開演! 幕が開くと、プロセニアム舞台全面にハーフミラーシートが立ちはだかる。そのシートに観客席がまるごと映し出されている。これは、歌舞伎「NINAGAWA十二夜」と全く同じ手法である。そして、舞台上に照明が入ると、舞台奥がミラー越しに見えてくる。大階段舞台だ。この階段舞台も、蜷川演出ではお馴染みな美術。しかし、このかつて見た舞台美術が、この作品独自のコンセプトを現していくことになる。
休憩前の最後のシーンと、終幕が圧巻だ。大階段に千路に倒れ、座り込む民衆たち。その姿を見せておきながら、パッと舞台の照明を落とすと、舞台前面のミラーに映りこむのは、観客の姿。その両者の姿を二重に重ね合わせることにより、護民官のデマゴーグでコリオレイナスを持ち上げたり引きずり落としたりして右往左往した民衆たちは、今も変わらずこの観客に座っている我々そのものではないかというメッセージを、鋭く突き付けてみせる。孤高の武将を描きながらも、人生を翻弄したのは民衆の気まぐれな意思なのだという、戯曲の奥に眠る真意を掬い出す視点には大いに納得がいった。
大階段は、登場人物の立ち位置により、視覚的にその場のヒエラルキーを一瞬にして現すことに成功している。かつては、階段の最上段から登場した母は、後半、最下段でコリオレイナスに窮状を訴えるが、その母の心情にほだされ、低い位置にまで降りすがりつくコリオレイナス。そして、それを高みから見下ろす、敵将オーフィディアスといった具合だ。
英国公演を意識してのことか、美術、衣装共、どれもが顕著にアジアのエッセンスが施されている。特に何処の国にも拠ることはない、アジアの架空の国家という感じだ。特に、大階段上の壁が何重かの襖絵になっており、目まぐるしく展開する場面が、この歌舞伎的手法により、素早く違うシーンへと転換する鮮やかさを見せる。襖絵も、朱色の門前であったり、後光射す釈迦風人物であったりと、オリエンタルなテイストで目にも楽しい。
コリオレイナス演じる唐沢寿明は、気位の高い貴族のプライドと、連戦続きの豪腕な武将の意思と、母を慕い敬う子供の心情を交錯させ、複雑な人間心理を描き出し圧巻である。物語の中心に立ち、民衆を含めた回りの登場人物全てを巻き込み翻弄していく様は、最期のその時まで、誰よりも一番、強靭であり、孤高でもあった。母を演じる白石加代子もまた見事。男なら戦場で死しても本望だと謳うマグマのような炎が終始立ち込め、戦勝武将の息子がひれ伏すに十分な迫力と母性を放射している。勝村政信演じる変わり身の早い狡猾な武将の、コリオレイナスに対する愛憎が入り混じった心理描写も面白い。吉田鋼太郎の憂うる苦悩や、瑳川哲朗の浅薄な扇動や、香寿たつきの思い詰めた寡黙さなども、物語の流れの中で、クッキリと浮かび上がってくる。
ともすると、孤高を貫いた武将の真情吐露に終始しかねない本戯曲を、民衆という視点を持つことで、グイっとリアルに俯瞰させることが出来たのは、蜷川演出の真骨頂ではないだろうか。主観が客観と重なり合うことで生まれたこのステージは、舞台の上だけに留まることなく、今、私たちが生きるこの現実の世界に向けて照射されているのだ。メディアにデマゴーグされない強い意思をシカと持たなければならないのだと。私たちは、蜷川が用意した鏡の中に映る自分の姿を確認することで、自らの揺るがぬ意思を見つめ直し、且つ、検証し続けていかなければならないのだ!
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