2014年 3月

ピナ亡き後も、ピナの作品を観ることが出来るという幸福感に包まれながら、舞台のアーティストたちを終始注視することになる。コンタクトホーフに取り組むティーンエージャーたちを追ったドキュメンタリー「夢の教室」を事前に観ていたこともあるのだが、1つの作品を作り上げていくアーティストたちの模索と葛藤が、立ち上ってくるようなオーラに噎せ返る気さえする濃密な時が、目くるめくように繰り広げられていく。

コンタクトホーフとは“触れ合いの館”という様な意味だという。舞台は、地域の公民館の講堂のような場所で、ここで、20数名の男女がお互いを意識し、惹かれ合いもするが、幾重もの葛藤を通過していくことで、対峙し、対立、そして、決別という展開にも陥っていく。男女の関係性の本当に様々な側面を斬り取り、観客が持つ記憶とスパークさせていく。

ピナは作品を創作していく過程において、アーティストたちに対して多くの質問を投げ掛け、そこから様々なアイデアを生み出していくのだという。表現する者の内面から染み出る感情や行動が真に迫ってくるのは、アーティストたちの生き様が嘘偽りなく迸っているからに他ならない。

この生々しさにハートをグッと掴まれてしまうのだ。様々なエピソードが紡ぎ合わされていくため、休憩を挟んで約3時間の上演時間を貫いていくはっきりとしたストーリーはない。しかし、愛する者と共に生きていく決意がとことん掘り下げられていくため、どのエピソードにも“物語”が浮かび上がってくるのだ。

決してダンスのテクニックを競うのではなく、人間の美しい部分だけをピックアップするのでもないピナの作品の在り方は、見惚れるというよりも、むしろ、親和性を醸成させ共感性を獲得していく。熟成した大人そのものの存在感の魅了されてしまうのだ。ダンスがテクニックの呪縛から解放されていく。

ヴェンダースの「Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」の中にでも度々挟みこまれた、アーティストたちが列に連なり、同じタイミングで歩を一歩ずつ前へと進めながら、映画ではカメラの方に、舞台では観客席の方に向いて、微笑みながら目配せをしていく、個々のパーソナリティが際立ったシーンが印象的だ。口をふくらませたり、手を腰に当てたりする動きを繰り返し行う自然な振る舞いに目が釘付けになる。

あるシーンでは、舞台前面に一列に並べられた椅子に各国から集っているアーティスト全員が座り、異性に関するエピソードを自国語で一斉に語っていく。順番にマイクが手向けられ、その都度それぞれがフューチャーされていく。まずは、個があることで、世界が成り立っているのだといくことが可視化される。

男女間に起こる拮抗は、諍いを通り越して、売春的な、はたまた、最初は相手に対する興味から始まるコミュニケーションが、最後には辱めに近い状態にまで陥っていくことにもなる。表面的なことだけを撫でるのではなく、傷付け合い、堕ちていく姿を掬うことで、人間の裏に巣食う衝動をも刻印する。一つのところに納まることなく、触れ幅の広い感情表現や行動を取る、人間の本能をも抉り出し胸に突き刺さる。

人間関係とは、個対個の関係性が起点となる訳だが、男女間においては、お互い接触し合うことから、より親密な領域へと足を踏み込んでいくことになるのだ。始まってしまった関係性が、一体何処の地点へと向かうのかは、誰も知らないし、本人にすら分かっていないのかもしれない。しかし、確かなことは、自分は此処に居るのだという真実。ピナの作品に触れることは、自己を肯定する洗礼を受けることでもあり、だからつい涙してしまうのかもしれない。人間の本質を突き付けられると、購うことはできないという真実に驚愕する傑作だ。

生瀬勝久、池田成志、古田新太の3人のユニット「ねずみの三銃士」の第3回企画公演というだけで、もう、観る前からワクワクする気持ちが抑えられない。演劇界のみならず、エンタテイメントの分野においても、活動の場を広げ続けているこの実力派俳優たちがこうして一同に居並ぶだけで、顔見世興行の様な賑々しさが暴発し華やかさ満開だ。

