2017年 7月

主演の少年ビリー・エリオットの大々的なオーディションがスタートしたのは、2年程前であろうか。選りすぐられ、一流のスタッフの指南を受けた少年が、どのような活躍をするのかが、本作最大の興味のポイントだ。

本作の原典となるのは映画「リトル・ダンサー」。同作の監督であるスティーブン・ダルドリーがオリジナル・ステージの演出を担い、脚本家であるリー・ホールが脚本・作詞を受け持った。その布陣に参画したのがエルトン・ジョン。当代一流の音楽家の才能が加わることで、傑作映画が傑出したミュージカル作品へと変貌を遂げた。

採算の取れない炭鉱を閉鎖する合理化計画が発表された、サッチャー首相政権下の1984年。イングランド北部にあるイージントンという炭鉱町が同本作の舞台となる。ビリー・エリオットは、その町の炭鉱夫の家庭に生まれた少年で、当初はボクシングを習っていたのだが、そのボクシングのレッスンの後、同じ場所でバレエの教室が開かれていることで、そこに紛れ込んでしまうことになる。そこで、少年の才能が一気に開花する。

少年の成長&サクセスストートリーが縦軸として展開していくのだが、政府の通達に反旗を翻す炭鉱夫たちのムーブメントが横軸としてしっかりと描かれているのため、作品が重層的な様相を帯びてくるのは、映画と同様だ。社会的背景と個人の才能とが拮抗し合いながらも絶妙に融合していく構成が見事である。

父親を吉田鋼太郎が演じる回をと思いチケットを取ったのだが、旬の俳優のオーラが作品をグイと牽引していく熱量は半端ない。少年が中軸に立つ物語に、大人が抱える生活の辛苦と子どもを思う親の優しさとが綯い交ぜになった感情を付与し、見応えのあるドラマを紡ぎ上げていく。

人間的な魅力は、バレエの指導者を演じる島田歌穂からも強烈に発せられていく。スレンダーな出で立ちも見事に、炭鉱町でバレエを教える彼女の過去には何があったのかなどをついつい想像してしまうような、重層的な人間像を造形し見事である。魅惑的な彼女に目が釘付けになってしまう。

ビリー・エリオットを演じるのは加藤航世。バレエを出自とするのか、ダンスの舞いのクオリティの高さは、観客の視線をグッと引き寄せる。バレエの他にも、タップやジャズダンス、器械体操、そして、演技に歌と、あらゆる技能を駆使しなければならないタイトルロールを、確実にこなしていく。

ビリー・エリオットの友人であるマイケルを演じる古賀瑠のキラキラと輝く存在感が、何とも愛らしい。加藤航世とタップを刻むシークェンスを、本作の大いなる見どころにさせたのは、古賀瑠の力量が大いに寄与していると思う。期待の逸材だと思う。

大人になったビリー・エリオットを演じる栗山廉と加藤航世とが共に舞う光景は、作品中盤のクライマックスとも言えるシーンだ。この夢のように美しいシーンが挟み込まれることで、物語が時空を超えた視点も獲得し、シンボリックに作品に聳立する。

袋小路にある現在から、才能ある若者に未来を託す意気を溌剌と描いた逸品である。こういった状況に共感する人々は、意外に多いのかもしれないと感じ入る。出演者によって、全く違った肌触りの感触になるであろうポテンシャルも感じられる、重層的で繊細な作品と向き合える幸福感を堪能する喜びにたっぷりと浸ることが出来た。

「あっこのはなし」は、マームとジプシーの10th ANNIVERSARY Tourの4演目の内の1プログラムで、この期間中の公演回数はたったの2回。「ハロースクール、バイバイ」もオーディションでキャスティングされた高校生たちによって、装いも新たにほぼ同時期に上演された。

5本の作品が同時に動いていたことになるが、一体どのように上演の準備をしていたのか、まずは、そんなことが気になってしまうのは、私だけであろうか。藤田貴大の多作振りには、大いに目を見張るものがある。実にパワフルである。

「あっこのはなし」は初見であるが、今まで抱いていた藤田貴大作品のイメージと印象を異にする。過去の甘酸っぱい想いや辛苦を、主に女子学生にフォーカスを当てて描くのが氏の特質だと感じていたのだが、本作は違っていた。

ルームシェアをする、多分アラサーだと思われる女性3人と、彼女たちを取り巻く男性陣との恋の鞘当てが展開していくのだが、それが何ともリアルなのだ。皆がそれぞれに思う本音がストレートに語られていくのだ。へぇー、藤田貴大にはこういう抽斗もあるのだなと、新鮮な驚きを与えてくれる。

しかし、面白可笑しく物語が筆致されていくだけではない。他人に対して思う明け透けな思いが、嫌味なくストレートに描かれているのが何だか心地良くも感じていく。等身大の藤田貴大自身の資質が現れているのであろうか。ギミックに転じない物語の紡ぎ方が、現代の若者の真意を端的に表出させ、今という時代の空気感を見事に可視化させていく。

