2007年 11月

小栗旬は、3時間余り、この舞台でカリギュラを生き抜いたと思う。演じるというよりも、役柄をグッと自分に引き寄せ吸収し、役柄を完全に自分のものにしていた。難解で書き言葉のような台詞の数々も、身体の中から内なる言葉として吐かれるため、形而上学的な白々しさとは程遠く、逡巡する哲学的な思いがストレートに伝わってくる。変に大仰で芝居がかった振る舞いをしないのも効果的だ。人を侮蔑し、掴みかかり、食卓の上に乗り食器を蹴散らすのも、彼の内なる心の叫び現れなのだ。それが確実に伝わってくる。心と身体が決して一体化することのないもどかしい違和感の振幅度合いが、スリリングな緊張感を生んでいくのだ。

舞台が始まると登場人物たちの現況が一通り紹介されるが、その後、まさにボロボロになった状態の小栗旬演じるカリギュラが登場し、場の雰囲気を一変させる。愛妹の死に打ちひしがれている様が痛々しい。そして場は転換し、カリギュラが佇む鏡張りの部屋に、横田英司演じる奴隷上がりの臣下エリコンが入っていく。その際、部屋のスイッチを押すと、室内に設えられていたネオン管が独特の音を響かせ点灯する。一瞬にして、ローマ時代から現代へと時間がワープする。鏡の壁に乱反射するネオン管は、メディアという華やかで空虚な世界を象徴しているようにも見え、色とりどりの光に囲まれながら不安と孤独を抱えたカリギュラが、今の小栗旬そのものとシンクロする仕掛けである。ここに明快な演出意図がある。この今の小栗旬であるからこそ活きたコンセプトである。

脇を固める役者陣もまたいい。勝地涼演じる詩人シピオンのストレートな素直さが、カリギュラの鋼鉄のような心を溶かしていく様がスリリングだ。父親を殺されたにも関らず、カリギュラに愛していると語りかける詩人シピオン。どこかで似たような孤独感を共有でもしているのであろうか。その残虐とは真逆の純粋な感情が、観る者の心をも揺り動かしていく。片や奴隷上がりの粗野なエリコンを演じる横田栄司は、裏表のない図太い感情で繊細さとは裏腹のパワーで押しまくる。長谷川博己は明晰な頭脳を持つ貴族ケレアを演じるが、理路整然とした論理と推測でカリギュラを追い詰めていく。カリギュラの周りには、こうした「感情」「パワー」「頭脳」という特質を持った男たちがトライアングルのように存在する。人間を切開してみたら、こんな要素に分けられるのであろうか。カミュの思いが見てとれる。

若村麻由美がカリギュラを愛するセゾニアを的確に演じ安定感をみせる。女の色香、やや年幅がいったことを恥じる風に見せる仕草、カリギュラを愛しサポートする権勢を握った女の欲といった様々な感情を、吹く風のような自然さで演じてみせる。いちいち引き出しから方法論を取り出してくるようなコマ切れの感情ではなく、セゾニアの生き方そのものがごく自然に立ちのぼってくるのだ。そういう意味では、小栗旬と共に若村麻由美もまた演じる人物そのものを生きてしまったと言える。

月川悠貴演じる歌い手のシーンが、ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」のような退廃的な雰囲気を少し醸しだすが、例えカリギュラがお尻を見せる衣装を着たとしても、全体を覆う空気は清潔感に溢れていて、近親相姦、殺人、復讐などと言った血の匂いのする出来事の数々は、美麗な台詞と清廉な役者たちによって、まるでスポーツ後にシャワーを浴びたかのような、全ての匂いを消し去った後の爽快さに満ちているのだ。

「おれはまだ生きている!」と最後の台詞を残して臣下たちに殺されるカリギュラに、もはや迷いはないだろう。そういう潔い疾走感がこの舞台にはあるのだ。それは、今、リアルタイムに走り続けている小栗旬の資質そのものに相違ない。

劇場内に入ると真新しい真紅の椅子が広がっている。やっぱり劇場って、赤い椅子だよね、とか思う。緞帳も新鮮。オレンジとグレーの太い縦縞が、定式幕を彷彿とさせるが、ラインの上部には、葉っぱらしいシルエットも描かれており、タイトルは「森の中へ」と言うらしい。芝居の世界へと誘われる感じが心地良い。1982年生まれの塚本智也氏の作品である。

下手の緞帳前に用意されていた演壇に堺正章が登場して舞台は幕を開ける。まず、そこで拍手がおきる。そして、講談師のように川上音二郎のプロフィールを語っていく。緞帳が開いた舞台上では、映画館のスクリーンのように上下左右に黒幕を張った状態の中で、登場人物たちが無声映画の役者たちのようにコマ落としのようなセカセカしたテンポでことの次第を演じていく。川上音二郎が渡米するまでの経緯が一気に語られ物語は始まった。

物語は、渡米した川上音二郎一座が、ボストンの劇場での初日を控えた前日から、その公演当日までを描いていく。舞台「ショー・マスト・ゴー・オン」や映画「ラヂオの時間」を彷彿とさせる、三谷幸喜得意の状況設定である。劇場という限定された空間の中で次から次へと事件が勃発する様に目が離せず、もう可笑しくて抱腹絶倒である!

元芸術座という商業演劇(というジャンルも最近ではカテゴリーが判別としないが)の牙城のリニューアルの?落としとしては、絶好の素材ではなかったか。舞台と言えば歌舞伎という時代に風穴を空けた川上音二郎を取り上げたことに、三谷幸喜の意気込みが見てとれる。また、先駆者を主人公に取り上げながらも、演劇スタイルは誰もが楽しめるオーソドックスなシチュエーションコメディに仕立て上げたところも、場に相応しい、と思う。

キャストは豪華な布陣である。三谷版顔見世興行といったところか。堺正章が見ものである。この達人の引出しが一体どこまで開陳されるのか、思わず釘付けになる。浅野和之が、劇団電劇時代を思い起こさせるようなクネクネとした仕草が、女形を演じる型として見てとれ面白い。戸田恵子は、もう稀代のコメディエンヌですね! 絶対にタイミングをハズしません! ユースケ・サンタマリアは、自分勝手な主人公を演じ、内にある弱さも見せてホロリとさせる。堺雅人の一途や、常盤貴子の華が、アンサンブルにアクセントを加えていきます。瀬戸カトリーヌの素っ頓狂なハーフが場をかき乱す様が、これまた可笑しい。

観客は大笑い、大喜び。舞台上の出来事と、現実の舞台とがシンクロする企みもまた見事である。後半、2幕は、シアタークリエの観客たちは、ボストンで舞台を見つめる観客にもなっていくのだ。会場中がだんだんと一体化していくのが分かる。

カーテンコールでは、観客総立ちになって、座長ユースケ・サンタマリア音頭による一本締めで幕を下ろした。ワクワクドキドキの3時間30分は息つく暇もなくあっと言う間に過ぎ、やんややんやの?落としは、大成功、であった。お祭り、ですね。

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