2014年 1月

古川日出男が描く世界は、日常の中に潜む狂気を異説として立ち昇らせ、叙事詩にまで昇華させるダイナミックさに満ちていて躍動感があるのだが、その特質が本作初戯曲においても息づいており、筆致は100年前の東北のマタギにまで世界観を跋扈させる。

過去と現在との時空が入り混じり、リアルと幻想を同次元に現出させ、およそ日常会話とは思えぬ台詞によって紡がれていく壮大な物語は、一見難攻不落の城壁にも思えるが、見事、観客を惹き付ける作品へと創り上げることに成功した。その功労者は、何といっても、蜷川幸雄の演出力に他ならない。

古川日出男は、完全に蜷川幸雄に戯曲を委ねる前提で執筆しているのは明らかで、現実的に舞台に載せていかなければならないという演劇の制約から完全に解き放たれ、奔放なまでに連鎖するイメージをとことん拡大させていく。どう育ててくれるのかを楽しみにする、生みの親のある意味我がままさと、稀代の演出家とがガッツリ正面衝突をしてスパークする様はこの上なくスリリングだ。そのガチンコ勝負が、本作の最大の見せ場でもあると思う。

荒削りに構築された北陸の民族史ともいえる本作は、そのスケールの広大さにおいても、其処此処に散りばめられたスペックの深遠さにおいても、1つの作品として説得力を持たせていくのにはなかなか御し難いテキストだと思う。過去に存在する、熊猟師、富山の薬売り。時代背景は、シベリア出兵、新潟での石油発掘事業。それらが、現代とワープしていく。ライフル競技でオリンピック代表選手の兄・一と、商社マンの弟・多根彦。兄は、熊猟師の高祖父のDNAを受け継ぎ、弟はガソリンスタンドの事業構築を商社にて担当し、歴史の中に封じ込まれた石油事業を知らず知らずに牽引する役割を担うことになる。ある種の北陸の命運を、この兄弟が継承することになっていく。そして、その時空の隙間に存在し、観念とリアルの薄い皮膜を自由に行き来するのが、犬であり、猟師が討ち取る対象である熊となって、立ち現れてくるのだ。

その運命の兄弟に間に割って入るのが、犬を歌う、詩人の女性、ひばりである。最初は多根彦の婚約者であったのだが、両家挨拶の場・回転寿司屋に先に着き、隣り合わせになった一とひばりはその場でお互いに惹かれ合い、逢瀬を重ねることになっていく。「男子、二十五歳にして一子をもうけるべし」の家訓を守ろうとした多根彦の意思は、運命の力によってもろくも崩れ去ることになる。

人や野獣や歴史が通過した後に残る幾筋もの轍を、丁寧にかつ大胆に、解きほぐし結んでいく蜷川幸雄は、抽象を全て可視化させていくことで、観客に創造力を委ね過ぎることなく、エンタテイメントとして成立させ提示するプロフェッショナルの力技を全開させていく。

ト書きをスクリーンに投影し作者が描きたかった情景を観客に伝える手法を取り、詩人が詠む詩も作者の直筆文字を大きく舞台に映し出していく。また、大仏の口から犬が吐き出されたり、大仏の頭が犬に挿げ替えられたり、シベリア出兵の情景が時代背景として据え置かれていく様など、視覚的なサプライズも何なくやり遂げていく。

一番驚愕したのは、一とひばりが出会う回転寿司屋のセットである。舞台と1階客席通路と1階客席中央の通路にベルトコンベアを急ごしらえで設え、実際に回る寿司を見た時、正直、度肝を抜かれた。惹かれ合う二人の会話も間々ならず、寿司屋の客たちの喧騒にともすれば掻き消されてしまう程の迫力で、観客に圧倒的なパワーを叩き突けていく。形而上的なるものを、生身の人間が生命を吹き込んでいくことこそが演劇の醍醐味であるということを、まざまざと見せつけてくれる。戯曲から概念を取り払い、そこから人間の生き様を抽出して圧巻だ。

兄・一を演じる井上芳雄のリアルな演技から目が離せない。どの役柄においても、何処かしら王子様然とした印象は拭えない、いや、それが彼の特質なのだと思っていたのだが、本作でその思い込みは完全に覆された。本能に忠実な一介の普通の青年が其処には存在していた。一皮剥けた井上芳雄がそこにはあった。

KAT-TUNの上田竜也が弟・多根彦を演じるが、兄をこよなく慕いながらも、後半、婚約者を兄に取られ狂気の沙汰になる様を、ストレートに演じて好感が持てる。欲をいえば、愛憎が綯い交ぜになった行き場のない感情を重層的に立ち上らせてくれると、もっと複雑な多根彦の思いが付き刺さってきたのではないかと思う。

