2016年 5月

蜷川幸雄演出に良くあったように、劇場内に入ると緞帳の上がった装置も一切ない素舞台の上に登場人物たちが登壇しており、各々台詞を唱えたり、俳優同士が談話している光景を観客は見つめながら開演の時を待つことになる。舞台監督の声であろうか、開演5分前の案内が劇場内に響き渡ると、可動式のハンガーラックに掛かっていた衣装を俳優陣が纏い始める。そして、舞台袖に準備されていた装置が立ち上がり、ステージは「尺には尺を」の舞台となるウィーンの世界へと変貌していく。「幕開き3分が勝負」と語っていた蜷川幸雄の意を踏襲したかのようなプロローグに、思わず感じ入ってしまう。

開演定刻になるとステージ上の俳優皆が舞台前面に一列に並び、観客に向かって一礼をする。彩の国シェイクスピア・シリーズでは恒例のスタートである。挨拶後、俳優陣はサッと定位置に着く者、はける者が瞬時に動き、幕は切って落とされた。

喜劇とも問題劇とも称される同作であるが、戯曲の中から滑稽さと辛辣さを掘り起こし、絶妙な塩梅でブレンドされ見事である。演出補の井上尊晶の功績であろうか。劇場内の通路を多用し、時に観客席も演じる場へと転用する蜷川幸雄仕込みの展開は、劇場が一体化する効果を発していく。劇場内の全てが蜷川幸雄という存在に収焉していくようだ。

蜷川幸雄の俳優陣への演技指導はあまり成されてはいなかったのではと推測されるが、どの役者からも、何か沸々とした気迫な様なものが立ち上っていると感じたのは私だけであろうか。本作を絶対にいい作品に仕上げるのだという、表舞台、舞台裏の皆が一致団結した熱量が半端なく舞台上から放出されているのだ。

皆がそこにはいない演出家蜷川幸雄に観てもらうのを乞うが如く、全身全霊で演じ切るその光景は、活き活きとした精彩を放ち、演劇というライブの醍醐味をたっぷりと堪能させてくれる。どの役者もその役柄の個性を押さえつつも、100%全開で悔いのない舞台を創ろうという引き算がないスタンスは、しつこさよりも心地良さの方が大きく上回り、観る者にもストレートに伝播する。

また、特徴的なのは、どの役者も皆、台詞をはっきりと伝えようと粉骨砕身していることだ。時に感情の勢いに任せ、気持ちを表出させることを優先する演出は、これまでなくはなかったと思うが、本作では一語一語、しっかりと台詞を発することを責務としているかのように思える。シェイクスピアの言葉がしっかりと胸に染み込んでくる。

藤木直人は生真面目さの裏面にある、隠しきれない本音を抱えたアンビバレンツな心持ちを威厳を持って演じていく。多部未華子の溌剌とした存在感は、作品に爽やかな光明を差し込んでいく。真剣に演じれば演じる程、可笑し味が湧き出てくるその差異を見事に昇華させ、作品に品の良い軽妙さを与え見事である。

辻萬長は権力者が持つ優しさと傲慢さとを同居させながら、観客との間に親和性を育んでいく。最後のちょっと驚きの展開にも説得力を持たせ得るのは、その役柄から人間性を掴み出し、一貫した感情のうねりを創り出しているからに相違ない。石井愃一の一種の猥雑ともいえる存在は、教科条的な堅苦しさから、シェイクスピアの戯曲を開放してくれる。立石涼子の地に足が着いた土着的な女性は、右往左往する男たちの鞘当ての脇にしかと立ち、生活者の揺るがぬ強靭さを体現していく。

2回目のカーテンコールが起こった後、緞帳が上がると、蜷川実花が撮りおろした蜷川幸雄の遺影写真が天空から吊り下ろされている光景と向き合うことになる。登場人物の皆は、そのイコンに敬意を表しており、その想いが観客席にもしかと伝わってくる。もう蜷川幸雄演出の新作を観ることが出来ないのかと思うと、何とも残念な思いが胸に充満してくる。蜷川幸雄の遺志が見事に踏襲された、創り手の熱い思いが放出された記念碑であった。

同作に関しては映画版を既に見ていたため、粗筋はあらかじめ分かっている状態で作品と対峙することになった訳であるが、いやぁ、舞台から目を離す隙間もない程、作品に前のめりで没頭してしまうことになった。

