2012年 2月

客席に3方を囲まれたステージは黒1色の様相だが、床に敷かれていた黒い布が開演5分前に取っ払われると、そこには透明のアクリル板が敷かれており、その下には出番を待ち準備に勤しむ役者たちの姿が現れる。まず、ここで、一発、度肝を抜かれる。

皆、台詞を唱えたり、衣装を着替えたり、笑顔で話し合ったりと、それぞれが自由に立ち振る舞っている。しばし、その姿に目が釘付けになっていると、開演時間となる。すると、役者たちが一斉に観客に向かって整列し、一礼をするのだ。観る観られるという壁がストンと振り落とされ、演劇が持つ虚構性を冒頭から剥ぎ取った「ハムレット」が、ここから展開されていくことになる。もう、既に、刺激的だ。

幕が切って落とされた後も、アクリル板の下にあるもう一つのステージが有効に機能する。階段を設え、そこに社会のヒエラルキーを投影させることがままある蜷川演出が、地上と地下の空間を得ることで、その手法を転換し甦えらせていく。

しかし、この舞台美術はこの劇場であるからこそ成立するプランである。普通のプロセニアム劇場では、観客席から地下を覗き込むことは出来ないため、この手法は成立し難いであろう。この劇場であるからこそ活きるプランであることが、本作に特別なオリジナリティーを与えている。

この中西紀恵の美術の他、照明の藤田隆広、衣装の紅林美帆・田邉千尋、黙劇を振付ける浅場万矢・佐々木美奈・周本絵梨香、そして当日配布されるパンフレットに至るまで、本作は若手のスタッフが起用されているのだが、その新鮮な感性が迸るセンスが素晴らしい。

照明は叙情性を湛えながらもシャープさをキープし、アクリル板を挟んだ上下で展開するアクティングエリアをクリアに照らし出す。また、素材にしわ感を与えたり、寒色と暖色の色合わせのセンスが光る衣装は、今流行りのモードの要素が取り入れられ、舞台衣装でありながらリアルクローズの格好良さとその感性を共有する。このクリエイティブのセンスの良さが、2012年に提示される「ハムレット」に、現代的な“クールさ”を付加しているのは特筆すべきことであると思う。

さいたまネクスト・シアターの若い役者陣も、クールな熱情を放熱させながら、観客の心を掴んでいく。川口覚は知的でありながらも繊細さを合わせ持つ現代青年風のハムレットを創造し、観る者がスッとその役柄に共感を呼ぶような魅力を作り出す。小久保寿は誠実で冷静なホレイシオで、ハムレットが心の拠り所とする理由に説得性を与えている。堀源起は感情の振れ幅強いレアーティーズを生み出し、まるで悪漢のような振る舞いが面白い。深谷美歩は狂気の境界線を超えてからの感情表現が、特に心に染みてくる。ポローニアスや墓掘りを演じる手打隆盛は、老齢の俳優かと見紛う程の化け振りにスキルの片鱗を見せていく。

そして、本作には、こまどり姉妹が登場するということは、もちろん事前に分かってはいたのだが、1幕の、まさかこんな場面で!というような、クライマックスとも言えるシーンにガツンと割って入ってきたのには愕然とした。それまでさいたまネクスト・シアターの面々が積み上げてきた「ハムレット」の世界が、一気に霞んでしまう程の強烈な異化効果を発揮する。

舞台奥から現れたこまどり姉妹は、歌いながらしずしずと客席側へと歩いてくるのだが、観客は拍手をしたりして、劇場の雰囲気は、もう歌謡ショーの様相だ。この、こまどり姉妹の圧倒的な存在感と言ったら! 姉妹が歌う「幸せになりたい」は、物語の内容とも上手くリンクしているのが、また、心憎い。クールなパッションで覆われていた世界に、リアルな生活観がドサッと投げ込まれた感じだ。

姉妹が去った後、その余韻を自分たちの手で覆さなければ、この場を取り戻すことは出来ないとばかりに、役者陣が放つ強烈な気が、また、もの凄いパワーを発揮する。こまどり姉妹は、「ハムレット」にメタシアター的世界観を現出させると共に、現代の若者の中に潜んでいたマグマを放出させる役割も担うことになった。

感度の良い鋭敏な若い感性が、蜷川幸雄の絶妙な手綱裁きにより見事に開花した、実に面白い「ハムレット」だった。新旧の才能の融合が、前代未聞の衝撃作を世に産み出すことになった、その現場に立ち会えた幸せを、しかと噛み締めることになった。

30年前、圧倒的な衝撃を受けた本作が、一体どのように甦るのか、興味津々で劇場へと足を運ぶ。定刻となり目覚まし時計の開演ベルが鳴ると、舞台上にすくっと唐十郎が登場し、かつて自分が生きた下谷万年町の昔日の思いを語り始め、物語の幕が切って落とされる。