ゲストで迎え入れられたのは、小池栄子、夏帆、小松和重の3人。旬の勢いある個性派俳優陣が、「ねずみの三銃士」とガップリと四つに組むキャスティングにも心躍る。しかも、戯曲は第1作目から手掛けている宮藤官九郎の手による新作だ。それを束ねるのは、河原雅彦。どんな世界が繰り広げられていくのかに期待感が高まっていく。

「万獣こわい」と謳っているからであろう、シュールな笑いを織り込んだ落語のシーンをプロローグに据えるセンスがクールだなと思う。ここで「ねずみの三銃士」たちは、ひとしきり観客から笑いを引き出しつつ、本編へと物語は跋扈する。

“洗脳”が終始、其処此処に散逸し、一見、ごくごく普通の生活者の中に、その毒素が染み入る様を俯瞰して描き、ブラックな笑いを振り撒いていく。こういう種類の可笑し味に照準を合わせてきたのかと、フフとほくそ笑む。

昨今、ニュースを賑わすことの多い、監禁事件が本作のモチーフとなっている。かつて、少女が8年間監禁されていた場所から逃げ、とある喫茶店へと駆け込んでくる。そこで匿われる少女。その7年後に成長した少女が、助けてくれた夫婦の元に舞い戻って来るところから、物語は変調をきたしていく。そして、その少女を引き取った養父が現れることで、かつての“悪夢”が連鎖する幕が切って落とされた。

喫茶店を営む夫婦は、生瀬勝久と小池栄子。夫の元妻の警察官の弟に小松和重。少女は、夏帆が、養父を古田新太が演じる。池田成志は、喫茶店の常連客という布陣で、ヒリヒリとする感情が横溢する、善意を逆さまから見た悪意の世界を、クドカンの筆致が生々しくもユーモアを孕みながらも粛々と描き衝撃的だ。

人間が持つ柔らかい優しい側面に少しずつ侵食し、人心を取り込んでいく女を演じる夏帆の無垢な魔性振りが物語の台風の目となっていく。自ら手を下すことは決してせず、周囲からじわじわと侵食していく洗脳のやり口が、明晰に語られていく。常に、笑いの要素を含みながら。

まずは、外界との交流を遮断する。そして、その中において恫喝となだめを交互に繰り出していく。そこに集う人々は、絶えず競争させられることで、誰よりも一番でありたいと願う思いを抱かされていく。しかし、離脱した際に、その他の人々が受ける報いを想起すると、手足を縛られたかのように、その空間から自ら脱出する勇気は潰えてしまうというプロセスが精緻に描かれ、舞台から目が離せなくなっていく。舞台の転換時などに用いられる、喫茶店の装置に投影される微妙にハウリングを起こしたかのような映像が、言語化出来ない不気味さを演出し印象的だ。

河原雅彦演出は、「ねずみの三銃士」をきっちりと物語の枠の中の住人として描くベースを設けることで、客演陣に思い切り弾けても貰うジャンプ台を用意する。俳優陣が物語を逸脱することなく、あくまでもそこで起こる出来事を語ることを遵守することが、人間の奥底に潜む毒をくっきりと炙り出す効果を示していく。作品全体のトーンと俳優陣とのバランスをキッチリと捉えた差配振りが、作品に繊細な色合いを付与させていく。

生瀬勝久の右往左往する逡巡振りが振り撒く可笑し味、池田成志の飄々とした朴訥さ、古田新太の馴れ馴れしさと恫喝さとが共存する不気味さ、小池栄子の繊細さを併せ持った豪胆な存在感、善悪を行き来しながらその境界線を笑顔で消滅させる夏帆の不適さ、事の成り行きに突っ込んでいく部外者を当意即妙に形象する小松和重。俳優陣の個性がそれぞれ際立ち、技あり演技をじっくりと享受しながら、ああ、芝居を見ているのだなという満足感に浸ることが出来る。

どす黒いリアルを直球で放射する宮藤戯曲を、熟練の技でガッシリと且つ余裕を持って受け止めユーモアへと転じさせることで、エンタテイメントとして成立させた「ねずみの三銃士」の才能に見惚れることになる。クセものの御仁が放つ毒気に中てられながら、そこに仕掛けられたブラックユーモアの術中に嵌る幸福感に浸れる上質の娯楽作に仕上がった。

