「ロープ」がプロレスの話だということは、事前のインタビューなどで知ってはいたが、そこは野田秀樹。ロープで張り巡らされたリングに、一筋縄ではいかない独自の世界を造形していた。プロレスは八百長か否かと問いながら、次第に物語は暴力の是非へと傾いていき、遂には、その暴力を作っている存在があることを露呈させ、その真実を覆い隠して世に伝えていくメディアの功罪にまで言及していく。
「ロープ」とは、何とシンボリックなタイトルなのであろうか。ゴングやレフリーやリングではなく、ロープ。平和の境界線とも言えるが、しかし、その隙間から抜け出すことだって可能であろう。ロープに叩きつけられ戻ってくるも来ないも人の意思だと問う試金石とも言えるし、まるで幾重にも張り巡らされた迷路のようである。
最初は弱小プロレス団体を隠し撮りしてCS放送番組で流すということがきっかけだった。そこで、プロレスは八百長ではないと信じてひきこもるプロレスラー・ノブナガに目が付けられ、リングの底に住み続けているタマシイという女が、ことごとく物事の顛末を実況中継し始める。しかし、ノブナガは実は八百長を信じていないレスラーというキャラを演じていただけであり、タマシイもミライから来たと言ってはいるが、その出自はハッキリとは分からない。
リングでの闘いがエスカレートすればする程視聴率は上がり、オーナーからは、もっともっとと要求される。半殺しの後は、殺人。そして、その後は、もう、戦争、しかないではないか。そこで一気に時空がスパークし、あの時のベトナムへと、タマシイは彷徨い出す。
ノブナガがアメリカ兵となってベトナム人民をドンドンと殺戮していく。そして、その実況をタマシイが中継していく。言葉にはとても代えがたい悲惨な状況を伝えることで、その憤りや哀しさが胸をグサグサと突き立てて来る。ナマであるからこそ感じられる痛みを舞台と共に共有してしまう。この、実況するという第三者の目は、ことの重大さをいかに正確に浮き彫りにさせるのであろうか。ゆえに報道というものの重要性を突き付けることにもなる。
宮沢りえ演じるタマシイは、状況を伝える意思を越え普遍的ですらあった。あの忌まわしい光景が宮沢りえの筆舌で神の視点を持ち得るのだ。だから、彼女の声を聞いているだけで涙してしまうのだ。藤原竜也のノブナガには、善悪の境界線の“曖昧さ”が内包されると、もう少し人間の弱さみたいなものが滲み出たかもしれない。渡辺えり子は、軽妙に野田秀樹と絡み楽しめる。中村まこと演じる入国管理官の不可思議さも心に残る。
右翼化する2006年日本に、野田秀樹は直球で、この時勢をカッ飛ばして風穴を空けてくれた。戦争は作られているのだということ。そこで利益を稼いでいる者がいるということ。そして、本質を避け報道され続けているプロパガンダがあるのだということ。途中までは、TV局のユダヤの社長が全てをコントロールしているかのように言われているが、終盤、本当に動かしている者は表に出てくるはずがないと言い切られる。その瞬間、我々の前に提示されるのは決して闇なのではなく、自分自身の目を凝らして世の中を見ろという啓示なのではないか。そして、タマシイの如く、いかに、今、自分がいる状況を正しく冷静に伝えることが出来るのか。また、受け売りの情報は決して鵜呑みにはしない。そんな能力が、これから生きる人々にとって最も重要なスキルなのだと痛感させられる。危機感を持っていなければ、踊らされるだけですからね。ズシリと重いヴイを心に落とされた感じだ。
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