2007年 1月

開演! 幕が開くと、プロセニアム舞台全面にハーフミラーシートが立ちはだかる。そのシートに観客席がまるごと映し出されている。これは、歌舞伎「NINAGAWA十二夜」と全く同じ手法である。そして、舞台上に照明が入ると、舞台奥がミラー越しに見えてくる。大階段舞台だ。この階段舞台も、蜷川演出ではお馴染みな美術。しかし、このかつて見た舞台美術が、この作品独自のコンセプトを現していくことになる。

休憩前の最後のシーンと、終幕が圧巻だ。大階段に千路に倒れ、座り込む民衆たち。その姿を見せておきながら、パッと舞台の照明を落とすと、舞台前面のミラーに映りこむのは、観客の姿。その両者の姿を二重に重ね合わせることにより、護民官のデマゴーグでコリオレイナスを持ち上げたり引きずり落としたりして右往左往した民衆たちは、今も変わらずこの観客に座っている我々そのものではないかというメッセージを、鋭く突き付けてみせる。孤高の武将を描きながらも、人生を翻弄したのは民衆の気まぐれな意思なのだという、戯曲の奥に眠る真意を掬い出す視点には大いに納得がいった。

大階段は、登場人物の立ち位置により、視覚的にその場のヒエラルキーを一瞬にして現すことに成功している。かつては、階段の最上段から登場した母は、後半、最下段でコリオレイナスに窮状を訴えるが、その母の心情にほだされ、低い位置にまで降りすがりつくコリオレイナス。そして、それを高みから見下ろす、敵将オーフィディアスといった具合だ。

英国公演を意識してのことか、美術、衣装共、どれもが顕著にアジアのエッセンスが施されている。特に何処の国にも拠ることはない、アジアの架空の国家という感じだ。特に、大階段上の壁が何重かの襖絵になっており、目まぐるしく展開する場面が、この歌舞伎的手法により、素早く違うシーンへと転換する鮮やかさを見せる。襖絵も、朱色の門前であったり、後光射す釈迦風人物であったりと、オリエンタルなテイストで目にも楽しい。

コリオレイナス演じる唐沢寿明は、気位の高い貴族のプライドと、連戦続きの豪腕な武将の意思と、母を慕い敬う子供の心情を交錯させ、複雑な人間心理を描き出し圧巻である。物語の中心に立ち、民衆を含めた回りの登場人物全てを巻き込み翻弄していく様は、最期のその時まで、誰よりも一番、強靭であり、孤高でもあった。母を演じる白石加代子もまた見事。男なら戦場で死しても本望だと謳うマグマのような炎が終始立ち込め、戦勝武将の息子がひれ伏すに十分な迫力と母性を放射している。勝村政信演じる変わり身の早い狡猾な武将の、コリオレイナスに対する愛憎が入り混じった心理描写も面白い。吉田鋼太郎の憂うる苦悩や、瑳川哲朗の浅薄な扇動や、香寿たつきの思い詰めた寡黙さなども、物語の流れの中で、クッキリと浮かび上がってくる。

ともすると、孤高を貫いた武将の真情吐露に終始しかねない本戯曲を、民衆という視点を持つことで、グイっとリアルに俯瞰させることが出来たのは、蜷川演出の真骨頂ではないだろうか。主観が客観と重なり合うことで生まれたこのステージは、舞台の上だけに留まることなく、今、私たちが生きるこの現実の世界に向けて照射されているのだ。メディアにデマゴーグされない強い意思をシカと持たなければならないのだと。私たちは、蜷川が用意した鏡の中に映る自分の姿を確認することで、自らの揺るがぬ意思を見つめ直し、且つ、検証し続けていかなければならないのだ!

よしもとばななの世界を、直球でシンプルに表現していて、非常に好感が持てる作品であった。演出が塚本監督なので、どんな外連味を盛り込んでくるのかなという先入観はあったのだが、そういう思いはあっさりすかされ、登場人物の思いや行動、そして心象風景など人間の気持ちの部分を深く見つめることに徹し、静謐な美しさが立ち現れていた。

とは言え、主人公のおばさんの家の美術などに見られる、ビジュアル面での細部のこだわりは、やはり演出の意図したところであるだろうし、演劇畑のスタッフとは違うこだわりを見せている。そのおばさんは乱雑なところがある設定であり、とにかくモノが多い部屋なのだが、そこに置いてあるモノやその置き方などに独特の美学があり、汚いといえば汚いのだが、そこに人が佇むと、一篇の絵になってしまうのだ。舞台全体を捉えながらも、映像的な視点も共存しているという、塚本監督ならではの感覚ではないだろうか。また、美術担当の佐々木尚が映画で活躍されている方であるというのも、監督の思いと共振した要因になっているのであろう。しかし、主人公家族が引っ越した新居の美術だけは良く分からない。この家の構造が分からない。また、家の一部分を表現しているのだとしても、その全体の構造がイメージ出来ない。シュールな表現にもなっている訳でもない。惜しい、と思う。

細部へのこだわりは音にも現れる。懐かしや、あの、飴屋法水がサウンドデザインを担当している。気が付くと何かしらの音が流れている。よしもとばななの世界を生きる登場人物たちを繋げる通低音にも感じられる。自然音がゆるやかにメロディを紡ぎ出し、大きな転換の時はしっとりとした迫力ある女性ボーカルが響き渡るなど、緩急自在に音を操っていく。劇中の台詞きっかけで音が流れる場合も多く、やはり場面の切り取り方の細かさは映画的とも言える。その繊細さは、新鮮であった。

