本作はネオ・オペラと謳われていたため、宮本亜門の新演出が施された「蝶々夫人」であろうと予想して会場へと入ると、まずそこで抱いていたイメージを覆されることになった。
まず、会場であるが、従来の客席前列8列分を潰してステージが造られており、コンパクトで親近感ある空間に仕立て直されている。更に、ステージの前面何箇所かにビデオが設えられており、また、セットは何の装飾もないグリーンバックであるため、CG合成された映像が合体されていくのだろうということが予想される。まるで映画撮影のスタジオの様である。新演出とはいえ、なかなか現代的なアプローチをするものだと感じ入る。
物語が始まると、そこで、また、大きなサプライズが待っていた。「蝶々夫人」を上演するために、スポンサーに対して、その制作過程を映像で撮りプレゼンするという舞台設定が成されているのだ。「蝶々夫人」そのものが新演出で上演されるという訳ではなく、全くの新解釈の作品として、約100年前の作品を現代の観客へと提示していく。
本作を企画制作する女性プロデューサーの思いが、本作のキーとなっている。彼女は離婚調停中のようであり、一人息子は子役として本作に登場する。彼女は、「蝶々夫人」に日本に生きる女の生き様のルーツを見出し、その思いを掬い上げることで自らも再生していきたいのだという強烈な意思を持って作品を創り上げようとしている。作品を創ることこそが、今を生きるためのよすがとなっているようなのだ。
男性のエグゼクティブ・プロデューサーの視点は、完全にスポンサーだけに向いている。さしてオペラに興味のない一般人の視点を彼が代表しているとも言え、蝶々夫人を演じる女性に、「今度、ご飯でも行きましょう」などと誘う場面に、思わず失笑してしまう。あるのだろうな、こういうことって、と。
有名な古典作品を、現代人の様々な視点を持ち込むことによって、この作品が内包する、男と女、従う者と従わせる者の在り方を多面的に照射し、知らず知らずの内に、観る者は作品と共鳴し合っていくことになる。実に興味深い作りである。
やはり、グリーンバックでは、登場人物たちと、古風な墨絵のような風景画とが合体することとなり、舞台上下、上部にセッティングされたモニターに、その映像が映し出されることになる。観客は、「蝶々夫人」の時代と、グリーンバックの前で、今、歌い上げている出演者たちを同時に見ることとなり、作品が重層的な構造を持ち得ることとなる。この多重性こそ、現代そのものなのかもしれないなどと、思いを巡らしていく。
蝶々夫人を演じる嘉目真木子は、歌い上げるその力量もさることながら、美しい美貌が一際目を惹き、観客の目を捉えて離さない。作品の中心に立ち、物語をグイグイと牽引するパワーをも兼ね備えている。プロデューサーを演じる内田純子や、エグゼクティブ・プロデューサー演じる神農直隆なども、印象深い存在感を示していく。
シンプルだが的確に作品に斬り込むテキストは、宮本亜門が構成したものなのであろうか。とても分かり易く、現代に生きる人間の苦悩と希望を描いて秀逸である。また、古典を見事なまでに換骨奪胎し、様々なスペックを駆使しながら、ある種、アートの域にまで作品を押し上げた宮本亜門の新機軸な演出は、見物であると思う。
意外性という点に於いては、本作は昨今の上演演目の中では抜きん出ていると思う。今を生きる人々の胸の中に「蝶々夫人」がスッと入り込み、観終えた後も、作品の中に生きた者たちの思いが、心に溢れているのを感じることが出来た。是非、再演して欲しい逸品である。
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