2015年 1月

蜷川幸雄演出、8度目の「ハムレット」である。初回と、イギリス公演版の2作は見逃しているのだが、本作は、蜷川幸雄演出の集大成なのだなという印象を、まずは、第一に感じ入ることになる。

まずは、舞台設定となる美術であるが、朝倉摂が「唐版 滝の白糸」で手掛けた長屋がステージ上の周囲をグルリと囲むことになる。開演中に舞台の上方から、この設定の説明が成されたインフォメーション・ボードが吊るされていた。“ハムレットが日本に紹介された明治時代当時の最下層の人々が住む住居で展開される「ハムレット」のリハーサル”なのだと。海外での公演も睨んでか、日本人が創り上げる「ハムレット」の意味を問うようなシチュエーションを突き付けるこの視覚効果は、インパクト大だ。

蜷川幸雄は、海外戯曲を上演するにあたって舞台設定を日本に置き換えることを、これまで、幾たびか具現化してきた。それは、優れた文学を舞台化するという視点から離れ、現代の観客たちに戯曲の真髄をどう届けるのかという信念故なのであろう。しかし、衣装は欧風のままなので、ジャパネスクに寄り過ぎることない東西融合の感覚は、新鮮でもあり刺激的だ。

特に、劇中劇のシーンにおいては、かつての「ハムレット」でも導入された雛壇が設えられ、宮廷内のヒエラルキーを視覚化し、意図的にも視認的にもオリジナリティある効果を発していく。水面下に覆われた真実を暴き出すという肝となる場面なので、グッと引き立つアクセントとなるこの演出は、一際印象に残ることになる。

タイトル・ロールを演じるのは、2度目の挑戦となる藤原竜也。このままではいけないとパッショネイトに行動するハムレットを、透明感ある繊細なアプローチにて逡巡する心の動きを微細に描いていく。大胆なのだが繊細なのだ。しかし、オフェーリアとの関係性が、良く見えてこない。好きなのか、あまりそうでもないのかが、判然としないのだ。また、判然とさせないことを意図としている風でもない。故に、純真なオフェーリアが崩壊していく悲劇性があまり浮かび上がってこないのだ。ホレイシオを横田栄司が演じるが、ハムレットとの関係性は、まさに盟友であることが疑いのない親密さで構築されており、オフェーリアとのそれとは、質を異にする感覚を抱かせる。

満島ひかり演じるオフェーリアであるが、無心のピュアさよりも周囲の出来事に翻弄される利発さが目立ち、賢い女性を造形していた。しっかりと自立している風でもあるため、ハムレットの蛮行に心引き裂かれるリアルが薄い気がしてくる。また、実の弟・満島真之介が兄役・レアーティーズを演じるが、この二人の間には、何か遠慮なようなものが存在している。オフェーリアがレアーティーズをいなしているかの様なのだ。兄妹の間の無償の愛が、捩れて変形している。たかお鷹が演じる、父・ボローニアスが兄妹を包み込む優しさは親の愛だと素直に感じられる造形にて、仲の良い家族という設定に説得力を付与していく。

平幹二朗がクローディアスの中から、深みのある人間性を掴み出し見事である。悪役に偏ることなく、クローディアスも一人の人間であることを哀感を持って演じていく。殊に、祈りの場面においては、半裸になり井戸水を被り禊をするというアプローチには度肝を抜かれた。こんな演じ方、見たことない。鳳蘭のガートルートは厳然と母なのであるが、その揺ぎ無い存在感の奥底から女の色香を滲み出させ、作品に艶めいたアクセントを振り掛けていく。

フォーティンブラスの解釈が、これまでの蜷川演出とは解釈を異にする。アナーキーな行動は一切起こさずに、幕引きの瞬間を慈愛を持って見届ける、まるで神のような視点で事の顛末を静観しているかの様なのだ。内田健司演じるフォーティンブラスは、負の連鎖をしかと目撃し正しく捉えることにより、後世へとつないでいかなければならない使命を帯びているかのようでもあるのだ。

