仕事が始まっていく。ただ奇妙奇天烈というだけではなく、アイロニカルな要素も含んだ展開になっていく。この視点が本作のポイントだ。そして死して何を一番のプライオリティに置くのかという問題を突きつけ、それが“愛”へと収斂していく展開の中に、宮藤官九郎のメッセージが垣間見られたような気がした。

派遣の仕事を始める染五郎演じる半助と、その相方お葉を演じる七之助が中軸を担うが、その清潔感ある爽やかさが観客とのいいブリッジとなり、スプラッターな設定を地上の出来事としてうまく着地させていた。勘三郎のゾンビはまがまがしくも品が立ち、三津五郎の剣劇役者のような侍のカリスマ性が華やかさを醸し出し、獅童の和尚は物語の人の二面性を浮き彫りにして作品に深みを与えていた。

勢いある向井秀徳の音楽、弾けまくる八反田リコの振付、妙に歌舞伎座とマッチしたしりあがり寿が描く幕など、異能たちのぶつかり会いなども、目に、耳に楽しい。歌舞伎の新たな可能性を見出した作品であったと思う

11時の開演で終演が16時15分位の長丁場ですが、たまにはどっぷりと歌舞伎の世界に浸るのも、小トリップ気分になって、贅沢な気分転換になっていいものだなと感じ入りました。日本人なんで、たまには歌舞伎を見るようにしようと思いました。

カステルッチは、ダンテの「神曲」をなぞることはしない。その真髄を掴み出し、アーティスティックに施された現代のシチュエーションの中にその核を放り投げ、核分裂する様を実験しているかのような手法が、独特である。

「地獄篇」は、さまざまなイメージが連続して展開されていく。まずは、カステルッチが自らを名乗るところから舞台は始まる。ダンテ自らが“森の中に迷い込む”と宣言してスタートした「神曲」と同様、語り部が物語の中心に据えられることになる。カステルッチは防護服を身に纏い、その後勢い良く走り込んできたシェパードに咬みつかれることになるのだが、これも豹と獅子と牝狼に襲われた原本に倣うところであろう。

次は黒い大きな箱が現れ、その周りを覆う黒い布が剥ぎ取られると、中には10人程の幼稚園児位の子どもが奔放に遊んでいるシーンが展開される。その後キューブは鏡となって、観客を映し出してもいく。また、バスケットボールをドリブルすると骨が砕けたような音がなる行為が次々と他者へと引き継がれていく様や、ベルギリウスを彷彿とさせるアンディ・ウォーホールの行為を真似て他者が磔刑のポーズで身を投げ出す様を繰り返し、またウォーホールが観客に向かってポラロイドカメラを向けるといった断片的なイメージがコラージュされていく。反復行為を行い続けることと、それを知らず知らずに繰り返している我々観客こそが地獄の住人だと言わんばかりにアジテートしてくるが、それぞれのシーンに意味性はあるのだが、シーンとシーンとの間の連続性が希薄なため、見ているこちらの感情が断絶し、エモーショナルな感情の高まりを喚起させないのだ。美しく刺激的なインスタレーション、と言った印象であった。

「煉獄篇」は、「地獄篇」とは全くアプローチ方法が異なり、物語としての大きな軸があるため、登場人物たちのヒリヒリとした感情が直球で投げ掛けられる衝撃作であった。父と母と小学生低学年位の息子の3人がメインの登場人物。後、10数年後の父と息子も登場する。

まずはこの圧倒的な美術の素晴らしさは、演劇の装置という概念を軽く超えている。美を知り尽くしたカステルッチだからこそ描ける、そこにあるもの全てに意味があり、かつ美しくもあるという、一切無駄のない引き算の美学で満ち溢れている。また、「地獄篇」でもそうだったのだが、照明の光源が一切明かされないのも大きな特徴だ。故に、光線のエッジもはっきりとはさせない。ここまで、徹底したアプローチをしている照明家は見たことがない。シンプルなことなのだが、この手法がどれだけ舞台にリアリティを与えるかは計り知れないものがある。

登場人物たちは何かに憑かれているようで、その押さえ込んだ感情を日常の生活の中で押し殺して生きているかのような閉塞感で、舞台は息が詰まりそうな緊張感が張り詰めている。料理を作る際の包丁の音、什器を並べるシルバーの音など金属的な音響が、観る者に対して嫌悪感をさらに拡大させていく。また少年が見る幻なのか、少年の心の守護神であるかのような居間に存在する巨大ロボットが、無機質な部屋に違和感を与えていく。

登場人物それぞれの行動を解説するかのように、字幕が舞台手前にある紗幕に投影されるが、そのうち字幕と行動とがだんだん乖離していく、その居心地の悪さ。調和が少しずつバランスを崩し瓦解していくのだ。そして、疲れた父が行うのは、息子への性的虐待。それを声のみで表現する。延々と誰もがいない舞台に流れる、おぞましい叫び声。一見、何事もない平和な日常の中の奥底に潜む「煉獄」をカステルッチは炙り出していく。しかし、その後少年は、うなだれる父の膝に乗り、赦しを施すかのように額と額を重ね合わせるのだ。その聖人のように超越した意識が、平和を取り戻す手段とでも言うのだろうか。煉獄の解決策は、またしても日常を大きく逸脱した地平に存在しているようなのだ。