大向こうから、唐の名を呼ぶ威勢の良い掛け声が投げ掛けられ、一気に会場に猥雑な賑々しさが立ち上る。そして、現世に生きる唐十郎と、下谷万年町に生きた唐十郎の分身である西島隆弘演じる文ちゃんが同じ空間で邂逅すると、昭和23年の下谷万年町へと時は大きく転換していく。そして、上野公園を視察していた警視総監の帽子を、男娼たちが奪取した実在の事件が物語の発端となり展開していく。

当時の混沌とした下谷万年町の様子が劇場に甦り、同時代を生きた人々の息吹が甦る様を観客は目の当たりにしていくことになる。リアル且つド迫力なインパクトが客席に直球で投げ付けられてくる。これは、まさに、演劇がナマものであることの特権だ。演劇の真髄を知り尽くした唐十郎と蜷川幸雄が、閉塞感に覆われた今の世に、大手を振って熱い情熱を持って斬り込んでくるのだ。その苛烈さに完全ノックダウンだ。

舞台で起こっていることを目撃しつつ、感じ入ることがあった。ここで描かれている、戦後の昭和を再現出来るのは、その時代を生きた者でなければ不可能なのだということを確信したのだ。戯曲は残るであろうが、戦後生まれの者がこの作品を手掛けたとしても、この禍々しさはきっと表現出来ないに違いない。そういう意味合いからも、舞台と対峙する今のこの瞬間、このこと自体が貴重な体験なのだという思いを強くする。

唐十郎が紡ぐ台詞には、ほとほと聞き惚れてしまう。俳優が言葉を声に乗せることで、その奥底に潜む人間の真情が目の前の空間へと昇華していくのだ。その光景は例えようのない美しさに満ち満ちている。そして、台詞の美しさと、その時代の醜怪さとが重ね合わさることで、嘘偽りのない人間の在り様が、確実に舞台で息づき始める。創造され得るものの“在るべき姿”を見た気がする。

物語は昔日を邂逅しながらも、演劇とは何ぞやというテーマに言及したメタシアターの様相を呈していく。藤原竜也演じる劇団の小道具係・洋一が瓢箪池から救い出した、宮沢りえ演じる女優・キティ瓢田と共に「サフラン座」という劇団を立ち上げるのだ。洋一は演出家となり、唐の分身である文ちゃんは劇作家となる。演劇を創作していく過程で生まれる、演技、物語、そして劇団などについての思いが熱く語られていく。何としても、公演を実現させたいとする3人の情熱が心に染み入ってくる。

宮沢りえが物語の中軸に立ち、下谷万年町で起こる出来事をグイグイと牽引していく。その立ち振る舞いは実にパワフルなのだが、天性の繊細で気品ある彼女の資質が、作品に清々しい透明感を与えていく。藤原竜也は、舞台前面に設えられた瓢箪池をバシャバシャと勢い良く駆け回り、客席に飛沫を浴びさせる様がライブ感を生み出し、観客を沸かせていく。作品世界を楽しんでいることが観る者にも伝わり、嬉々とした空気感が会場を包み込んでいく。また、宮沢りえ演じる女優を側面からサポートする姿が、作品をしっかりと支えることに繋がり、観ていて心強い存在感に感じられていく。西島隆弘は、藤原竜也との相性も良く、宮沢りえとなどとの丁々発止の掛け合いにも堂々と渡り合う。まだ、少年を引き摺る年齢の幼さと、大人への領域へと踏み込んだ大胆さが共存し、ピュアな香りを振り撒きながら、しっかりとした安定感を示していく。

その他にも、六平直政、金守珍、大門伍朗、原康義、井手らっきょ、柳憂怜、大富士、沢竜二、石井愃一など実力派俳優が、役どころの大小に関わらず居並ぶ布陣は鉄壁だ。

蜷川演出は久し振りとなる朝倉摂と吉井澄雄の仕事振りも、また、見事としか言いようがない。この美術の何と細かな造作といったら! 長屋を造らせたら、朝倉摂は日本一かもしれない。また、吉井澄雄の、シンメトリーで明かりのラインがくっきりと現れる叙情性を湛えた照明が、美しいことこの上ない。そこに、猪俣公章の詩歌が流れるのだ。日本文化の粋が切り取られていく。

決して諦めることなく、夢を夢として抱き続ける熱い志は永遠に死すことはない、という衝撃的な幕切れが、観る者に大きな感動を呼び覚ます。それは時空を突き抜け、次代にも繋がる架け橋ともなっていくようにも思えてくる。決して古びることのない普遍的な真情を掬い取り、演劇という手段で表現するというそのこと自体を問い直しながら、クリエイトされた本作は、この公演自体が事件であり、また、紛れもない傑作として語り継がれるべき作品であると思う。

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