台詞が大切に語られることにより、シェイクスピアが戯曲に込めた思いがしっかりと伝わるのはとても心地良い。視覚的な外連味だけが強調され過ぎることなく、役者の演技をたっぷりと堪能出来るという演劇の醍醐味を満足させてくれる作品に仕上がった。また、時間を経て、再見したいなと感じさせる可能性を秘めた側面も持ち得ていたと思う。

浦沢直樹が手塚治虫の「鉄腕アトム 地上最大のロボット」を、「PLUTO」という作品として創り上げたが、原典を換骨奪取し見事なオリジナリティを獲得した秀逸な逸品であると思う。その作品を、気鋭の振付家・シディ・ラルビ・シェルカウイが演出を担う本作は、様々な才能が交錯するモダン・アートの様な手触りに満ち満ちており、実に刺激的だ。

物語のベースとなる台本を谷賢一が手掛け、「PLUTO」に登場するロボットたちの様々なエピソードをスッと一まとめにし、アトムとウランのパートに集約させていく。大局と日常とを交錯させ、時空を瞬時に変転する構成を自在に操りながら、原作のスピリッツを見事に掬い取り、違和感なくまとめ上げ目を見張る。

道しるべとなる台本を礎として、そこからシェルカウイが溢れんばかりの才気を放出していくことになる。装置に映像作家・上田正樹を登用したことで、舞台表現の自由度が増した様な気がする。しっかりとした装置を打ち建てるという従来の演劇の発想とはその表現方法を異にし、7つの白い台形パネルを組み合わせていきながら、時にはそこに映像を投影するなどして、瞬時に様々なシーンを繰り出していくのだ。

台形パネルを操っていくのは、鍛錬された技術を有するダンサーたちである。もはや、ダンサーたちも、この物語を構成するシチュエーションの中にしっかりと組み込まれていく。シェルカウイは、生身の人間に、シーンの背景をクリエイトすることを寄与させていくのだ。ロボット1人に3人のダンサーが操り手のように寄り添いながら、ロボットの一挙手一投足をコントロールしているかのように見せていく。文楽にインスパイアされたのであろうか。物語の真髄と、シェルカウイの意図とが、幸福にも収斂していく。

ロボットたちは、原作にもある様に、人間と見分けがつかない程、自然な存在感であることをリアルに踏襲しつつ、文楽の手法で心身の齟齬を抉り出すそのパフォーマンスは、作品を重層的に捉え白眉である。

原作におけるイラストの幾つかが物語の合間に投影されていくが、その刺し嵌め込まれ方は、まるで、アート・インスタレーションの如く、美しく驚きに満ちたインパクトを与えてくれる。

森山未来は、シェルカウイとは「テヅカ TeZukA」以来のコラボレーションとなるが、いい意味で自らを素材に徹し、殉教しているかのようなストイックさでもって作品と向き合う姿勢がアトムの真摯な“思い”ともシンクロする様だ。そして、観客の願いにも似た“思い”ともつながっていく、正の連鎖、を浮かび上がらせてくれる。

永作博美がウランに見えてしまうという、その在り方の造形に、まずは脱帽だ。そして、その身体の奥底に滲ませる、ロボットが本来持ち得ることのない“憂い”に、観る者の心が次第にほだされていく。

寺脇康文が物語を探求し牽引する役どころを担っていくが、ロボットが抱く“葛藤”を感情的に偏なることなく表現し、その真意がストレートに伝わることで、作品にある種の“感情”を吹き込むことになる。柄本明が醸し出す安定感ある老練さが、台詞の一つ一つに大きな説得力を付与している気がする。氏の存在感が、作品に温かな血肉を通わせていく。

吉見一豊が醸し出す人間性の生々しさの塩梅が、ロボットのそれとは微妙に一線を画し、アトムとウランを包み込むオーラの様な磁力を発していく。松重豊はヒールの役回りを担いながらも、ステロタイプな悪の造形に陥ることなく、まるで心が逡巡するかのようにも見える切なささえ滲ませ哀感がある。