少年が見る幻とも夢ともとれる、万華鏡のようなシーンが圧巻だ。大きく円形に開かれた壁のその向こうには、巨大な男根にも見える百合の花や、生い茂る草むらの向こうから父が現れてくるなど、フロイト的とも取れる潜在意識が顕在化した悪夢のようなシーンが展開されていく。その光景を見続けている少年。心の内側を開陳してみれば、悪夢は美しい光景として変換されてはいるが、永遠に消すことのできない刻印を押していることが明らかになる。赦しは、平和を獲得するかもしれないが、心の平和までもは取り戻すことができないという、衝撃を喰らって、観客はただただ、立ち尽くすしか術はない。観客は明日からの生きる術を、何に託せばいいのかという重い十字架を背負って劇場を後にすることになる訳だ。衝撃作である。

カステルッチは、ダンテの「神曲」をなぞることはしない。その真髄を掴み出し、アーティスティックに施された現代のシチュエーションの中にその核を放り投げ、核分裂する様を実験しているかのような手法が、独特である。

「地獄篇」は、さまざまなイメージが連続して展開されていく。まずは、カステルッチが自らを名乗るところから舞台は始まる。ダンテ自らが“森の中に迷い込む”と宣言してスタートした「神曲」と同様、語り部が物語の中心に据えられることになる。カステルッチは防護服を身に纏い、その後勢い良く走り込んできたシェパードに咬みつかれることになるのだが、これも豹と獅子と牝狼に襲われた原本に倣うところであろう。

次は黒い大きな箱が現れ、その周りを覆う黒い布が剥ぎ取られると、中には10人程の幼稚園児位の子どもが奔放に遊んでいるシーンが展開される。その後キューブは鏡となって、観客を映し出してもいく。また、バスケットボールをドリブルすると骨が砕けたような音がなる行為が次々と他者へと引き継がれていく様や、ベルギリウスを彷彿とさせるアンディ・ウォーホールの行為を真似て他者が磔刑のポーズで身を投げ出す様を繰り返し、またウォーホールが観客に向かってポラロイドカメラを向けるといった断片的なイメージがコラージュされていく。反復行為を行い続けることと、それを知らず知らずに繰り返している我々観客こそが地獄の住人だと言わんばかりにアジテートしてくるが、それぞれのシーンに意味性はあるのだが、シーンとシーンとの間の連続性が希薄なため、見ているこちらの感情が断絶し、エモーショナルな感情の高まりを喚起させないのだ。美しく刺激的なインスタレーション、と言った印象であった。

「煉獄篇」は、「地獄篇」とは全くアプローチ方法が異なり、物語としての大きな軸があるため、登場人物たちのヒリヒリとした感情が直球で投げ掛けられる衝撃作であった。父と母と小学生低学年位の息子の3人がメインの登場人物。後、10数年後の父と息子も登場する。

まずはこの圧倒的な美術の素晴らしさは、演劇の装置という概念を軽く超えている。美を知り尽くしたカステルッチだからこそ描ける、そこにあるもの全てに意味があり、かつ美しくもあるという、一切無駄のない引き算の美学で満ち溢れている。また、「地獄篇」でもそうだったのだが、照明の光源が一切明かされないのも大きな特徴だ。故に、光線のエッジもはっきりとはさせない。ここまで、徹底したアプローチをしている照明家は見たことがない。シンプルなことなのだが、この手法がどれだけ舞台にリアリティを与えるかは計り知れないものがある。

登場人物たちは何かに憑かれているようで、その押さえ込んだ感情を日常の生活の中で押し殺して生きているかのような閉塞感で、舞台は息が詰まりそうな緊張感が張り詰めている。料理を作る際の包丁の音、什器を並べるシルバーの音など金属的な音響が、観る者に対して嫌悪感をさらに拡大させていく。また少年が見る幻なのか、少年の心の守護神であるかのような居間に存在する巨大ロボットが、無機質な部屋に違和感を与えていく。

登場人物それぞれの行動を解説するかのように、字幕が舞台手前にある紗幕に投影されるが、そのうち字幕と行動とがだんだん乖離していく、その居心地の悪さ。調和が少しずつバランスを崩し瓦解していくのだ。そして、疲れた父が行うのは、息子への性的虐待。それを声のみで表現する。延々と誰もがいない舞台に流れる、おぞましい叫び声。一見、何事もない平和な日常の中の奥底に潜む「煉獄」をカステルッチは炙り出していく。しかし、その後少年は、うなだれる父の膝に乗り、赦しを施すかのように額と額を重ね合わせるのだ。その聖人のように超越した意識が、平和を取り戻す手段とでも言うのだろうか。煉獄の解決策は、またしても日常を大きく逸脱した地平に存在しているようなのだ。

少年が見る幻とも夢ともとれる、万華鏡のようなシーンが圧巻だ。大きく円形に開かれた壁のその向こうには、巨大な男根にも見える百合の花や、生い茂る草むらの向こうから父が現れてくるなど、フロイト的とも取れる潜在意識が顕在化した悪夢のようなシーンが展開されていく。その光景を見続けている少年。心の内側を開陳してみれば、悪夢は美しい光景として変換されてはいるが、永遠に消すことのできない刻印を押していることが明らかになる。赦しは、平和を獲得するかもしれないが、心の平和までもは取り戻すことができないという、衝撃を喰らって、観客はただただ、立ち尽くすしか術はない。観客は明日からの生きる術を、何に託せばいいのかという重い十字架を背負って劇場を後にすることになる訳だ。衝撃作である。

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