舞台はアメリカのオクラホマ州にある片田舎の大きな家。季節は8月。その家の主人が家政婦と会話を交わす静かなシーンから物語は始まる。主人を村井国男が演じるが、どうやら病を患う妻のためにアーリー・アメリカンの家政婦を雇ったのであろう経緯が分かってくる。穏やかではあるが、妻に対し沸々とした複雑な心情を内包する男を静かに演じきる。そして、次のシーンで、その主人が失踪したことが露見する。不在となった主人を巡る、その家族たちの物語が展開していくことになる。

どの俳優が出演するのかは、勿論、あらかじめ知ってはいた。この錚々たる面々が同じ舞台の上に居並ぶ奇跡の様な瞬間に出会えることに大いなる期待を抱いていた。そして、その期待が徐々に叶っていく光景を目の当たりにすることになる。同作の一番の魅力的な要因は、このキャスティングにあると言っても過言ではない。

夫に失踪された病を患う薬依存症の恐妻を演じる麻美れいが、居並ぶ実力派俳優陣のセンターに聳立し、ブラックホールの様に強大な求心力を誇っていく。この強烈な母に育てられた娘は3人。長女は、離婚したことをまだ公表していない元夫と娘とを連れてやってくる。長女を秋山菜津子、夫を生瀬勝久が演じる。長女は母の遺伝子を多く継承しているのか、思ったことをストレートに吐き出す性格が噴出し、孟母と真っ向から対峙する。

薬に依って酩酊した呂律が回らない状態から、歯に衣着せぬ暴言を吐き続ける瞬間など、麻美れいが演じる母は、作品に強烈な存在感を刻印していく。不安定な精神状態でありながらも、決して自己を曲げずに主張しまくる不屈な母を、説得力を持って演じていく。ここまで誰にも迎合しない人物を、爽快に魅せる愛らしさが何とも魅力的なのだ。

その母の遺伝子をしかと受け継いだ長女を演じる秋山菜津子と母は、度々強烈な衝突を繰り返す。相手に対する不満をストレートにぶつけあう様は深刻さを通り越し、可笑しささえ生まれてくる。他人の諍い事を客観的に見ると、何とバカバカしく滑稽なのだろう。観ているうちに、どんどんとストレスが解消していくような爽快ささえ感じられて面白い。若い学生と浮気をした大学教授の夫を演じる生瀬勝久とのやり取りでは、元夫が一歩引き気味に元妻と応酬し合うその微妙な力関係の差異が、また異種の可笑し味を生んでいく。間合いやテンポが実に絶妙なのだ。

実家の近隣に住み母の面倒をサポートしている次女は、物静かに見える佇まいの裏で、密かに潜行している親交をひた隠しにしている。演じるは常盤貴子。生真面目な性向を強調し、騒がしい家族の中のオアシスの様な存在にも見える。三女を演じる音月桂は、奔放に育った末っ子の可愛さの奥底に潜む、幸福を希求する枯渇感を複合的に捉え、役柄にふくよかなニュアンスを付与していく。何やら怪しげな三女の許嫁を、あか抜けない気障ったらしさを振り撒きながら演じる橋本さとしは、作品に如何わしいアクセントを着け加える。

母の妹とその夫を、犬山イヌコと木場勝己が演じる。姉と同様、思ったことを、即、口にしてしまう妹を犬山イヌコの軽妙さが笑いを誘い、そんな妻の良し悪しを冷静に捉えながらも、言うべきことははっきりと言い放つ懐のデカい壮年男を木場勝己が体現し、何とも格好良い。

中村靖日が、ひ弱さと強靭さを合わせ持つ繊細な青年を好演し、藤田秀世の朴訥とした存在感が安心感を醸し出す。小野花梨の瑞々しさのホット息つける優しさに心和み、羽鳥名美子の柔らかな正義感の表現が、モラルの瓦解を堰き止める役割を果たしている。

ケラリーノ・サンドロヴィッチが台詞に隅々にまで目を配り、居並ぶ実力派俳優陣の個性を上手く役柄に載せていく手腕に脱帽だ。戯曲の中に渦巻く人間の感情を掬い出し、ピンセットで配するが如く絶妙な間合いを生み出し笑いへと転化させていく。ダイニングに集い舌戦を繰り広げる様を、テーブルの床をゆっくりと回転させながら台詞劇をダナミックに魅せる演出も心憎い。人間の滑稽さを笑い飛ばしながら描く、俳優の魅力を堪能出来る傑作だと思う。

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