詩人・ひばりは鈴木杏が演じる。一人舞台に立ち、まるで文章のような独白を語り始める場面などにおいて、台詞が言霊となる瞬間を目の当たりにすることになる。吐かれる言葉がその場で昇華され、詩となって開花する。熱情も半端なく運命の兄弟を翻弄する、ファムファタールを艶やかに造形していく。女優としての色香が増してきた感がある。

孤高の熊猟師である高祖父を、勝村政信が演じていく。役柄上、一人で存在し独白が多く、丁々発止なやりとりはあまりないため、劇中でもまさに孤高の存在となっていく。伝統と新しい時代との狭間で揺れる、この猟師のDNAは消えることなく、連綿と続いていくことになるのだ。歴史とは、かくあるものだと認識することにもなる。

「百年の想像力を持たない人間は、二十年と生きられない」。創り手たちのテーマは、台詞でも語られるこの一文に集約されるのかもしれない。現代日本を憂うる大いなる危惧を神話化させ変換することで、物語を普遍性ある叙事詩へと造形した演出家の手腕に脱帽させられた衝撃作であった。

映画監督である堤幸彦が、映像が持つ躍動感を真っ向から演劇に持ち込み融合させ、エンタテイメントとして昇華させた。もはや、演劇とも、ショーとも、区別することすら出来ない、いい意味での見世物として成立させた氏の手腕が全開だ。

題材は世に広く知られた真田十勇士の物語。戦国時代最後の戦といわれる、大阪の陣を題材にとったフィクションを、マキノノゾミが独自の解釈で筆致していく。フィクションという“嘘”も、その奥底にある真情を突き詰めていけば“真実”に近付いていくのだというコンセプトが、本作に通底するテーマとして据え置かれていく。

“虚”と“実”との間にある薄い皮膜を行き来しながら、登場人物たちは逡巡しながらも己の人生をパッショネイトに生き抜いていく。その“熱さ”が、何とも心地良いのだ。堤演出は、マキノ脚本から、真田十勇士の真情を掬い取り、最大限に拡張して観客に叩き付ける。

観客にいかに楽しんで貰おうかという本作に集うクリエイターたちのスピリッツが、一貫して作品に流れてはいるのだが、少々表層的である感も否めないとも感じ取っていく。

いや、観客が望んでいるのはこういうものなのだ、という向きもあるのだとは思う。本作を観ることにより、劇場に集う人々が、何に興味を持ち、何処に感動をするのかというポイント、言葉を言い換えればマーケティングとも言えるのかもしれないが、従来の演劇というジャンルにおいてはこれまで多分リサーチしてこなかったのであろうこういったポイントが、実は、今日、かなり重要な課題なのだということを発見することになる。この規模の公演に関しては、特に、大多数の人々から満足感を引き出すことが作品の成功の成否を分けるといっても過言ではないからだ。

魅せることにかけてはプロのスタッフが居並ぶが、本作を演劇たらしめているのは、猿飛佐助を演じる中村勘九郎の存在に他ならない。舞台という板の上においては、歌舞伎役者の底力が思う存分発揮されることになる。所狭しと大きな青山劇場のステージを跋扈する中村勘九郎の、この躍動感! そして、座長として座組みを牽引する若いパワーに、観客もグイグイと引き込まれていくことになる。

霧隠才蔵を演じるは松坂桃李であるが、クールで格好いい側面を最大限に拡大し、ファンの期待に応えていく。しかし、何分、予定調和な感があり、人間性の深みもあまり掘り下げられないため、劇画的な二枚目的なキャラの内に納まってしまった気がする。ハル王子を凌駕する存在感は、希薄なまま終始する。

姿は現さねど、坂東三津五郎の語りが、グッと作品を引き締めることになる。この、声音には、思わず耳を傾けざるを得ない言霊が凝縮されている。紛れもない本物の力というものが堪能できる。

真田幸村は加藤雅也が演じるが、この人物の解釈が新機軸で面白い。ルックスの良さを誇りながらも気弱で自信無げな同役は、意外にも観客の親和性を高めることにもなった。加藤雅也の体躯が、説得力を更に増していく。真矢みきの淀殿は、燐とする中にも、秘めた企みを押さえ込みながら、粛々と生きながらえる戦国時代の女を華麗に演じきる。映像でしか登場しない平幹二朗は徳川家康を演じるが、目力も強烈に、時代を変革する者のカリスマ性を全開にさせていく。

映像を駆使した新奇性ある演出と、ベテラン演劇人の底力が絶妙にブレンドされ、少々、見世物興行的なライトさが軽いとも思われるきらいもあるが、万人が受け入れられる作品として成立させた堤幸彦独自の世界観が享受できるエンタテイメント時代劇としてエンジョイできた。

最近のコメント

    アーカイブ