オペラは好きだが、大概が安い席から完売していくので、うっかりしていると高い席しか残っておらず、とてもじゃないけど行けない羽目になる。どれだけの人的物的移動や滞在があるのかと考えると致し方ない気もするが、こちらの懐事情とは別の話である。この演目もチケットを買ったのは去年12月の半ばである。半年以上も先に自分がどうしているのかなんて皆目検討がつかないとその時は思い購入を少し迷ったのだが、実は大して大きな変化もないというのが現実だ。
今回、この演目を見たかった理由は3つあった。まず、パリ国立オペラが初来日であるということ。どんなものなのだろう、という単純な好奇心。次に、DVDなどではその演出作品は観ており、一度ナマで観てみたいと思っていたピーター・セラーズが演出であるということ。そして、1995年のヴェネチア・ビエンナーレでその作品を見て以来、絶えず動向が気になり続けているビル・ヴィオラが映像を担当するということ。3つも強く興味を魅かれる理由が出来てしまったので、その魅力にあがなえなくなってしまったのだ。
実にシンプルな作品であった。舞台を現代にもってくるとか、これでもかと絢爛豪華に着飾り彩るといった、よくある演出のアプローチは封印されていた。常に舞台中央に設えられた巨大にスクリーンにはビル・ヴィオラの映像が映し出され、トリスタンの心情を視覚化していく。シンプルではあるのだが、映像とここまでガッツリとコラボしたという意味では、画期的とも言えるのかもしれない。休憩を除く約4時間。その全てのシーンに、そこで謳われる思いと映像とがシンクロする。また、歌手を2階客席やロビーで歌わせる演出がサラウンド効果を生み、劇場空間をスッポリと音楽が包み込む。
しかしこの長尺を飽きさせず観せ続けられる映像はスゴイと思う。そのシーンに合った風景を抽出するとか、ある感情の状態を活写するとか、歌の内容をなぞるということは決してしない。深層心理の奥底に分け入り、その核心部分の揺らがぬ意識を映像化しているのだ。故に、紛れもない本当の意思がそこには映し出されている訳である。何事にも揺るがない硬質の意思が強烈な強さを持って観客を覆い尽くしていく。圧巻である。
オーケストラがいい。決して曲だけいきり立つことなく常に歌と寄り添っている、そんな関係性が、とてもふくよかで優しい状態を作り出すのだ。丸みを帯びているため、その端の部分にいい意味での遊びができ、そこに観客がスッと入り込み、更にイマジネーションを掻き立てられることになる。
イゾルデのヴィオレッタ・ウルマーナの伸びやかなソプラノは聴く者の心を溶かし、トリスタンのクリフトン・フォービスが秘めたる強い思いを安定感ある表現で演じていく。ブランゲーネのエカテリーナ・グバノヴァ、クルヴェナールのボアズ・ダニエルの清冽な若いパワーが、作品全体に溌剌とした勢いを付加させていく。
ビル・ヴィオラという才能をピーター・セラーズが存分に生かしきった。オペラは映像という新たな視覚表現を得たことで、これからも変容しながら更に進化を遂げていくに相違ない。この作品は、ある意味「エポック」な事件でもあったのだ。
最近のコメント