2014年 4月

カズオ・イシグロの傑作小説が、一体、どのように舞台化されるのかという1点において、非常に興味深い思いを抱いて劇場へと向かった。映画版は、原作のあの独特の空気感が上手く映像化されていたが、リアルに観客と対峙する舞台において、どのような仕掛けが施されていくのだろうか。

一人称で書かれた手法と、舞台を日本へと移した脚本が、原作から大きく翻案された点であろうか。介護士になった主人公が登場する冒頭のシーン以外は、原作に忠実に物語は展開されていく。寄宿学校へイルシャム、コテージ、その後の3部構成が遵守され、脚本も3幕で成り立っている。キャシーは八尋、トミーはもとむ、ルースは鈴へと名前が変換された。それぞれ、多部未華子、三浦涼介、木村文乃が演じていく。

現在、介護士として働く八尋の彼方から、へイルシャムの生徒たちがスローモーションでゆっくりと観客に向かって迫ってくるシーンで、一気に時間が過去へとワープする。そのあまりにも楽しそうな表情を見ていると、もうそれだけで反射的に滂沱してしまう自分がいた。冷徹に物事の成り行きを捉えるのではなく、登場人物たちの気持ちにピッタリと寄り添い情感たっぷりに描かれる光景が展開され、観る者の気持ちが絶えず舞台上の皆と共振していく。

へイルシャムの学園生活は、多くの生徒たちの群集劇として活き活きと描かれる。この弾けんばかりの若々さに圧倒されていく。しかし、何処かその場を冷静さが支配していくのだ。それは事の成り行きを予感させる伏線が、俳優陣の心の奥底に沈殿しているからであろうか。この空気感が物語のテーマをクリアにすることに寄与し、迸る溌溂さに一種の静謐さを与えていく。

癇癪を起こすことが面白がられ、皆からいじられ浮き上がってしまう三浦涼介の苛立つ姿から目が離せない。何処にも行き場のない感情の発露が、逡巡する若者の思いをグッと凝縮させて見せていく。そんな姿を見守り叱咤するお姉さん的役割を多部未華子が演じ、物語の支柱に強固な安定感を与えていく。そんな中において、歯に衣を着せぬ自由奔放な発言をするムードメーカーを木村文乃が演じ、鬱屈した真情の箇所に風穴を空けていく。

原題名ともなっている音楽「NEVER LET ME GO」を聴きながら、枕をまるで自分の赤子のように抱き締めながらたゆたう八尋。その姿を見かけ、愕然とし涙する床嶋佳子演じるマダム。生徒が創作した作品をチョイスし持ち返るマダムの存在は多くの謎を孕んでいるが、小説でも印象的なこのシーンは、後の伏線にも繋がる余韻を残す、美しくも哀しい光景を生み出した。

2幕目では、学校を卒業した3人が、同じような境遇の他校の卒業生とボヘミアンのような「農園」での共同生活を過ごす日々が描かれていく。すすきのような枯れ草に囲まれた中に、テーブルや椅子などが配された中越司の美術が素晴らしい。1幕目の学校の壁に囲まれた装置から一転するのであるが、自由な中にも、やはり周囲は壁で囲まれている状態に、皆が置かれた状況を無言の内に表現していく。

自分の親ではないかという人を探しに行ったり、無くしたカセットテープを見つけるなど、様々なエピソードは原作そのままに綴られていく。中軸を欠いたような日々の生活に、そこはかとなく“未来を持てない”若者たちの虚無感が漂い始める。断崖絶壁に立たされた者の哀しみが染み出るような苦しさが、胸を突く。

3幕目は、それから数年の時を経て、介護士として働く八尋、1回目の“提供”を終えた鈴、2回目の“提供”を終えたもとむたちが、出会うところから物語はスタートする。何を“提供”しているのかということが、本作最大の肝となる訳なのだが、それは「臓器」。“提供”するために生きてきたという運命を背負う若者という設定なのだ。カズオ・イシグロが創作する、フィクションとリアルが交錯する世界観は独特の感触だ。

愛する恋人同士には“猶予”が与えられるという噂を確かめるべく、八尋ともとむは、鈴から手渡されたマダムの住所を訪ねるが、そこで、マダムと銀粉蝶演じるヘイルシャムの先生と出会い、へイルシャムが孕んだ多くの謎が語られ、海に打ち捨てられた難破船のごとく、逃げ場がないのだという事実を突き付けられることになる。床嶋佳子の燐とした存在感、銀粉蝶の悪びれることのない使命感が印象的だ。

