2008年 7月

オペラは好きだが、大概が安い席から完売していくので、うっかりしていると高い席しか残っておらず、とてもじゃないけど行けない羽目になる。どれだけの人的物的移動や滞在があるのかと考えると致し方ない気もするが、こちらの懐事情とは別の話である。この演目もチケットを買ったのは去年12月の半ばである。半年以上も先に自分がどうしているのかなんて皆目検討がつかないとその時は思い購入を少し迷ったのだが、実は大して大きな変化もないというのが現実だ。

今回、この演目を見たかった理由は3つあった。まず、パリ国立オペラが初来日であるということ。どんなものなのだろう、という単純な好奇心。次に、DVDなどではその演出作品は観ており、一度ナマで観てみたいと思っていたピーター・セラーズが演出であるということ。そして、1995年のヴェネチア・ビエンナーレでその作品を見て以来、絶えず動向が気になり続けているビル・ヴィオラが映像を担当するということ。3つも強く興味を魅かれる理由が出来てしまったので、その魅力にあがなえなくなってしまったのだ。

実にシンプルな作品であった。舞台を現代にもってくるとか、これでもかと絢爛豪華に着飾り彩るといった、よくある演出のアプローチは封印されていた。常に舞台中央に設えられた巨大にスクリーンにはビル・ヴィオラの映像が映し出され、トリスタンの心情を視覚化していく。シンプルではあるのだが、映像とここまでガッツリとコラボしたという意味では、画期的とも言えるのかもしれない。休憩を除く約4時間。その全てのシーンに、そこで謳われる思いと映像とがシンクロする。また、歌手を2階客席やロビーで歌わせる演出がサラウンド効果を生み、劇場空間をスッポリと音楽が包み込む。

しかしこの長尺を飽きさせず観せ続けられる映像はスゴイと思う。そのシーンに合った風景を抽出するとか、ある感情の状態を活写するとか、歌の内容をなぞるということは決してしない。深層心理の奥底に分け入り、その核心部分の揺らがぬ意識を映像化しているのだ。故に、紛れもない本当の意思がそこには映し出されている訳である。何事にも揺るがない硬質の意思が強烈な強さを持って観客を覆い尽くしていく。圧巻である。

オーケストラがいい。決して曲だけいきり立つことなく常に歌と寄り添っている、そんな関係性が、とてもふくよかで優しい状態を作り出すのだ。丸みを帯びているため、その端の部分にいい意味での遊びができ、そこに観客がスッと入り込み、更にイマジネーションを掻き立てられることになる。

イゾルデのヴィオレッタ・ウルマーナの伸びやかなソプラノは聴く者の心を溶かし、トリスタンのクリフトン・フォービスが秘めたる強い思いを安定感ある表現で演じていく。ブランゲーネのエカテリーナ・グバノヴァ、クルヴェナールのボアズ・ダニエルの清冽な若いパワーが、作品全体に溌剌とした勢いを付加させていく。

ビル・ヴィオラという才能をピーター・セラーズが存分に生かしきった。オペラは映像という新たな視覚表現を得たことで、これからも変容しながら更に進化を遂げていくに相違ない。この作品は、ある意味「エポック」な事件でもあったのだ。

40年弱前に書かれた本戯曲は、この後の時代に起こる出来事を髣髴とさせるかのような予感に満ち、全く古びることなくマグマの様なパワーとシニカルな怒りが内包されていて、触れると火の点くような熱さで観る者の気持ちを焦がしていく。そんなパッションに笑いを織り交ぜながら、喜劇として仕上げ体衆化させていく手腕は、さすが当代随一の作家であると舌を巻く。

今回の公演に際し作家は大分修正して、上演時間は大分短くなったようだ。最初に書かれた戯曲は、その上演時間は5時間とも6時間とも言われていたが、それだけの膨大な物語を紡ぐことが出来るその熱情と才能には計り知れないものがあるなと感じ入る。

物語はタイトルにあるように、曹洞宗の開祖・道元の話である。しかし、単なる伝記が展開される訳ではない。道元によって開かれた宝林寺で、開山7周年記念の祭典が開かれようとしていたその時が舞台。丁度、「道元禅師半世紀」が弟子たちによって演じられようとしている。また、この時期、道元は頻繁に夢を見て、婦女暴行容疑で拘留中の現代に生きる男と意識がシンクロしていく。現代と寛永元年という時、さらに道元の修行時代を過去から遡るという3つの次元が混然としながら展開していく。しかも、全編、歌に満ちている。主に10人の役者が50もの役を早代わりで演じながら、歌い、踊る。その必死のパワーがこの物語にスリリングな要素を付け加えていく。

現代の拘留中の男のパートであるが、場面数が多くないということもあってか、ラストの顛末に繋がるステップとしては、その存在感が少し希薄な気がした。寛永時代の圧倒的なパワーと対比させるかのような、全く趣きを異にする静謐さとでも言おうか、決定的に違う空気感を作り出して欲しかった。照明にも工夫が欲しかった。そうすることで、過去の場面も更にクッキリと際立ってくると思う。