衣装の安野ともこのスタイリングも、日常的であるがとても美しい。舞台衣装ではないということが、この幽玄な作品にリアリティを与えている。裾に皺を施したコート、着込んだ感じのダウンジャケット、寝巻きのジャージ、但し、おばさんが着る衣装だけは、フワフワとしていてつかみどころが無い感じ。やはり、映画や広告など、映像メディアの方ならではのこだわりが感じられる。まあ、動き回るわけではないので、通気性とか軽さとか伸縮性とかは、今回の場合は関係なくプラン出来たのでしょうね。

市川実日子がいい。ばなな作品の主人公としては、映画「つぐみ」の牧瀬里穂以来の衝撃だ。圧倒的な美しさが、逆に人間の脆さやせつなさを浮き彫りにしていく。淡々とはしているのだが、溢れる感情がひしひしと伝わってくる。売れっ子・加瀬亮の存在感も圧倒的だ。自分の思いのたけを、嗚咽を耐えながら市川実日子演じる弥生に伝えるシーンなどは、その感情の高まりに思わずこちらの気持ちもシンクロしてしまう程だ。また、演じる集中力の高さにも唖然とさせられた。瞬間に感情をコントロール出来る技術は天晴れだ。藤井かほりは、しっとりとした雰囲気を漂わせ不思議な魅力あるおばさんを好演し、初見だが、奥村和史の明晰なストレートさも印象に残った。

前へ前へと表現していく演劇とは手法を異にし、透明感ある深いスピリットが作品全体を覆う、とても控え目で繊細な表現が、この物語を伝える方法としては一番ピッタリとはまったのではないだろうか。また、細部に渡るスタッフワークの緻密さも、作品に大きな力を与えていたと思う。異分野からの才能は、真摯に演劇と取り組み、新たな発見をさせてくれた。次なる塚本演出の舞台が待ち遠しい。

スウィーニー・トッドという男の一代記であるが、彼だけが決して突出することはなく、目まぐるしく展開されるストーリーに絡む様々な人々によって、見事なアンサンブルが成立していた。まさに、息つく暇のないスピーディーさで、グイグイと観客を圧倒していく。しかも、出演者ひとりひとりに隙がないため、舞台がとても濃密な空気で充満しているのだ。ひとえに、ソンドハイムの実にクオリティの高い基盤があることに全く疑う余地はないのだが、この2007年の日本における社会情勢などとも見事に合致した骨太の作品に仕上げられた大きな要因は、市村正親や大竹しのぶを始めとする俳優陣と演出の宮本亜門のセンスと技術に大きく因っていることに相違はない。

近年、様々なアーティストが、暴力の連鎖を問う作品を発表しているが、本作の宮本演出のポイントもそこにあるのではないか。怨みや復讐という断ち切ることの出来ない負の感情がもたらすものは、悲劇でしかないということ。そして、そんな行動を引き起こす人々の心情にメスをあて、切り裂いてみせることによって、それぞれの哀しみの元凶を露わに開示していく。そこで、ハッキリと分かるのは、既に動き出した感情を止めるのは非常に困難であるということ。そういう負の感情を表出させないためには、その感情を押さえ込み続けていくか、あるいは第三者の力によって断ち切られるか、そのどちらかしか方法がないのかもしれない。

こんな暗い復讐劇をあっけらかんとしたエンタテイメントとしてしまう発想がそもそも凄いが、それを演じる役者の上手さが、作品の真髄を浮き彫りにし演出の要望を掬い出すのに見事に応えていると思う。

もはや、市村正親に超えられない山はなさそうだが、今作ではタイトルロールを演じ作品の機軸となりながらも、あくまでも全体のアンサンブルの一員であるという存在の在り方に、またもや唸ってしまう。大竹しのぶのミュージカルは如何にと臨んだが、見事な演じっ振り。スウィーニー・トッドが好きであるという行動規範がはっきりしているので、何か陰惨なことに手出しをしている感じがなく、愛する人との共同作業に嬉々として可愛さすら溢れている。両者共、内面の感情の放出がありありと分かり、故に歌と踊りのテクニックには長けているミュージカル俳優の感情を置き去りにしたような空虚さなどはあるはずもなく、この芯のふたりのパワーの奔流に周りの役者もいい意味で巻き込まれていて一丸となってストーリーを牽引していった。

ソニンがいい。清楚でありながら力強く、オペラの詠唱のような伸びやかな歌声で観客を魅了する。エンディングの全員での合唱時も、睨み付けるような怨念の表情を作り最後の最後まで工夫を凝らしていた。また、キムラ緑子の歌が聞き難かったことと、武田真治の声量が他の役者に比べ格段に弱かったことなどは、回を重ねる毎にこれから改善されていくのであろうか。

橋本邦彦のシェイクスピア張りの洒落合戦の翻訳も楽しく、窪ませた目にアクセントをおくモダンな馮啓孝のメイクも芝居ではあまり見ない試みで刺激的だ。

残忍さをせせら笑うユーモアに満ち溢れ、また、人間の本性の屈強さを浮き彫りにもした、まさしく、今、この現在を、見事に投射させ再生された、痛快な快作である。

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