こんなにも戯曲の世界を完璧なまでに視覚化し、また、難解な言葉の奥底にたぎる熱い思いを掘り出し噴出させ、歓喜と感動を与えた舞台は滅多にない。蜷川幸雄は、野田戯曲に流れる水脈から、見事黄金をすくい出すことに成功した。
初演も観てはいるが、言葉遊びの面白さと神話的背景の壮大な物語に目を奪われ、それはそれで大変感銘を受けた記憶があるが、今回、蜷川幸雄は、本戯曲を闘争の物語として読み解いていく。しかし、氏の背景にある60年代安保時にだけ集約されることはなく、今も世界中のそこここで起きているテロ行為や政治闘争へも照射させることで、この闘争をより普遍的なものへと昇華させていく。そのムーブメントの中でモガキながら体制に挑みかかっていく主人公サスケから、もしかしたら今、我々が失いつつあるかもしれない「胸にたぎるある熱い思い」を強烈に突きつけられ、その衝撃に、涙してしまうのだ。
松本潤演じるサスケが、何度も空を飛ぼうと挑戦するシーンが圧巻だ。舞台床に空いたいくつもの穴から、ヘルメットを被った男たちが革命の旗を振る中、サスケは空中浮遊し、何度も昇ろう飛ぼうとするが翼の折れた天使のごとくヒュルヒュルと堕ちていってしまう。舞台は真っ赤。背景には爆音が飛び交っている。敗れるサスケは、紛れも無い革命闘士である。野田戯曲がロジックの奥に潜ませていた核の部分を拡大して見せていく。その姿は、天晴れでもあり、また、この上なく美しくもあるのだ。
物語は、神と巨人と小人の国同士が「人」という発明品を取り合うという神話と、棒高跳びが得意なサスケと、サスケが越した部屋の前の住人おまけと、アマチュア無線仲間のその後の信長の現実世界との話が交錯していく。追われる「人」=サスケと、実は爆弾犯であるその後の信長が刑事の追われる中、富士山へと舞台を移していく。
舞台上下に設えられたスクリーンには、その時々に、戯曲のト書きや、台詞の固有名詞や人物の説明などが映し出されていく。野田秀樹本人は絶対やらないであろうこの手法も、また可笑しである。情報量が多く、一見難解に見える話を、どう、分かり易く伝えるかということであろうが、少しの異化効果を放ちつつも、意外に違和感なく舞台に溶け込んでいた。
松本潤の純粋さが現れれば現れる程よりコンセプトが際立ち、鈴木杏はその第一声を聞いただけで何故か涙腺をやられてしまう位力強さと慈愛に満ち満ちていて脅威である。勝村政信がいい具合に舞台をかき回し、松本潤を旨く引き立てることにも一役買っていた。六平直政の豪放や、山口紗弥加の凛とした強さ、杉本哲太の柔らかさなど、役者陣の個性の色を楽しめるのも一興である。
困難をすり抜け、最後にサスケが飛翔出来たシーンは、もう、感涙ものである。文句なく楽しく、若々しく、とても深いが、アグレッシブに挑戦的で、美しい! 純粋に美しいものを目撃してしまった時に起こるある種の感情が、自然と湧き上がってきた。いつまでもいつまでも観ていたいと思わせてくれる素晴らしい終焉であった。至福、である。
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