蜷川幸雄演出、8度目の「ハムレット」である。初回と、イギリス公演版の2作は見逃しているのだが、本作は、蜷川幸雄演出の集大成なのだなという印象を、まずは、第一に感じ入ることになる。
まずは、舞台設定となる美術であるが、朝倉摂が「唐版 滝の白糸」で手掛けた長屋がステージ上の周囲をグルリと囲むことになる。開演中に舞台の上方から、この設定の説明が成されたインフォメーション・ボードが吊るされていた。“ハムレットが日本に紹介された明治時代当時の最下層の人々が住む住居で展開される「ハムレット」のリハーサル”なのだと。海外での公演も睨んでか、日本人が創り上げる「ハムレット」の意味を問うようなシチュエーションを突き付けるこの視覚効果は、インパクト大だ。
蜷川幸雄は、海外戯曲を上演するにあたって舞台設定を日本に置き換えることを、これまで、幾たびか具現化してきた。それは、優れた文学を舞台化するという視点から離れ、現代の観客たちに戯曲の真髄をどう届けるのかという信念故なのであろう。しかし、衣装は欧風のままなので、ジャパネスクに寄り過ぎることない東西融合の感覚は、新鮮でもあり刺激的だ。
特に、劇中劇のシーンにおいては、かつての「ハムレット」でも導入された雛壇が設えられ、宮廷内のヒエラルキーを視覚化し、意図的にも視認的にもオリジナリティある効果を発していく。水面下に覆われた真実を暴き出すという肝となる場面なので、グッと引き立つアクセントとなるこの演出は、一際印象に残ることになる。
タイトル・ロールを演じるのは、2度目の挑戦となる藤原竜也。このままではいけないとパッショネイトに行動するハムレットを、透明感ある繊細なアプローチにて逡巡する心の動きを微細に描いていく。大胆なのだが繊細なのだ。しかし、オフェーリアとの関係性が、良く見えてこない。好きなのか、あまりそうでもないのかが、判然としないのだ。また、判然とさせないことを意図としている風でもない。故に、純真なオフェーリアが崩壊していく悲劇性があまり浮かび上がってこないのだ。ホレイシオを横田栄司が演じるが、ハムレットとの関係性は、まさに盟友であることが疑いのない親密さで構築されており、オフェーリアとのそれとは、質を異にする感覚を抱かせる。
満島ひかり演じるオフェーリアであるが、無心のピュアさよりも周囲の出来事に翻弄される利発さが目立ち、賢い女性を造形していた。しっかりと自立している風でもあるため、ハムレットの蛮行に心引き裂かれるリアルが薄い気がしてくる。また、実の弟・満島真之介が兄役・レアーティーズを演じるが、この二人の間には、何か遠慮なようなものが存在している。オフェーリアがレアーティーズをいなしているかの様なのだ。兄妹の間の無償の愛が、捩れて変形している。たかお鷹が演じる、父・ボローニアスが兄妹を包み込む優しさは親の愛だと素直に感じられる造形にて、仲の良い家族という設定に説得力を付与していく。
平幹二朗がクローディアスの中から、深みのある人間性を掴み出し見事である。悪役に偏ることなく、クローディアスも一人の人間であることを哀感を持って演じていく。殊に、祈りの場面においては、半裸になり井戸水を被り禊をするというアプローチには度肝を抜かれた。こんな演じ方、見たことない。鳳蘭のガートルートは厳然と母なのであるが、その揺ぎ無い存在感の奥底から女の色香を滲み出させ、作品に艶めいたアクセントを振り掛けていく。
フォーティンブラスの解釈が、これまでの蜷川演出とは解釈を異にする。アナーキーな行動は一切起こさずに、幕引きの瞬間を慈愛を持って見届ける、まるで神のような視点で事の顛末を静観しているかの様なのだ。内田健司演じるフォーティンブラスは、負の連鎖をしかと目撃し正しく捉えることにより、後世へとつないでいかなければならない使命を帯びているかのようでもあるのだ。
台詞が大切に語られることにより、シェイクスピアが戯曲に込めた思いがしっかりと伝わるのはとても心地良い。視覚的な外連味だけが強調され過ぎることなく、役者の演技をたっぷりと堪能出来るという演劇の醍醐味を満足させてくれる作品に仕上がった。また、時間を経て、再見したいなと感じさせる可能性を秘めた側面も持ち得ていたと思う。
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