2013年 9月

サム・シェパードが筆致する、アメリカ“西部”の兄弟を核とする男の生き様が、演出家・スコット・エリオットの手綱捌きにより、実に見応えのある逸品に仕上がった。いやあ、面白かった。当たり前のことではあると思うが、演劇における演出家の重要さを、本作に接することでヒシと感じることになった。

開場時、舞台の緞帳は上がっており、とある家のキッチンと、そこから繋がる居間のセットが設えられているのが微かに見えている。会場内には、こおろぎの鳴く音色が響いている。物語が始まる前から、観客の気分を舞台に摺り寄せていく、あざとさの感じられないナチュラルな一手に感じ入る。

明かりが入り、内野聖陽と音尾琢真が舞台に現れ、物語の幕は切って落とされた。二人は兄弟。兄の内野聖陽、リーは風来坊、弟の音尾琢真、オースティンはシナリオライターという設定だ。下手側の居間のテーブルにはタイプライターを前にしたオースティン、上手側のキッチンにはたゆたう様なリーが定位置として対峙することになる。煌々とした明かりの下のオースティンと、キッチンの暗がりに佇むリーとの姿に、今、二人が居る状況が無言の内に指し示される。

母の実家で家族と離れ執筆作業に没頭するオースティンの下に、ふらりとリーが舞い戻ってきたというシチュエーション。母はアラスカ旅行に出掛けているため、不在である。父は家を出ており、兄弟2人との折り合いも良くないと見て取れる。リーの風来坊気質は、どうやらこの父から受け継いでいるようだ。

休憩を挟んで約2時間半、ほぼ、この二人だけで、本作は展開されていく。凝縮された濃密な時間が繰り広げられていく。兄弟二人の生き様を通して、“男”というものが抱える様々な葛藤が描かれ、ズキリと心に突き刺さる。

社会的地位の獲得、有名になって金を稼ぎたい、よき家庭を持ちたいという願望を実現していこうとする反面、根無し草の様に自由に生きてみたいという希求を内包する、“男”が孕む真情などが浮き彫りになり、正反対にも見える兄弟が、まるで合わせ鏡のように己を照らし合う。マッチョを装い生きていく使命を背負った男たちの、矛盾した心の襞が1枚1枚引き剥がされていく。

オースティンがプロデューサーを家に招き打ち合わせをしている場に、出掛けていたリーが戻ってくる。ひと悶着あるかと思いきや、リーはプロデューサーをゴルフへと誘うなどして親しげに取り入っていく。永年の企画が実現寸前のオースティンは、変な邪魔をして欲しくはないとやきもきし始める。と同時に、大事なクライアントとインティメイトな関係性を築いてしまう兄への嫉妬心も立ち上ってくる。しかもこの後、ゴルフに行った兄が口頭で語った物語を、プロデューサーが気に入ったという顛末へと展開していく。オースティンの苛立ちが、沸々と沸き起こっていく。二人の立場は一気に逆転する。

クルクルと転回する物語の表層だけをなぞることなく、演出家の視点は、兄弟がその都度逡巡していく感情にピッタリと寄り沿うように注がれていく。兄弟の性格をステロタイプに捉えることなく、兄の中にある気弱さや、弟が抱え込む現状打破の意気なども、其処此処で掬い取っていくため、人物像が平坦にならず、それぞれの人間性そのものが浮き彫りになっていく。兄弟、同じ家庭環境に育っている訳であるが、その基盤もしっかりと通低音として鳴り響かせていくため、二人には血の繋がりがあるのだという強烈な説得力が生まれていく。

子どもが悪戯でもするかのように、オースティンは近隣の家から幾つものトースターを盗むこととなり、リーは、探し物を見つけるためキッチンに収納されているものをことごとく引っ掻き回し、舞台は物が散在する状態となる。そして、母が予定より早めに帰国し、この惨状を見て呆然と立ち尽くす。スコンと母の客観的な視点が持ち込まれることで、昔日より変わらぬ兄弟の関係性が、さらにクッキリと浮かび上がる。

兄のリーを演じる内野聖陽は粗暴な反面、繊細さを秘めた自由人を見事に造形する。男であれば、こんな生き方してみたいなと、絶対してみたくないという両義的な思いを抱かせる矛盾に満ちた役どころを的確に演じきる。

一見、優等生に見える弟オースティンであるが、兄とは出自が同じ。兄が放浪する砂漠に一緒に向いたと断じるまでのプロセスを、違和感なく自然に魅せる音尾琢真の弟振りに、思わず感情移入してしまう。観客とのブリッジの役割を、そうと感じさせないナチュラルさで表現する。