開演を知らせるベルが鳴る前に舞台上に麻美れいが現れ、マットが敷かれクッションが置かれた場所でひとしきりたゆたった後、ステージ奥へと去っていく。その直後、劇場の係員の方々が、開演にあたっての注意事項を知らせていく。再び、劇場は暗転となり、物語がスタートする。

佐藤オリエ、中嶋朋子、満島真之介、中嶋しゅう、麻美れいという5人の俳優が同じ板の上に載っているという、そのこと自体の何という贅沢さ。演劇の醍醐味である達人の芸に生で触れる満足感を、たっぷりと堪能出来る逸品に仕上がった。

但し、演劇を全く観ない人に対して、この希少性を説明するのが意外にも困難だとも気付くことになる。役者さんはマスメディアでの露出が少ないと、一般の人の認知度はなかなか高くないのですね。そういう意味でも、この空間を同じくした者だけが味わえる、貴重な観劇体験であることに相違ないとも確信していく。

コクトーの戯曲は、人間が心の裏面に隠し持っている本性を暴き出していくのだが、冷静に俯瞰し人間観察をする視点が、深刻さに陥ることなく可笑し味を放ち爽快だ。悲劇も見方を変えれば、喜劇でしかないというリアルを、名優たちが一歩引いた客観性を持って演じていくため、その真情が痛い程観る者にも伝播し、舞台から目を離すことが出来なくなっていく。

この戯曲の真髄を、百戦錬磨の俳優陣が人間のあらゆる想念を重層的に積み重ねて表現していく。その側面同士が拮抗し合うその摩擦が、また、新たな物語を生んでいくという連鎖が実にスリリングで、サスペンスフルですらある。演出の熊林弘高は、行き交う感情を丁寧に斬り取り、カリカチュアライズされてしまう一歩手前のギリギリのラインを保ちながら、リアルで分かりやすく客席に物語をリーチさせ見事だ。

佐藤オリエが、事の成り行きを把握し、物語の行方を差配する役どころを、冷徹に演じるが、心の奥底の潜む欲情の萌芽を、ほんの少しの隙間に髪間見させる繊細な表現を駆使し、圧巻だ。その、隙間から零れ落ちる本性が、実に生々しい人間性を放ち、その在り方に何故か共感性を抱いてしまうというマジックに酔い痴れてしまう。

麻美れいは、未だ独身の佐藤オリエの妹というロールだが、その姉のスティディであった男を夫に迎え、今は溺愛する息子を持つ精神不安定な女を演じていく。奔放で自堕落な落ち目のブルジョア女性を生々しく体現し、姉との確執の対比もクッキリと際立たせるが、自己に埋没していくネガティブさも魅惑的に、観客を気持ちよく翻弄し心地良い。

麻美れい演じる母に溺愛される息子を満島真之介が演じるが、敢えて抑制を効かさず発露させていく感情を、ピュアさという衣を纏いながらストレートに表現していく。恋人への愛情と、母への思慕が、直情的とも言えるようなスキンシップで、対する女優と真っ向に立ち向かい、垂れ流す涙と鼻水などとも相まって、彼が抱える混沌とした悲哀がズキズキと伝わってくる。

中嶋朋子は、愛した男が、これまで囲われてきた愛人の息子だということに直面する女を演じ、女が抱える混乱と諦観の間を行き来するが、その逡巡する様についつい魅惑されてしまう。苦悩の最中にいる者が周りから見ると滑稽で面白いという状態をヒリヒリとした情感を込めて表現し、注視してしまうのだ。

3人の女との関わり合いを持ち、息子とも“兄弟”となる中年男を中嶋しゅうが演じるが、自我を押し通す男の真意をのらりくらりとした風体で表現しながらも、キリキリとした女の業を一身に受けるしかない弱さと、発露できる相手に対する傍若無人振りを行き来しながら、男の本質なるものに言及し親和性を獲得する。

事の顛末は、案外あっけない締めくくり方を示していくとことがコクトーの策略でもあるのだが、本作においても人生がいかに儚いものであるかということを突き付け、その中で右往左往する人間の滑稽さを抉りながらも、爽快感さえ感じさせ秀逸だ。演劇の醍醐味をストレートに表現し尽した秀作であると思う。

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