2012年 8月

若い俳優が真っ向からシェイクスピアに挑んだ清々しさに溢れた本作は、蜷川幸雄の指導の後が見て取れる、蜷川シェイクスピア学校のワークショップ発表公演とも言えるような生真面目さに満ちている。

また、彩の国さいたま芸術劇場で展開されているシェイクスピアの「オールメール」シリーズとしては初の喜劇ではない演目であるが、悲劇へと雪崩れ込む展開の中においても、女性を演じる男優に佇まいに全く違和感はなく、すんなりと物語を受け入れることが出来ていく。迷うことなくシェイクスピアにぶつかっていく男優陣の姿勢に、観る側の視線からも邪念が振り払われ、皆が演じている役柄の表層ではなく、その奥にある“核心”部分が透けて見えてくるようなのだ。

舞台はトロイ。現在は、ギリシアとの戦争が日常的に続いている時代にあるという設定だ。王子トロイラスは叔父のパンダロスに頼み、神官に娘クレシダとの仲を取り持ってもらうよう画策する。クレシダもこの縁談は満更ではないのだが、簡単には落とされまいとトロイラスを焦らす女心の駆け引きが面白い。戦争を背景にしたラブストーリーかと思いきや、物語は意外な展開を示していく。

なかなか上演される機会の少ない戯曲であるが、示唆に富んだシニカルな視点で、世の理に切っ先鋭く斬り込む物語展開にグイグイと引き込まれていく。多くの矛盾を抱えながら、正解を明確に提示しないという流れが、様々な価値観を有する混沌とした現代の世相にオーバーラップしていく。

愛を誓い合った二人であるが、敵国に捕らえられた捕虜との交換条件で、クレシダをギリシアに引き渡さなければならない事態に直面することになる。しかし、二人はここで「ロミオとジュリエット」のように愛を優先させることなく、悩みながらも国の決定事項に従うことになるのだ。この理性的な対応が、何ともリアルである。感情を押し殺し、世の習いに身を任せる姿に、知らず知らずの内に、その姿を観る己の心情を合わせ鏡のように投影させていくことになる。早々、冒険的な行動が取れる訳がないのだという心理が、痛い程胸を突いてくる。そして、この悲劇が、また、新たな悲劇を巻き起こしていくことになる。

ギリシア陣営へと向かったクレシダの様子を、トロイラスが物陰から伺うことが出来るチャンスが訪れる。そこで、トロイラスが、敵の武将ディオメデスのモーションにあまり嫌な素振りも見せずに応えているかのようなシーンを、トロイラスは目撃してしまうことになる。

不実の代名詞のようにも唱えられるクレシダではあるが、ここでは、体裁良く相手をあしらっているという風にも見える体で、クレシダの実際の思いはどうであったのかということは、観客に想像させる余地を残した描き方が成されている。物語のある意味肝に当たる部分を、どう読み解くのかという仕掛けも観客に委ねられており、なかなかスリリングである。

タイトルロールのトロイラスを演じる山本裕典は愚直なまでに真っ直ぐに、この役柄に取り組んでいるのが伝わってくる。但し、もう少し逡巡する思いや悩みなど、内に秘めた思いの部分がクッキリと浮かび上がってくると、人物造形にもより深みが出たのではないかと思う。月川悠貴演じるクレシダの、物事を達観して捉えているかのような視点が何とも面白い。あらかじめ、何かに期待しないというか、諦めているかとも思える様は、特権階級の女性特有の、自分の力だけでは自分の人生ですら自由にならないという意識が身に沁みているかのような在り方なのだ。故に、不実であるかないかという解釈も謎のまま提出されることとなる訳だが、その曖昧さが破綻することなく収束していくパワーを放っている。

アイアスの細貝圭の小気味いい単細胞振りが面白い。笑いへと誘うキャラクターに持ち込む手腕に、今後の期待も高まる。長田成哉のパトロクロスのお稚児様的存在は、存在感ある武将アキレスを造形した星智也とのコンビネーションはいいが、もう少しパトロクロスという人物の個性を感じたかった。パリスの佐藤祐基は実直な部分の他に、色香を放つようなオーラが染み出るような感性をもっと搾り出して欲しい気がする。塩谷瞬は高貴さを感じられる存在ではあるが、演技が硬質なため、ディオメデスの真情にまで到達出来ていなかったようだ。少ない出番ながらもカサンドラを演じた内田滋は、変に女性らしく振舞うことを切り捨て、理解されぬ預言者の心の叫びを体現し、心象にクッキリと残った。

