蜷川幸雄演出に良くあったように、劇場内に入ると緞帳の上がった装置も一切ない素舞台の上に登場人物たちが登壇しており、各々台詞を唱えたり、俳優同士が談話している光景を観客は見つめながら開演の時を待つことになる。舞台監督の声であろうか、開演5分前の案内が劇場内に響き渡ると、可動式のハンガーラックに掛かっていた衣装を俳優陣が纏い始める。そして、舞台袖に準備されていた装置が立ち上がり、ステージは「尺には尺を」の舞台となるウィーンの世界へと変貌していく。「幕開き3分が勝負」と語っていた蜷川幸雄の意を踏襲したかのようなプロローグに、思わず感じ入ってしまう。
開演定刻になるとステージ上の俳優皆が舞台前面に一列に並び、観客に向かって一礼をする。彩の国シェイクスピア・シリーズでは恒例のスタートである。挨拶後、俳優陣はサッと定位置に着く者、はける者が瞬時に動き、幕は切って落とされた。
喜劇とも問題劇とも称される同作であるが、戯曲の中から滑稽さと辛辣さを掘り起こし、絶妙な塩梅でブレンドされ見事である。演出補の井上尊晶の功績であろうか。劇場内の通路を多用し、時に観客席も演じる場へと転用する蜷川幸雄仕込みの展開は、劇場が一体化する効果を発していく。劇場内の全てが蜷川幸雄という存在に収焉していくようだ。
蜷川幸雄の俳優陣への演技指導はあまり成されてはいなかったのではと推測されるが、どの役者からも、何か沸々とした気迫な様なものが立ち上っていると感じたのは私だけであろうか。本作を絶対にいい作品に仕上げるのだという、表舞台、舞台裏の皆が一致団結した熱量が半端なく舞台上から放出されているのだ。
皆がそこにはいない演出家蜷川幸雄に観てもらうのを乞うが如く、全身全霊で演じ切るその光景は、活き活きとした精彩を放ち、演劇というライブの醍醐味をたっぷりと堪能させてくれる。どの役者もその役柄の個性を押さえつつも、100%全開で悔いのない舞台を創ろうという引き算がないスタンスは、しつこさよりも心地良さの方が大きく上回り、観る者にもストレートに伝播する。
また、特徴的なのは、どの役者も皆、台詞をはっきりと伝えようと粉骨砕身していることだ。時に感情の勢いに任せ、気持ちを表出させることを優先する演出は、これまでなくはなかったと思うが、本作では一語一語、しっかりと台詞を発することを責務としているかのように思える。シェイクスピアの言葉がしっかりと胸に染み込んでくる。
藤木直人は生真面目さの裏面にある、隠しきれない本音を抱えたアンビバレンツな心持ちを威厳を持って演じていく。多部未華子の溌剌とした存在感は、作品に爽やかな光明を差し込んでいく。真剣に演じれば演じる程、可笑し味が湧き出てくるその差異を見事に昇華させ、作品に品の良い軽妙さを与え見事である。
辻萬長は権力者が持つ優しさと傲慢さとを同居させながら、観客との間に親和性を育んでいく。最後のちょっと驚きの展開にも説得力を持たせ得るのは、その役柄から人間性を掴み出し、一貫した感情のうねりを創り出しているからに相違ない。石井愃一の一種の猥雑ともいえる存在は、教科条的な堅苦しさから、シェイクスピアの戯曲を開放してくれる。立石涼子の地に足が着いた土着的な女性は、右往左往する男たちの鞘当ての脇にしかと立ち、生活者の揺るがぬ強靭さを体現していく。
2回目のカーテンコールが起こった後、緞帳が上がると、蜷川実花が撮りおろした蜷川幸雄の遺影写真が天空から吊り下ろされている光景と向き合うことになる。登場人物の皆は、そのイコンに敬意を表しており、その想いが観客席にもしかと伝わってくる。もう蜷川幸雄演出の新作を観ることが出来ないのかと思うと、何とも残念な思いが胸に充満してくる。蜷川幸雄の遺志が見事に踏襲された、創り手の熱い思いが放出された記念碑であった。
最近のコメント