2018年 11月

今回の「メタルマクベス」は、disc1から3まで演者を変えての3バージョンの公演であるが、しんがりのdisc3を観劇するために馳せ参じることになった。浦井健治と長澤まさみの共演が、どのような化学反応を示すのかという点に大いに興味をそそられたためである。

初演は未見なので全く無の状態で、宮藤官九郎が翻案し、いのうえひでのりが構築したシェイクスピアの「マクベス」にワクワクしながら対峙することになる。しかも、場はIHIステージアラウンド東京である。演劇を観に行くというよりは、イベントに参加するような感覚に近いかもしれない。

まずは、シェイクスピアの「マクベス」をこう翻案していくのかという宮藤官九郎の筆致にグイと引き込まれてしまう。「マクベス」の世界を借りながらも、全くの異界を造形するその果敢な勇気と才能に今さらながら脱帽してしまう。1981年と2218年の世界を行きつ戻りつしながら物語が展開していくという宮藤官九郎が創り上げた独自の世界にパンキッシュな外連味を盛り込み、アドレナリンが沸騰する高揚感を持たらすいのうえひでのりの演出が、劇場全体を支配する。作家と演出家の相乗効果がスパークする。

物語は1981年の時代にメタルマクベスという4人組のバンドが活躍していたという設定が成されているが、マクベス、バンクォー、マクダフ、そして何故かナンプラーとそれぞれにネーミングされているというところからして面白い。そんなメンバーたちを、このままではロクなことはないと言い放つ女ローズであるが、2218年の時代には将軍ランダムスターの夫人として生きる女をダブルで長澤まさみが演じていく。マクベスと将軍ランダムスターを演じるのは浦井健治である。

シェイクスピア作品からの端緒は如何にと思うが、「マクベス」の冒頭に登場する3人の魔女の予言はしかと刻印されていく。ツールとして1981年にリリースされたCDが予言の後押しをするという構成が面白い。

兎に角、膨大な台詞量と所狭しと動き回る運動量は半端ない。俳優は心身の限界に挑んでいるかのような過酷さである。しかし、どのシーンでも決して緩むことなどないフルスロットルな演技が連打されることで、観る者たちもエンパワーされていくのがしかと体感出来る。劇場全体が演者と観客とが作り上げる熱いパッションに包まれていく。

浦井健治は作品の中核に立ち、演技のほか歌や殺陣も駆使しながら、この上ないパワフルな作品を座長としてグイと牽引していく。長澤まさみは強靭さや狡猾さを内包しながらも、色香を放つ艶やかな存在で舞台に華を添えていく。浦井健治と長澤まさみは、マクベスとマクベス夫人のある種の共犯関係の寄り添い方を倣いながらも、どこか初々しい印象をも醸し出し、役どころを多層的に構築していく。

橋本じゅん、粟根まこと、右近健一など新感線のメンバーが、ガッチリと脇を締め、深刻に成り過ぎることなく、笑いを織り交ぜる表現の緩急の塩梅が絶妙だ。本作を演劇の枠を大きく逸脱したエンタテイメントとして成立させることに大いに寄与している。ラサール石井や峯村リエの個性が直情さとは対岸にあるふくよかなニュアンスを付け加え、高杉真宙や柳下大のパフォーマンスがフレッシュなパワー全開で若々しさを迸らせていく。

シェイクスピアを見事に換骨奪胎した「メタルマクベス」の面白さは、宮藤官九郎が描いた世界観に由るところが大きいと思う。いのうえシェイクスピアとは様相を異にするアプローチにて、海外作品でも類を見ないオリジナリティ溢れる「マクベス」として大いに楽しめた。才気漲る異能のぶつかり合いがタップリと堪能できるエンタテイメント作品として傑出した出来栄えであった。

三島由紀夫の「豊饒の海」四部作全てを一つの演目として上演する本作のことを知り、正に無謀とも思える企画であると当初は思った。小説は時系列を追うように展開していくのだが、同作は四部作の筋道を縦横無尽に紡ぎ合わせる構成に仕立て上げることにより、独自の世界観を創り上げていく。