プロデューサーを演じる菅原大吉はゲイテイストの振り撒くことで、兄の企画に興味を移す、その心変わりの心情に説得力を持たせていく。母を演じる吉村実子は、傍若無人な男どもに囲まれ暮らしてきた“女”の、肝の据わった母性を滲ませリアリティを醸し出す。

悩みながらも生きていく男たちの姿をその出自にまで遡り、迷走する想いを抉り出す、その繊細で大胆なアプローチが胸を打つ。サム・シェパードが描いた世界から、見事にそのエッセンス=“魂”を搾り出すことに成功した傑作であると思う。

この華やかで実力派が居並ぶ豪華なキャスティングに、観る前からわくわく感が高まっていく。しかし、演出のケラの視点はどの登場人物に対しても、フラットな眼差しを注いでいるため、どの登場人物たちからも、それぞれの人間が抱えるごく日常的な苦悩や憤懣を滲ませ、親和性を醸し出す。アンサンブルが上手く機能する。

物語は粛々と展開していく。チェーホフの戯曲は、人生の端緒の日常的な何時間かを描きそれを紡いでいくため、人々に起こったエポック・メイキングな出来事は、観る者が想像力で補っていくしかない。言い換えれば、演じる役廻りにいかにリアリティを持たすことが出来るのかが、役者にも演出家にも問われていくことになる。力量が否応無しに試される戯曲であると言える。

ケラの手捌きは大仰な外連味を一切排し、自分の人生を精一杯に生きる人間のペーソスを掴み出し客観的に見つめていく。その人物を捉える冷静なアングルが、アイロニカルな可笑し味を表出させていくことになる。その繊細さが、本作の肝。ピンセットで感情の襞を摘まむが如く、微細な心の動きを交差させ絡め取っていくことで、人間同士の間のささやかな差異が浮き彫りになり、その相違が可笑し味へと転じていくのだ。

ケラが設えたステージの上を跋扈するのは、実力を伯仲させる人気俳優たち。演じる役柄の核をしっかりと捉えた上で、自らの資質を掛け合わせ、独自の個性を造形していく。そして、自己に没頭して主張し過ぎることのないクレバーなバランス感覚で、それぞれが拮抗し合うその様が、実に心地良い居住まいを創り出していく。

背景となる美術であるが、室内の場面では壁一面がガラス窓となり、内から外への希求が象徴的な造りが印象に残るが、外のシーンにおいてはリアルな造形とは一線を画し、印象派のような柔らかな雰囲気を漂わせる。台詞の応酬が窮屈にならないための“抜け感”が、さりげなく作品の背景で息づいていく。

大女優・アルカージナを演じる大竹しのぶが、圧倒的な存在感を示していく。深刻さと滑稽さとわがままとが表裏一体となった大女優の奔放な振る舞いを、大女優・大竹しのぶがパワフルに演じていく。息子であるトレープレフは生田斗馬が演じるが、息子に対しては1個の人間として接し、可愛がりもするが罵倒して取っ組み合いのバトルにもなっていく。その一瞬をギリギリに生きる女優の性を、衰えぬ色香を漂わせながら嬉々として演じぬく。

そんな母親の息子に生まれてしまったことの辛苦を嘗めるトレープレフであるが、悩み、鬱屈した精神も生田斗馬を通すと清廉さを獲得し、溌溂とした若者像が浮かび上がってくる。内に向かう感情もパワフルに演じていくため、段々と弱っていく様もポジティブにさえ感じられるのが面白い。もう少し陰影を含んだ複雑さが垣間見られると、奥行きが深くなったのではないかと思う。

野村萬斎はアルカージナの愛人で流行作家のトリゴーリンを演じるが、主演を張ることが多いにも関わらずピッタリとアンサンブルの一員となり、トリゴーリンのポジションをクッキリと際立たせていく。人気はあるのだが自分はどの作家よりも劣るのだという劣等感を抱きつつ、アルカージナの前では優柔不断な態度を取ってしまう、少々情けないダンディな作家振りに愛嬌を忍ばせていく。また、作家特有の奔放さや厭世的なニュアンスも感じさせ、トリゴーリンから多面性を引き出していく。

女優志望のニーナを演じるのは蒼井優。若さゆえの一途さと無知さが強調されることにより、ニーナの可愛いらしさがふんわりと引き出されていく。無垢な女性のピュアな感情を、ストレートに叩き付けるように蒼井優は演じていく。愚直なまでの生き様を素直に造形して好感が持てるが、時折挟み込まれる謳い上げる台詞廻しに、女優としての未成熟さが少々感じられる。

山崎一は老齢の中に愛嬌を忍ばせ、梅沢昌代は妙齢の色香を漂わせる。西尾まりは恋する女の裏腹な心情に説得力を持たせ、中山祐一朗は恋する男の純真さをピュアに演じる。浅野和之は粋な大人の男の伊達さを醸し出し、小野武彦は主従の関係の曖昧さをコミカルに表現していく。