イラク戦争を嫌が上でも想起させるのは原作通りだが、そんな混沌とした世界=現代のグレイゾーンを、ロボットという媒介を通しクリアに投影させ感嘆させられる。果てることのない輪舞の如く、人間が、多分、永遠に解決することが叶わない“闘い”の苦悩を、アーティスティックに描ききった衝撃作に仕上がった。

面影ラッキーホール、現在は、オンリー・ラブ・ハーツとなったユニットの楽曲が中心に聳立し、作品を支配していく。これまでに制作された作品群から、多くの楽曲の中から選りすぐられた作品たちによって物語が構成されていく。

歌によって物語が進行する体裁だけを見れば、ミュージカルというジャンルに括られるのかもしれないが、本作は、欧風なその呼称にちんまりと納まる様なヤワな代物ではない。“歌謡ファンク喜劇”と冠されているが、まさに、歌謡曲が孕む情念や艶、色香などが染み出て、昭和の歌謡ショーを彷彿とさせられる煌びやかで華やかさを誇りながらも、生活臭漂う現実的な世界が提示され、類のないエンタテイメント性を獲得し得ている。河原雅彦が造形したかったのであろう、独自の世界観が現出する。

エンタテイメント・ショーの要素をしっかりと打ち出しつつ、演劇的な醍醐味もタップリと堪能できる贅沢さも、また、観る者に心地良さを与えてくれる。この作品の意図を成立させるためには、そこに立つ役者陣の説得力に大きなウェイトが掛かってくるのだと思うが、居並ぶ猛者たちは作品形成に大いに寄与し、見事に「いやおうなし」な世界を其処此処から押し支えていく。

物語のセンターに立つ古田新太の揺ぎ無い存在感が作品をグイグイと牽引し、小泉今日子が色褪せることのない永遠のアイドル像を裏切ることなく表現し、今に生きる女性像と融合させリアリティを持って演じていく。まさに観客が観たいと思っていた、古田新太、小泉今日子像を拝めるのは、何とも満足感に浸ることが出来、嬉々としてしまう。

田口トモロヲの常人より半歩ずれた異物感が、作品を一ところに収焉させることのない大きなパワーを放熱していく。高畑充希のピチピチとした生気溢れる弾け具合が、作品に若々しい新鮮さを与えていく。

三宅弘城が、緩急自在に小悪党と小心者を抱合した男のいじましさを噴出させるが、ついつい同調してしまうような愛嬌についついほだされていってしまう。高田聖子の小悪女振りがなかなか堂にいっており、作品に奇妙な違和感と安定感とを同時に与えていく。山中崇が時代から少々ずれたコンプレックスを持つ生真面目な青年を、決して綺麗に納めることなく、役柄から軽薄さを掬い取ってコミカルに演じ、ついつい同調してしまう。

あまりにも楽曲が強烈なため、そのタイトルだけでも幾つか抜粋することで、この作品世界を垣間見ることが出来るのではないかと思う。

「俺のせいで甲子園に行けなかった」「好きな男の名前 腕にコンパスの針でかいた」「あんなに反対していたお義父さんにビールをつがれて」「ひとり暮らしのホステスが初めて新聞をとった」「北関東の訛りも消えて」「おみそしるあっためてのみなね」「パチンコやっている間に産まれて間もない娘を車の中で死なせた…夏」などなど。心地良いメロウなメロディに身を任せながらも、聴く者を突き放したかの様な詩世界とのアンバランスさは、正統派ミュージカルの真逆の道を辿りながらも、前人未踏の領域へと突き進んでいく。

いやあ、楽しかった。俗世間の下世話なエピソードを積み重ねつつ、人間誰しもが内に秘めたる過去の清算しきれないもやもやとした情念を描き傑出した作品に仕上がったのではないだろうか。悲嘆をものともしないパワー全開な登場人物たちに接することで、観る者がエンパワーされ、明日への活力となる作品に仕上がったと思う。

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