起点となるのは、第一部「春の雪」の松枝清顕と本多繁邦。2005年公開の行定勲監督映画作品「春の雪」の記憶も新しいが、東出昌大、大鶴佐助が、選ばれし者・松枝清顕と、その親友であり変転する時代の目撃者・生き証人でもある本多繁邦、それぞれの役回りを担うことになる。

自らの容姿と出自には自負があり奔放であるが、人生の行方には蒙昧する松枝清顕を東出昌大は微細に演じ、作品の核となる。松枝清顕への憧憬と反撥とが相まった錯綜する感情を抱え持つ本多繁邦を演じる大鶴佐助の存在感が印象的だ。

松枝清顕は二部、三部、四部では輪廻転生によりその姿を変えるが、本多繁邦は本多繁邦であり続け、時代の時に歩を合わせながら事の顛末を見届けていく。松枝清顕は、二部が宮沢氷魚、三部が田中美甫、四部が上杉柊平が担い、本多繁邦は、二部・三部が首藤康之、四部では笈田ヨシが演じていく。

四つの時代に生きる松枝清顕は、自らの信念を極限の域にまでその生き様に反映させていく。飯沼勲として生きる二部の宮沢氷魚は、命を賭してまで暗鬱たる時代に風穴を開けようとする。迷いのない清廉さに清潔感すら感じられる青年像を、宮沢氷魚がそのピュアな資質を活かし説得力を持って飯沼勲を造形する。四部では、本多繁邦が松枝清顕が転生したと感じた上杉柊平演じる安永透が、本多繁邦の養子として迎え入れられることになる。自らが人心や環境をコントロール出来るのだという思い上がる青年の浅薄な強欲を上杉柊平はナチュラルに表現する。三部ではタイの王女ジン・ジャンとして転生し、演じる田中美甫は溌剌とした魅惑を振り撒き作品に艶やかなアクセントを付与していく。

二部、三部を通して首藤康之が本多繁邦を生きていく。青年期と壮年期を一人の俳優が演じることで、物語がそれぞれの時代ごとで区切れることなく、連綿と時が繋がる連続性を生む効果を発していく。四部では、笈田ヨシが本多繁邦のシンガリを受け持ち、生きとし生ける者の逡巡する苦悩をリアリティを持って体現し、作品に更なる深みと広がりを持たせてくれる。

松枝清顕と許されぬ関係に陥る華族の令嬢・綾倉聡子を初音映莉子が演じていく。上流社会に生きるお嬢様ではあるが、周りの人々の動向に左右されることなく、自らの意思を貫き通す女の強さを生々しく作品に刻印する。時を経て四部で本多繁邦と邂逅する終幕の場面では、小説を繰った時に受けた激しい衝撃を、目の当たりにさせてくれ惹起してしまう。

神野三鈴は、三部、四部で本多繁邦と親しくなる有閑婦人・久松慶子を担っていく。歯に衣着せぬストレートな言動は、胸をすくような爽快感を観る者に与えてくれる。しかし、ある出来事をきっかけに本多繁邦は、久松慶子との関係性を遮断することになる。本多繁邦は、更に自己の内面へと収斂していく。

長田育恵の脚本は、このような時空を超えた複雑な人間模様を、一つの宇宙にまとめ上げ見事である。その秀逸なテキストを、和のテイストを織り交ぜながらアーティスティックに表現した演出のマックス・ウェブスターの力量にも目を見張る。また氏は、俳優とその演じる役柄との間を密接に繋ぎ合わせる集中を駆使し、小説で生きる人々を舞台の上でリアルに生き抜く生身の人間として再生させることに成功した。音楽のマックス・ウェブスターのクリエイションが、時代を超越した普遍性を獲得させる一助を担っていく。

重責を感嘆へと導く才能とのスリリングな対峙が体感できる逸品に仕上がったと思う。また、是非、再見したいと思う1作となった。

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