2012年 11月

本作はネオ・オペラと謳われていたため、宮本亜門の新演出が施された「蝶々夫人」であろうと予想して会場へと入ると、まずそこで抱いていたイメージを覆されることになった。

まず、会場であるが、従来の客席前列8列分を潰してステージが造られており、コンパクトで親近感ある空間に仕立て直されている。更に、ステージの前面何箇所かにビデオが設えられており、また、セットは何の装飾もないグリーンバックであるため、CG合成された映像が合体されていくのだろうということが予想される。まるで映画撮影のスタジオの様である。新演出とはいえ、なかなか現代的なアプローチをするものだと感じ入る。

物語が始まると、そこで、また、大きなサプライズが待っていた。「蝶々夫人」を上演するために、スポンサーに対して、その制作過程を映像で撮りプレゼンするという舞台設定が成されているのだ。「蝶々夫人」そのものが新演出で上演されるという訳ではなく、全くの新解釈の作品として、約100年前の作品を現代の観客へと提示していく。

本作を企画制作する女性プロデューサーの思いが、本作のキーとなっている。彼女は離婚調停中のようであり、一人息子は子役として本作に登場する。彼女は、「蝶々夫人」に日本に生きる女の生き様のルーツを見出し、その思いを掬い上げることで自らも再生していきたいのだという強烈な意思を持って作品を創り上げようとしている。作品を創ることこそが、今を生きるためのよすがとなっているようなのだ。

男性のエグゼクティブ・プロデューサーの視点は、完全にスポンサーだけに向いている。さしてオペラに興味のない一般人の視点を彼が代表しているとも言え、蝶々夫人を演じる女性に、「今度、ご飯でも行きましょう」などと誘う場面に、思わず失笑してしまう。あるのだろうな、こういうことって、と。

有名な古典作品を、現代人の様々な視点を持ち込むことによって、この作品が内包する、男と女、従う者と従わせる者の在り方を多面的に照射し、知らず知らずの内に、観る者は作品と共鳴し合っていくことになる。実に興味深い作りである。

やはり、グリーンバックでは、登場人物たちと、古風な墨絵のような風景画とが合体することとなり、舞台上下、上部にセッティングされたモニターに、その映像が映し出されることになる。観客は、「蝶々夫人」の時代と、グリーンバックの前で、今、歌い上げている出演者たちを同時に見ることとなり、作品が重層的な構造を持ち得ることとなる。この多重性こそ、現代そのものなのかもしれないなどと、思いを巡らしていく。

蝶々夫人を演じる嘉目真木子は、歌い上げるその力量もさることながら、美しい美貌が一際目を惹き、観客の目を捉えて離さない。作品の中心に立ち、物語をグイグイと牽引するパワーをも兼ね備えている。プロデューサーを演じる内田純子や、エグゼクティブ・プロデューサー演じる神農直隆なども、印象深い存在感を示していく。

シンプルだが的確に作品に斬り込むテキストは、宮本亜門が構成したものなのであろうか。とても分かり易く、現代に生きる人間の苦悩と希望を描いて秀逸である。また、古典を見事なまでに換骨奪胎し、様々なスペックを駆使しながら、ある種、アートの域にまで作品を押し上げた宮本亜門の新機軸な演出は、見物であると思う。

意外性という点に於いては、本作は昨今の上演演目の中では抜きん出ていると思う。今を生きる人々の胸の中に「蝶々夫人」がスッと入り込み、観終えた後も、作品の中に生きた者たちの思いが、心に溢れているのを感じることが出来た。是非、再演して欲しい逸品である。

杉村春子に井上ひさしが宛て書きした本作であるが、34年の時を経て、稀代の名女優・大竹しのぶが日の浦姫を演じることで、戯曲に生命が宿り見事に甦った。戯曲はいつの世においても演じられることにより、命を吹き返すものなのだと、改めて感じ入ることになる。

平安時代、奥州の御館の夫婦が母の命との引き替えにして生まれた兄妹が、15歳に成長した時姦通するに至るが、その際に産まれた子どもは、まるでモーゼのように流されるという憂き目に遭う。そして、18年後、既に兄は死しており、妹・日の裏姫は独り身のまま過ごしていた。そして、日の裏姫の前に魚名と名乗る若武者が現れ、共に惹かれ合い、夫婦の契りを交わすことになるのだが、実は、二人は生き別れた親子同士だということが露見していくことになる。