「道元禅師半世紀」を演じる弟子たちを、阿部寛演じる道元は、座禅をしてジッと見つめている。合間に、現代のシーンが鋏み込まれはするが、1時間位は、ほぼ座禅をしたままである。かつての修行時代の姿を見つめることで、当時の思いを彷彿とさせていくという意図なのかもしれないが、固定された身体からは立ち上る様々思いが去来しているのがあまり分からず、道元が唯の傍観者に見えてしまい、これは惜しい気がした。そこで演じられている「半世紀」は面白いのではあるが。

伊藤ヨタロウの音楽がイイ。メロディ・メーカーの宇崎竜童とはまた違ったテイストで、カノン、ブルース、民族音楽、オペレッタ調など、様々なジャンルが入り交じる楽曲を、本家本元の音に変に似せることなく、エッセンスを掴み取る。

阿部寛はコミカルなアクセントも備え、その偉丈夫な体躯は主役としての存在感があった。北村有起哉が縦横無尽に駆け回り台詞の合間の空気感を埋めていく。木場勝己の圧倒的な安定感、神保共子の安心感が物語を支える。栗山千明はキレはイイが、やはり封印された黒髪は見てみたかったな。横山めぐみは独特の清楚な色香を放ち存在感がある。

ラストのシーンで過去と現在がシンクロする。正気なのは強い権力を持った者で、反体制の者たちはいつの世も取り締まられる立場にあるのか、と言う疑問がアタマをももたげる。格子の外と内との境界線は、きっと薄い皮膜でしか区切られていないのだから。

会場アナウンスで携帯やら何やらの注意が流れ終えると、静かにピアノソロの音楽がかかり暗転していく。曲が終わると、暗闇の中、何かをゴシゴシとこする音が聞こえてくる。しばらくは暗闇のままなので、その音に耳を傾けることになる。明るくなると、梅沢昌代演じるホテルの従業員が壁をこすっている姿が見えてくる。「汚れが落ちない」と呟きながら、執拗に固執している。そこに松たか子演じる女がボストンバッグを手に現れ、このホテルの従業員を見て「気違い」だと囁き言い放つ。冒頭から不穏な空気が醸し出される。

女はこの古びたホテルに旦那と共にやってきたことが分かる。旦那は東京に店を構える人気のオーナーシェフ。田中哲司が演じる。中村まこと演じるこのホテルのオーナーは従兄弟で、亡き奥さんの料理が評判だったレストランを再興したく、従兄弟のよしみでレシピを伝授してもらおうと画策したのだ。そうなのだ、奥さんは最近亡くなったばかりなのだ。しかも、自殺らしい。そしてこの夫婦。どうやら東京のレストランを改築中の今、ヨーロッパへ新婚旅行に出掛け帰ってきたばかり。言葉の端々から、旅行中、女の体調のせいなのか、うまく初夜が迎えられなかったと察せられる。

松たか子が、新たな一面を見せてくれる。清々しく謳い上げる明晰な台詞術は封印され、絶えずイライラしていると言うのとは少し違うのだが、今の状況とか出来事とか言葉とか、何かがきっかけとなって、まるで、風船を小さな針で突くかのように、これまで抑えていた感情が暴発し感情をぶちまける負の感覚に身体ごと覆われていているのだ。現実に生きていながら、感情はどこかに置き忘れてしまったかのような浮遊感。コミュニケーションを自分の側から拒否し気持ちにシャッターを下ろしてしまっているのだが、ある瞬間、感情を直情的に吐き出す、その自閉的で主観的な閉じ篭もり方。新作であるし、話がどう展開していくのかをジッと見つめているわけだが、松たか子が、次の瞬間どういう言動に出るのかの予想がつかず、それが実にスリリングなのだ。

話は吉田鋼太郎演じる児童小説家の父と、鈴木杏演じるその娘が介入してくることで、更に複雑な感情が渦巻いていくことになる。この父は亡くなった奥さんの兄。10年前からこのホテルに住んでいるようだ。この父と娘の秘密が、女の過去の瑕とリンクし、女は過去と現在、現実と幻想の世界を跋扈し始める。新婚旅行での出来事の理由が、うっすらとだんだん透けて見えてくる。

物語もこの女に沿うように、だんだんと女の主観で展開されていく。時空は跳び女の妄想とも思える世界も繰り広げられていくが、作者は決して女を見捨てたりはしない。女の言動は、真実に則ったものであり、女はその欺瞞で塗り固められた嘘に憤っているだけなのだ。「気違い」なのは、周りの人々であり、その余波を受けて、女も混乱しているのだ。

長塚圭史は、登場人物たちの感情を繊細に紡いでいく。スプラッターな脅かしも今回はない。松たか子を中心とした役者たちから、実に曖昧ではっきりしていない正と負が混在する感情を搾り出していく。その根拠のない分からなさが、生きていることそのものなのだ、と言わんばかりに、皆が幾重にも重ねられた真情を剥がし吐露していく。

感動、とはまた違う種類の満足感がひたひたと襲ってくる。それは、自分でも封印していた感情のひだを再確認してしまったかのようなバツの悪さと、ああ、これが問題の原因だったんだと自覚出来た潔さが混じり合った、まるでセラピーを受けた後の安心感にも似ている気がした。夫が女にかける最後のひと言は、まさに、瀕死の状態から生還させるための「愛」のひと言に相違あるまい。女は生き還った、のだ。

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