「ハロースクール、バイバイ」の出演者たちは、全員オーディションで選ばれた学生たちだ。12人の出演者は、女性10人、男性2人という構成比。女子バレーボール部の活動が、物語の中心となっている。

藤田貴大は物語を回転させながら、出演者個々人にスポットライトを当て、虚実の被膜の境を曖昧にさせていく。名前も本名でやり取りされていく。出演者の名前がステージ後方上部に投影され、一人一人にフォーカスを当てていく演出も面白い。そこが、本作の肝である。演劇と個人史とをクロスオーバーさせて描くことで、ドキュメンタリー的なアクセントが作品に付与されるのだ。

この戦略的な観客の巻き込み方は見事である。観客は、出演する学生たちを、まるで身内の様な目で見守ってしまうことになるのだ。出演者のスキルの持ち駒の少なさを、観客の共感で補っていく。

バレーボールの試合が度々挟み込まれるのだが、その瞬間瞬間でコートの前後左右の方向が変わることで作品にダイナミックさが付け加えられていく。藤田貴大の真骨頂、リフレインの表現も健在だ。観客を飽きさせない方策が果断なく連打されていく。

藤田貴大の2作品を鑑賞することで、氏が持つポテンシャルの高さと共に、実は観客を満足させようと奮闘する思いの強さも実感させられることになった。次回はどんな才能を発揮してくれるのか、楽しみでならない。

本作は何よりも、公演初日に中嶋しゅうが亡くなったということが語り継がれることになる刻印が押されることになった。しばしの休演を経て、斎藤歩を新たに迎えることで、上演は再開された。

プロの仕事であるから当たり前であるとは思うが、悲劇が起こった後とは微塵も感じさせない鉄壁のアンサンブルが見事である。かえって、俳優陣の間で結束が高まったのではと思う程、登場人物たちの関係性に隙のない感情がギュッと詰め込まれている気がする。

アメリカはカリフォルニアに住む共和党議員一家の話である。元俳優の議員。その妻は元脚本家。ニューヨークから久しぶりに帰宅した娘は最近、小説を上梓したようだが、そのことについて何故か不穏な空気が漂っている。息子は低俗だと揶揄されるTVのプロデューサー。また、妻の妹が同居しているが、アルコール中毒ときている。

少し問題はありそうだが、まあ、ありふれたハイクラスの一家にも見える。しかし、それでは物語は成立しない。長女のブルックはうつ病を患っていたことがあり、その要因となる出来事が未だに彼女の中で尾を引いているようなのだ。

それは過去に起こったある事件がきっかけになっていることが段々と分かってくる。そして、その鬼門とも言える出来事は、家族の中でずっと秘められ、隠され続けてきたことなのだが、ブルックがそのことを小説というカタチでディスクロージャーしてしまったことが、物語の起爆剤となっていく。

家庭内テロを引き起こすブルックを演じるのは寺島しのぶ。厳然とした家庭環境において、自分の居場所を模索する姿に、寺島しのぶ自身の姿とオーバーラップさせて観てしまうのは私だけであろうか。ブルックが抱く此処に居ることの違和感が、徐々に家族全員に伝播していくことで、皆が抱える真情が吐露されていくそのプロセスと、逡巡する思いが交錯しドラマが生まれる。

佐藤オリエの母とブルックとは真っ向から対立する。真実を隠蔽しているかに見える家族の対応に苛立つブルックであるが、事の真相はブルックが把握していた事とは別に存在していることが、物語が進んでいく内に露見していく。佐藤オリエがとる高圧的な態度は回りの者にストレスすら感じさせてしまうようだが、その強靭さを誇るのは家族を守るためなのだという真情が零れ落ち、物語に重層的な感情を付与して見事である。

麻美れい演じる叔母は、ブルックの良き相談相手でもある。閉塞感ある家庭の外側から、ブルックの心の支えになっている。どうやら、ブルックがしたためた著作にも、大分、意見しているようだ。この二人の間にはある種の連帯感のようなものが生まれている。麻美れいがこの役を演じることで、佐藤オリエ演じる母と対峙する存在感を、しかと獲得する。

居並ぶ猛者たちの中において、ブルックの弟を演じる中村蒼の新鮮さが、逆に引き立つのが印象的だ。寺島しのぶとも互角に勝負し、姉に意見する時の両者の眼差しが行き交う様はスリリングですらある。

斎藤歩は、カンパニーに違和感なく溶け込んでいた。家長であるが故に、家庭内に大きな波紋を巻き起こさないよう立ち回る姿が右往左往な感じにも見えるが、家族の中で一番俯瞰した視点を持ち得ているのは、この父なのかもしれないとも感じていく。優しさと厳しさとが上手くブレンドされた細かなニュアンスは、作品に柔らかな印象を残していく。