脇を固めるベテラン陣は鉄壁に様相であるが、パンダロスを演じる小野武彦の寛容さ、シニカルな序詞役テルシテスを演じるたかお鷹の、物語からのいい塩梅のはみ出し具合が、作品をグッとふくよかにしていた。

英雄たちのサイドストーリーとも言える本戯曲の粋を汲み出し、旬の俳優陣が現代とのブリッジ役を果たすことで、古代の物語が現代の寓話として甦えらせることに成功したと思う。俳優陣が放つ純粋な意気と全開のパワーの洗礼を浴びることで、観る者に元気を与えることが出来る良質の悲劇であった。

開演時間になると三谷幸喜の人形を携えた人形遣いが客席の最前列に登場し、携帯電話を切っておくようになどといった観劇前の注意事項が、三谷幸喜の声が流れて語られていく。前説的な効果も醸し出し、会場が和やかな空気感に包まれ、一体感が生まれていく。

「其礼成心中」というタイトルが「曽根崎心中」を彷彿とさせるのは、三谷幸喜の意図であることは観る前より明らかだが、物語は近松門左衛門の「曽根崎心中」が大評判を取った後の、天神の森が舞台となって展開していくことになる。人形浄瑠璃の傑作に胸を借りることにより、三谷版人形浄瑠璃は、観客が新作に接するハードルを一気に下げていく。既に知ったる馴染み深い物語を導入としながら、人形浄瑠璃の世界にスッと入り込んでいくことが出来る戦略だ。

それにしても、三谷幸喜は、こうも果敢に毎回、新しいことに挑戦し続けるのであろうか。人形浄瑠璃は、昨今、新作が発表されることはあまりないジャンルであるが故に、ある意味、厳しい批評眼に晒されるリスクも抱合していたに違いない。しかし、既に成功を収めているカテゴリーだけに留まることなく、新しい公演の度に新たな地平を斬り拓く三谷幸喜のアイデアとパワーには脱帽させられる。

時は元禄、「曽根崎心中」の大ヒットにより世に心中ブームが巻き起こり、自らもおはつ徳兵衛のように最後を遂げたいという恋人たちで大賑わいの天神の森だが、曽根崎の人にとってははた迷惑な話。心中の地として有名になることにより、かえって一般の人々は近寄らなくなってしまい、商売上がったりの状態になっているのだ。そこで、饅頭屋を営む半兵衛は、天神の森にやって来たカップルたちを心中させないよう邪魔し始めることになる。

心中ものかと思いきや、心中を巡る喜悲劇という顛末に意外さを感じつつも、ついつい大笑いさせられてしまう。しかも、普通の舞台劇のように、どんどんと話が進展していくため語られる台詞の量は膨大だ。太夫の方々を始め、三味線、人形遣いの皆さんは、フル回転だ。しかし、至芸を堪能させつつも、テンポがスピーディーなため、観客が決して飽きることない展開を示していく。

ここに古典芸能の退屈さはない。人形浄瑠璃という手法で現代劇を描くという、今までにない新しいアプローチが、実に新鮮な印象を与えていく。

人形の動作にも惚れ惚れしてしまう。見ているうちに、だんだんと人形が人間に見えてきてしまうのだから面白い。一体につき、3人の人形遣いが付いているのだが、その姿も気にならない程に、人形と一体化してしまっているのだ。動作なども、つい前のめりになってしまうようなたおやかな色香を放ちつつも、物語展開のテンポに合わせ、驚くようなクイックな動きなども織り交ぜていくなど、その緩急自在な様相からだんだんと目が離せなくなっていく。特に水中のシーンのダイナミックさには、正直、愕然とした。

物語は心中する恋人にフューチャーされることなく、饅頭屋の半兵衛とその家族の顛末に焦点が当てられていくのだが、あれよあれよと間に流転していく様は、二―ル・サイモンのシニカルな喜劇を見ているかのようでもある。人情劇なのだが、アイロニーがタップリと染み込んだドライな感覚なのだ。その諦観した視点が、また、作品に普遍性を付加することにも繋がり、独特の世界観を形成していくのだ。

