開場中の時から劇場内に通低音の様に流れていた都会の雑踏音はそのままに、ステージ上に2人の天狗が登場し、観客席に睨みをきかせて立ちはだかる。水戸藩の天狗党の話であることは事前に知ってはいたが、天狗党の象徴であろう天狗たちが時空を超えて何かを訴えたいのだという切なる思いが、無言のままではあるのだが冒頭からジンと伝わってくる気がする。
第二次世界大戦終結直後の群馬の温泉宿に、闇金を盗み逃げおおせてきた小栗旬演じる大一郎と原田夏希演じる奈生子とが共にやって来る。そして、白石加代子演じる宿の老婆が部屋まで案内するのだが、なかなか部屋に辿り着くことが出来ない。その道程の中で鉢合わせするのが、天狗党を探っている作家・葛河と、編集者・野口。それぞれ、古舘寛治と長塚圭史が演じている。
尊王攘夷の志を朝廷に訴えるため天狗党は西への大行軍を決行する。群馬はその途上の地となるが、どうやら天狗党の謎を深堀りし始めていた葛河が、未だ眠れぬ天狗党大行軍の魂を呼び起こすことになったようなのだ。その辺の経緯を含め、現と彼岸の境を敢えて判然とさせることなく、長塚圭史の筆致は独自の夢幻世界を繰り広げていくことになる。
戦後の時代に、江戸末期の想念が忍び込んでいくが、その忍び込んだ魂たちも、自らの壮年期と幼少期を行き来するなど時空を軽々と凌駕していく。ロジックで物語を追うと迷宮に入り込み右往左往することにもなりかねない表現手段だが、その世界に身を投じ自らその世界の住人になってしまうと、理屈ではなかなか理解し難い展開も腑に落ちてくる。観客の創造力を信じている戯曲とも言えるが、全員がこの世界に没頭出来るとは限らないとも思う。ある種、観る者を選ぶ作品であると思う。
人物デザイン監修を柘植伊佐夫が担当しているのも、ビジュアル面での大きなアクセントになっている。天狗の肌がまさに肌色で施されているため、異形の怪物としてではなくリアルな生き物として存在することになる。天狗党の面々の思いが、確実に観客へとブリッジされていく。また、大一郎を始めとする登場人物たちの衣装が、汚し具合も絶妙で実にリアルでピッタリとくる。しかし、当然ではあるのだが、天狗党の面々などは同じ装束を纏っているため、遠目から見ると、誰が誰だか判然としない状況に時折ぶち当たることとなり、一考の余地を感じることになる。
前水戸藩主であった徳川斉昭の子である一橋慶喜が天狗党征伐軍の総督となっていることを知った一軍は降伏を決意するが、福井の敦賀で、結果、352人が斬首されることになる。その後、処刑を免れた小日向文世演じる武田金次郎は水戸に戻り、天狗党と対立していた諸生党に縁ある人々を惨殺していく展開を示していく。
この揺れ動く時代の不安定な政権の下で右往左往する人々の姿、購うことの出来ない連鎖する暴力などが、観る者に突き付けられるが、この混沌とした状況が現代の世相と呼応すると感じるのは私だけではないはずだ。物語の隙間に登場し舞台の上で跋扈する天狗たちが、舞台上で展開する出来事と観客とを見比べながら、憂いを湛えながら見つめている気がする。
実力派の猛者がひしめく中、小栗旬は中心にスクっと中心に立ち、巻き起こる陰惨な出来事をピュアな存在感で収焉させていく。小日向文世は、クルクルと変わる役柄や年齢を軽々と越境し、説得力ある人物像を造形する。白石加代子はこの物語の夢幻性と哀しみを一気に体現しているかのような存在感を示していく。長塚圭史は作家をアシストする編集者のちょこまかした風情で物語に可笑し味を付与していく。葛河と天狗党と対立する諸生党の市川三左衛門を演じる古舘寛治の飄々とした狡猾さが印象に残る。
後世にあまり伝えられていない天狗党を巡る事件であるが、これは近代に影響を及ばさなかったことは研究対象とならないという理由も哀しく、この会場に当時の私念が渦巻いている気さえした。彼岸と此岸、幕末と戦後と現代が絡まり合いながらも、そこに発せられるのは、世の倣いを憂慮しつつも、前を向いて未来を切り拓いていくのだという創り手の意気が感じられグッとくる。夢を見ていたかのような時間を過ごしたが、心に沈殿したしこりは意外に忘れることができない逸品に仕上がった。
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