家庭内に一石を投じたブルックであるが、そこには彼女は想像し得なかった苦い真実が待ち受けていた。隠された秘密は覗いてみるものではない。そして、時空は数年後へと飛び、事の顛末を客観的に捉える視点が据えられる。

理屈では決して割り切れない、家族が孕む様々な想いを吐き出させることで、観る者にも自浄作用を促す効果を発していく。観客に解釈を委ねる潔さが心地良い、心に染み入る逸品となった。

今をときめく旬の俳優が揃い踏みなのは、三谷幸喜作品の醍醐味でもある。生の舞台で、人気の役者を見ることが出来るのは、それだけで楽しいですもんね。しかも、本作は実力派俳優陣が皆、小学生を演じるのだという。事前の情報はそれだけしかなかったが、期待感は高まるばかりだ。

舞台は小学校の1室で展開される。教師などの大人は一切登場しない。放課後に教室に居残っている10人の生徒が巻き起こす物語が展開していくことになる。

個性的な役者陣に振られた役どころが、また、楽しい。語り部となる小学生時代の三谷幸喜自身を演じるのは、林遣都。何か格好良過ぎはしないかと、心の中で茶々を入れるも、座組の中で一番年齢が若いということもあり、流石に小学生には見えないが、物語を観客に向けてブリッジする役回りとして適任であったと言える。あだ名を付けるのが得意だというのも求心力ある設定だ。自分はホジョリンと呼ばれている。物語の中軸に立ち、猛者どもをナビゲートしていく。

天海祐希はクラスの中の頼れる存在で、皆からアニキと呼ばれている。天海祐希のキャラクターと大いに被るところが観客の期待を裏切らない。しかし、独裁者ではない。皆から慕われる人気者だ。そんなクラスの人気者を揺るがす存在となる転校生を、大泉洋が演じていく。チリチリ頭が特徴だ。ホジョリンはチンゲと命名するが、自分のことをジョーと呼ばせていく。

吉田羊は、勉強家だが成績は悪いホリさんを演じる。このキャラクター、有りそうでなかなか無い設定ではないだろうか。後に、彼女の生い立ちに別の物語があることが分かってくる。複雑な役どころだ。小池栄子は見た目まんま、釈迦の性であるゴータマと呼ばれている。クラスの悪ガキでいつも悪巧みを考えている。まあ、可愛い悪巧みではあるが。

伊藤蘭が売れっ子の子役、ヒメを演じていく。子役の可愛さとあざとさが上手く共存した役どころだ。クラスにこんな子がいたらウキウキしちゃうなという存在だ。浅野和之は相手の言う言葉を何でも繰り返してしまう通称リピート。皆にいいように使われてしまうきらいもあるが、絶対どこかでこの性格は転換するタイミングがあるはずという期待に応えてくれる展開も心難い。

青木さやかはソウリと呼ばれる学級委員。担任教師のコバンザメ的存在であるが、学級委員に再任されなかったことにより、変身と遂げる展開が面白い。小出伸也が演じるのは恐竜のことなら何でもござれのドテ。こんな奴クラスに1人はいたよななどと思いを馳せていく。春海四方はこれまた見た目からきたのかジゾウと呼ばれている。小学生という設定であるが、言動はもはやオジサンだ。そのギャップが可笑し味を生んでいく。

役者は揃った。役者のキャラクターを活かした役どころの設定もパーフェクトだ。面白くないわけがない。で、嬉々としてしまう程面白かった。

子どもが考える悪戯や悪さ、そして、大人にも共通するであろう組織でいかにトップに昇り詰めるか、そのために謀られる戦略などが、小学生の世界において緻密に描かれていく。また、無邪気に見える反面、心の中で逡巡する子どもたちの思いも繊細に筆致され、人物像が重層的に描かれる。大人の鑑賞に堪え得る極上の人間ドラマが展開される。

子どもの世界で起こっていることは、カタチは変われど、大人の世界でも当たり前に様に頻出しているのだといういう思いを強く抱かせる。人間って、なかなか変われないものなのかもしれないですよね。ここで展開している出来事は、全て、昔日の出来事なのだという感傷にも似た感情が次第に沸々と湧いてくる。

劇場の奥行を活かしたラストが秀逸だ。ステージに佇む生徒たちが、次第に舞台奥へと教室ごと移動していくのだ。これまで起こっていた全ての出来事が、だんだんと過去のものへと変質していくのだ。この発想、最高である。観ているうちに、段々と、泣けてきてしまうようなのだ。

ミュージカル仕立てでもあるサプライズも、また、楽し。三谷幸喜が、また、新たな地平を開拓した心に染み入る傑出した作品であると思う。

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