いやあ、面白かったなと余韻に浸っていると、カーテンコールで、さらにビックリ。数人の人々の物語であったはずなのだが、こんなにも多くの人々によって、作品が作り上げられているのかということに驚愕した。人形浄瑠璃という伝統芸能と現代の偉才とのコラボが見事に開花する瞬間に出会えた幸せを感じる逸品であった。

奇妙奇天烈な松尾スズキワールドにドップリと浸かった。幾つもの物語が交錯し、そこで蠢く人々の感情も複雑に入り乱れる。登場する誰もが一筋縄ではいかぬ生き様を晒しており、言っていることは、どこまでが本心なのかは皆目検討が付かない。観客は舞台上で起こっていることを固唾を呑んで見守ることになるのだが、強引にグイグイを引っ張られていく内に、自分では決して足を踏み入れることはなかったであろう境地に辿り着くこととなり、そこで妙なトリップ感が襲ってきたりする。

「ふくすけ」という奇妙なタイトルであるが、あの頭でっかちの幸福を招くと言われている人形の、まさにそれであった。そういった風体をした、畸形人物を阿部サダヲが演じていく。とある製薬会社が発売した薬の副作用らしく、そういう畸形人物を監禁していた製薬会社の社長は畸形フェチのようで、松尾スズキが演じている。

これだけでも充分ショッキングな内容なのだが、“物語自体”の畸形度合いはまだまだ終わらない。事の発端は裁判シーンから始まるのだが、原告側の女を演じる大竹しのぶは精神バランスを崩した告訴魔だ。近隣住民にあらぬ難癖を付ける女であり、TVでは決して放送できないようなワードが炸裂する。その夫が、一切ポジティブな手を禁じて寡黙に徹する古田新太である。女はある日突然失踪し、14年が経っているという設定であるが、突然、その14年前に時間がワープして、夫婦がまだ仲睦まじかった頃の様子なども活写される。

女は上京して、歌舞伎町の風俗産業でのし上がった3姉妹と出会い、輪廻転生プレイなる風俗で一躍時の人となり、都知事選に出馬することになる。多部未華子演じるホテトル嬢の紹介で、皆川猿時演じる風俗ライターから情報を得た夫は妻を探し当てることになる。

「ふくすけ」が発見され連れて行かれた病院には、聾唖の妻と暮らす男が警備員として働いており、「ふくすけ」を何かに利用できないかと企んでいる。そして、後に、「ふくすけ」をご本尊とした、新興宗教団体を立ち上げることになる。

一見、何の関連性も無いかの様に見える出来事が、「ふくすけ」を中心に流転し、畸形、風俗、売春、新興宗教、政治、偏愛、テロなど、これでもかというスキャンダラスな要素をギッシリと詰め込んだ物語世界が展開されていくことになる。

そこには、人間が心の奥底で抱えてはいるが、表には決して出すことのないインモラルな欲望を全開にし、ある種のカタルシスを観る者に与えていく。そして、物語の決着の付け方に、現代日本が抱える問題や矛盾を突き付け、強烈なメッセージ性を直球で投げ突けてくる。どこを切ってもポワゾンな金太郎飴に徹して創り込まれたこの意気は、限りなくクレバーであり、また、最上級の愛に満ちているようでさえある。

また、社会的には弱者という範疇にカテゴライズされる人々が、堂々と世の中を渡り歩いている姿に、快哉を叫びたくなってしまう様な展開に、ついつい観る者も心奪われていく。既成概念を転覆させていくこのストーリー展開が、何とも心地良いのだ。

旬で実力も兼ね備えた豪華な俳優陣が、この世界の住人たちの特殊な生態に寄り添い、自らの個性などは遥か彼方に置き去り、この奇妙な人々で在ることに徹する姿勢が、作品に大きな求心力を生み出している。意図して造られたカオスに、皆、身を投じている姿が、潔い。ベテラン俳優陣の卓出したスキルが、時間と感情との隙間を、違和感なく紡ぎ合わせていく。

毒気を放つ危険度の高い戯曲世界を、そのデンジャラスさを損なうことなく、超一級品に創り上げた松尾スズキの才能に脱帽した。そして、その世界観をリアルに仕立て上げた、居並ぶ曲者役者たちの技をまざまざと見せ付けられもした。実に刺激的な衝撃作である。

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