フィリップ・ブーリンの演出作は、このシアターコクーンで2回観劇している。「地獄のオルフェイス」と「欲望という名の電車」である。共に、テネシー・ウィリアムズ作品であったが、本作の原典はフョードル・ドストエフスキー。フィリップ・ブーリン自らが上演台本を執筆した「罪と罰」に、期待感は高まっていく。
舞台は、帝政ロシア時代のサンクトペテルブルク。原典を現代に翻案することなく、ドストエフスキーが描いた世界を直球で描いていく。その時代を描ききることで、現代にも通じる人間の苦悩が浮かび上がってくるという仕掛けになっている。
物語の主軸に立つラスコリニコフは、自分を「特別な人間」だと思っている。そんな者が担う役割は「人類が救われ、その行為が必要ならば、法を犯す権利がある」という独自の理論を持つ貧乏学生だ。ラスコリニコフの思想が作品全体の基軸になっていく。
時代を経て、この自分が特別だと感じる意識は、現代に生きる者にも相通じるところではないかと感じ入る。そして、貧富の差。富める者と貧しい者との、決して超えることが出来ない歴然としたボーダーライン。現代社会が抱える問題は、連綿と引き継がれているのだという事実に愕然とすることになる。
ある種、独善的に展開しそうな筋書きも三浦春馬がラスコリニコフを担うことで、人間が抱える苦悩や希望を抒情的に昇華させ、普遍性を持った人間を繊細に造形し観客の心にラスコリニコフを侵入させていく。カンパニーを背負って立つオーラも放熱しつつ、口舌爽やか、動きも機敏で、観客の耳目を一気に集め見事である。
ラスコリニコフを追い詰める国家捜査官ポルフィーリを勝村政信が演じ、作品が生真面目なテイストに傾く流れにコミカルなアクセントを付加し、福与かな人間性を盛り込み観客との間に共感性を築いていく。このベテランの丁々発止は演劇というナマのパフォーマンスのヴィヴィットな感覚をエンタテイメントの楽しさとして提示してくれ何とも楽しい。
麻美れいが、極貧に陥る家庭を一心に健気に守りきるおかみカテリーナを演じ、作品を脇からキリリと引き締める。不幸な身の上なのだが、リアルに造形し過ぎることないため、観客の感情がカテリーナの生き様にシンクロするいい意味での隙間を創ってくれているところが見事だと思う。
ラスコリニコフに寄り添うソーニャを太島優子が演じ、可憐な魅力を放っていく。ある種の自己犠牲的な身の堕とし方にも悲惨さを感じさせず、意思を持って懸命に生きる女性像をナチュラルに構築していると思う。
フィリップ・ブーリンは、華も実もある俳優陣から最大限のポテンシャルを引き出し見事である。また、自ら書き起こした台本に、今を生きる人々へのエールと警鐘を響かせてもいく。いつの世も変わらぬ人間の苦悩を観る者の心にズシリと刻印し、贖うことができないと思われる運命との対峙を切っ先鋭く描いた逸品であると思う。
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