戯曲の中からそれぞれの人間の可笑し味を引き出し、力量ある俳優陣が客観性を持ってアンサンブルに徹していく。そこから滲み出る、生きていること自体の面白さ、不思議さ、不可解さを活写していくことで、人間が本能のままに突き動かされていく様を、柔らかな喜劇性を持って描いた逸品であると思う。

「ヴェニスの商人」は、シャイロックの描き方一つで全く違う展開を示す作品であるが、猿之助をシャイロックに迎えた本作は、ピカレスクな面白さに溢れた悪漢ものの様相を呈しスリリングで爽快だ。まるで弱いものいじめのような、そして、その光景を見て周囲の者たちが快哉を叫んでいるとしか思えない物語であるが、そんな圧力何のその、逞しく生き抜くユダヤ人シャイロックを猿之助が生き生きと造形して心地良い。

どうやら本作の上演は、猿之助から蜷川に対してリクエストしたようであるが、シェイクスピアが描く本作の勧善懲悪の世界観が、歌舞伎が描くスピリットと合い通じるものを猿之助が感じたためであろうか。また、かつて、多くの歌舞伎役者が本作に取り組んできた連綿とした歴史があるが、そんな要因も猿之助を突き動かすことになったに相違ない。

蜷川の演出は、役者の資質を最大限に活かし切ることに主眼が置かれており、美術もヴェニスであることが分かる環境を設えたフェーズに留まり、いたってシンプルな造作だ。しかし、オールメール・シリーズの一環に据えることにより、観客は人物造形の面白味に注視することになる。面白い。

また、登場人物が語り合う背景に、修道僧たちがその光景を目撃しているというシーンが、時折挟み込まれていく。もの言わぬコロスいった在り方だ。その修道僧の存在が、観客の視点とオーバーラップして作品に客観性を付与し、また、動きや佇まいがユーモラスな存在感を示すことにより、物語が深刻さから解放されていことになる。

それにしても、猿之助の存在感は圧倒的である。歌舞伎の所作や語り口も独特に、物語から一人抜きん出てグイグイと作品を牽引していく。居並ぶベテラン俳優陣とは全く異なる技法を、多くの抽斗の中から開陳し叩き付けてくるのだ。その目くるめくような展開に、観る者は心躍らされことになる。

そんなシャイロックに拮抗するのは、アントーニオを演じる高橋克実。豪胆さと繊細さを同居させた複雑なアプローチで、アントーニオが慕われる要因や苦渋を魅力的に表現していく。猿之助の演技を真っ向からグッと受け取り、的確だ。中村倫也がポーシャを演じるが、若くてクレバーな女性を見事に造形する。シャイロックと対面の岸に居るのだというクラス感がほのかに漂ってくる。

バサーニオは横田栄司が演じるが、偉丈夫な体躯を活かしたマスキュリンな資質を役柄の中から掴み出す。アントーニオとの相思相愛な関係性をフューチャーする向きもあるが、本作ではドラスティックにあくまでもビジネス上でのお付き合いなのだということが明確に示し、ポーシャへの思慕も腑に落ちる。

グラシアーノは間宮啓行が演じるが、んっ、誰?と思わせるような、軽妙洒脱な存在感で観客から笑顔を引き出していく。岡田正のネリッサとのコンビネーションも面白く、作品にふくよかな温かみを醸成させていく。

終盤の法廷の場は白眉だ。シャイロック対ヴェニスの人々といった構造に、筆致の悪意を感じないではいられないが、全ての者たちを敵に廻して大立ち回りをする猿之助から目が離せない。意気軒昂な立場から一転、財産没収に至る転落の様を、まるでジェットコースターにでも乗ってでもいるかのような歓喜と恐怖と驚愕さを交互に繰り出しながら、シャイロックの無念さを爆発させる。裁判に敗れたシャイロックが通路から後ろ髪を引かれる思いで立ち去るシーンで、猿之助は全身で憤懣やるせない思いを放射し圧巻だ。大向こうから声が掛かりそうな外連味に満ちた幕切れだ。

物語はその後、シャイロックのことなど何もなかったかのように、恋のさや当ての顛末を描いて大団円を迎える。この狂騒振り自体は可笑し味を醸し出すが、猿之助のあまりにも鮮やかな退場が胸にシコリとなって残っていく。

蜷川演出は、最後の最後にシャイロックを登場させるという戯曲にはない設定を提示することなる。勿論台詞はないのだが、今に見ていろとでも言わんばかりに観客席に睨みを効かせる猿之助の炯眼がドキリと胸に突き刺さる。社会の弱者の意気を掬い取る猿之助の圧倒的な存在感が強烈なメッセージを叩き付ける逸品として、永く記憶に留まる作品に仕上がったと思う。

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