物語のアウトラインは、悲劇である。オイディプスが原点かと思いきや、グレゴリウス一世の生涯がモチーフとなっているのだという。作者である井上ひさしが、中学3年から高校卒業まで過ごしたカトリック孤児院で発想を得たようだ。カトリックの聖人伝講義を聞いたのがきっかけだというが、日本にも酷似した近親相姦の説話が沢山あることが分かったという。そこで、日本を近親相姦社会だと捉えた井上ひさしが筆致する物語は、アイロニーと笑いとが融合した悲喜劇という手法を取り、氏独特の世界観が色濃く反映されていく。

一見、リアルさからは遠く離れた境地に物語はあるかのように思えるが、その非日常的な世界を逆手に取り、優美さを保ちながらも荒唐無稽な生き様を面白可笑しく提示することで、井上戯曲の真髄を掴み出すことに成功していると思う。人間の中に巣食う様々な呪念を、多面的な方法で切り取っていく蜷川演出の、この世から俯瞰した視点が本作のポイントとなっている。悲劇的な物語という側面だけに沿うことなく、人間が懸命に生きているということ自体が、そもそも可笑いのだということを、充分に感じさせ堪能させられる。

この作品世界を具現化させるために集められた俳優陣が、幾重にも重ねられたベールを同時に透かせて見せるが如く、実に複雑に入り組み、突飛ともいえる物語展開にも説得力を付与させていく。しかも、常に笑いの要素が忘れられていないため、深刻なツボに陥ることなく、軽妙さが維持され心地良い。

大竹しのぶがタイトルロールの日の裏姫を、15歳から初老の時期までを違和感なく演じきる。幼き頃の乙女の初々しさ、禁忌を犯した自分を律して生きてきた禁欲的な姿、そして、その呪縛から解き放たれパッション全開になるのだが、襲ってきた悪夢に立ち向かいながらも、その事実をまるで笑い飛ばすかのようなパワーを振り撒き、一気呵成に駆け抜け絶品だ。

兄と息子とを演じる藤原竜也は、兄の時はしっかりと日の裏姫の兄として存在し、息子の際には、歳の差を感じさせる素朴で純真な部分をグッと強調していく。また、夫となってからは、男の色香を漂わせ、大竹しのぶとの丁々発止にやり取りも可笑し味を忍ばせる。また、人生が一転し流転していく様にも、その生き様を享受するかの様な俯瞰する視点が見てとれて潔い男を造形する。

木場勝己と立石涼子が、主に説教聖と三味線弾きの女を演じ、物語の語り部の役割を担うが、近親相姦の話は実はこの二人の間で起こった事実であり、一種の贖罪のために、この顛末を語り歩いているのだということが明かされることになる。井上ひさしが捉える、日本=近親相姦社会という構図がクッキリと現れてくる。

終盤、説教聖と三味線弾きの女の真実の吐露を聞く街の人々は、平安の時代から一気に現代へとワープし、普段着の皆々が二人を取り囲むように立ちすくみ威圧する。そして、民衆たちはそんな二人に石を投げ付け始めることになる。己の内に宿るドロドロとした情念を、まるで他人事のように忌み嫌う態度を示す日本人の在り方を浮き彫りにしていく。怖い。でも、しかと、このメッセージを受け止めなければ、私たちは永遠に変わることができないのかもしれない、という強烈なカウンターパンチが食らわせられることになる。

グレゴリウス一世だろうが、平安時代だろうが、元ネタが何処に準拠していたとしても、作家の矛先は常に“今の時代”へと向けられていること、そのことに驚きを隠せない。34年前も今も、相も変わらぬ日本人の血脈を抉りだした秀逸な戯曲を、才能溢れる演出家と俳優陣の手綱捌きにより、普遍性ある物語として甦った本作は、まるで、生きている人間そのもののような熱さ、醜さ、可笑しさを孕み、観る者の心の奥底に深く沈殿していくことになった。実に見応えのある秀逸な人間悲喜劇に仕上がったと思う。

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