二人の周りから全ての美術が取り払われ、慟哭するもとむと、ただ涙するしかない八尋が残される。その向こうから、へイルシャムの学生たちが幻の如く立ち現れてくるのだ。もう、ただただ胸がかきむしられるような思いに、心が引き裂かれていく。

カズオ・イシグロの傑作小説が紛れもない傑作舞台となって甦った。今でも、思い出すたびに、涙してしまうようなのだ。

ジキルとハイドがテーマであることから、深刻な人間ドラマが展開されるのかと思いきや、観客を笑わせ楽しませることに徹頭徹尾こだわったコメディを三谷幸喜は生み出した。三谷幸喜の最近の新作は、実在の人物たちを材に取り、その人生の中におけるある出来事を斬り取ることで、人間の心の襞を繊細に筆致し秀逸だが、本作は、2001年の「バッド・ニュース☆グット・タイミング」以来の本格派なコメディで、大いに弾けまくり新鮮だ。

キャスティングからいって、片岡愛之助がジキルを演じるのであろうことは分かっていたが、優香や藤井隆、迫田孝也が、では一体どのような役回りを演じていくのかということが気になるところであった。

舞台が開くとそこは、ジキル博士の実験室。そこに「ロード・オブ・ザ・リング」のオーランド・ブルームのようなヘアスタイルをした、博士の助手プール、迫田孝也が登場し、クスリと笑いが零れてしまう。何故、その装いなのだと。でも、まあ、そのクスリも狙いなのでしょうね。仔細にまで目配りが効いた、三谷幸喜の仕掛けが其処此処に施されていくことになる。

ジキル博士のフィアンセ、イブを演じる優香が登壇する。可憐なルックスや口舌爽やかな台詞廻しで、舞台に艶やかな彩りが添えられていく。博士のことは、それ程好きではないのだが、親が決めた許婚であることに疑いを持たずにいる令嬢を軽やかに演じていく。バラエティ番組などで鍛えた当意即妙な鋭い感性が、遺憾なく発揮されていく。コメディエンヌ振りが違和感なく板につき、作品を中軸から回転させていく。

片岡愛之助が現れると、舞台にグッと華やかさが広がっていく。観客の熱視線がよりホットになるのが感じられる。台詞の端々に駄洒落などを連発し続け、イブに好かれることのないイケてない男の可笑し味を笑いに転換させ観客を湧かせていく。ジキルを浅薄に描いていくことが、ハイド登場への布石ともなっていく。

ジキル博士の実験室に呼ばれた藤井隆演じるビクターは、どうやらシェイクスピア芝居でちょい役を貰っている役者のようである。そんな役者が、何故、実験室に呼ばれたのかということが、本作の肝となってく。“とりかえばや”的とでも言ったらよいであろうか。最近では舞台への活動の場を広げつつある藤井隆であるが、コメディに必要とされる間合いの絶妙さが、確実に笑いを生んでいく。

コメディと言えども、ジキルとハイドである。笑いの奥に潜むは、人間が普段は覆い隠している本性の姿。ジキルが発明し、明日、その成果を発表することになっている表裏を行き来できる液体を、愛之助、優香、藤井隆がそれぞれ飲むことで、本性や本性らしきものが暴発していく。飲んでは変化しを延々と繰り返していく。ドタバタもここまで徹底して描かれると、清々しささえ感じてしまう。考える隙間のない程、濃密な空間が展開されていく。迫田孝也が事の顛末に捲き込まれない立ち位置で、観客の意識とブリッジしてくれる構成が腑に落ちる。

擬態を演じること、暗示にかかること、騙そうとすることなど、人間の意識、無意識に関わらず、身体の奥底に抱え込む葛藤が露見することで、何故か晴れやかな気分になっていく。自らも心の何処かに持っている矛盾が、他者の姿を垣間見ることにより、発散、昇華していくのかもしれない。

笑って、笑って、少し、ハートにドキリとくるコメディとして大いに楽しむことが出来た。最後のオチまで可笑しく、人生のスパイスが効いたソフスティケイティッドされたコメディとして大いに楽しめた。

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