2014年 8月

あの「ショーガール」が、三谷幸喜の手を経て2014年の今、見事に甦った。かつて、PARCO劇場が西武劇場と名乗っていた時代、福田陽一郎の作・構成・演出、木の実ナナ、細川俊之出演の「ショーガール」は、同劇場の代名詞とでもいうべき演目だった。都会的でお洒落な世界観に、憧れ、酔いしれた若かりし頃が、観る前から甦ってくるような気さえする。

大人が楽しめるショーと言うことで、自らが一体、どれだけ大人になっているのかという事などを、思わず反芻してしまう。しかし、そんな杞憂はいざ知らず、ただただ、目の前で展開されるステキなショーが堪能出来る楽しさに惹起していく。

出演者に、川平慈英とシルビア・グラブの二人がキャスティングされたことが、新生「ショーガール」の“肝”である。両御仁共、数々のミュージカルやショーで大活躍していることは周知の事実であるが、この二人のカップリングが、いい意味でのバタ臭さを醸し出し、日常からかけ離れた世界を現出させる起爆剤と成り得ているのだ。

舞台は同時期に同劇場で上演されている「君となら」と全く同じセットを、そのまま転用しているところがサプライズだ。東京郊外の一軒家の居間がメインのステージとなっており、同公演の観客の目にも、別の演目と本作とが舞台を共有していることは明白だ。故に、今見ている舞台の背景には、別のドラマがあるのだということが共通認識として持つこととなり、ある種の共犯関係にも似た親和性を観客に与えることに繋がっていく。

襖が裏返るとミラーになっていたり、階段や敷居のエッジにはライトが仕込まれているする。上手に据えられたピアノで荻野清子が演奏をし、ベースとパーカッションのステージは2階の物干し台だ。この意表を突く楽しい設定が、日常から非日常へと誘う、まさに装置として機能する。

東京都三鷹市下連雀に住む探偵の物語がアウトラインとなっていく。探偵は、川平慈英。その客が、シルビア・グラブ。他人の家に恐る恐る入り込んでいく体で、ステージはスタートする。

一流のエンターテイナーを前にしたら、もう、その、魅力に取り込まれてしまうのが得策だ。あれこれと考えている隙間など微塵もない。強烈な磁力に目が舞台に釘付けになっていく。

探偵を訪ねてきた女は、ある女の行動を調べてくれとの依頼をするのが物語の発端だ。探偵は調査をしていく内に、その女の虜になってしまう。しかし、そこには、ある秘密が隠されていたという、シンプルで分かりやすいドラマがミュージカル仕立てで展開されていく。肩の力を抜いて観ることが出来る、楽しさに満ち満ちている。

物語を語るナンバーは、三谷幸喜と荻野清子が創作した楽曲で綴られていくが、日本の土着性を充分に活かしきった親しみある展開が、独自な親近感を生み出していく。そして、物語が締め括られると、イッツ・ショー・タイム!の始まりだ。スタンダード・ナンバーのメドレーが、程よい笑いを施しながら美声とキレの良いダンスで綴られていく。舞台と観客席が1つに融合していく。

1時間のミニ・ショー・タイムは、観客を楽しませることに徹したエンタテイメント性に溢れ、楽しさ一杯の出来上がりであった。是非、また、シリーズとして続けていってもらいたいプログラムであった。

特に目立った装置も何もない劇場空間で繰り広げられる「ロミオとジュリエット」。そしてキャストは、オール・メールでときている。観客と対峙するのは、俳優陣のみ。蜷川幸雄が課した命題は、新鮮だが高いハードルなのではないかと杞憂する。

ベテラン勢が脇をガシッと固めているとはいえ、若者のパッションと意気が前面に出てこそ、本作の意図は完遂されるのだと思うが、その意図は見事に開花することになる。若手俳優陣のその青臭さまでを抱合し、未熟な側面は溢れ出る熱情で凌駕させ、一人では担いきれない重荷は志を同じくする者たち同士の連帯責任とも捉えられるような連携により、鉄壁なアンサンブルが組まれていく。

そうなのだ。まだまだ大人になりきれない少年少女が、生の絶頂から死の淵へと駆け抜けたたった5日間の出来事が、真にリアルに迫ってくるのだ。シェイクスピアの言葉に若者たちが必死に喰らい付き、もがいている姿そのものが、劇中で逡巡しながら生きているヴェローナの若者とオーバーラップしていく。大上段に構える向きには異論もあるかと思うが、こんなにも熱情的でフレッシュな「ロミオとジュリエット」は、なかなかないのではないかと思う。

オール・メールゆえの仕掛けとして、舞踏会シーンの女性の衣装などは、敢えて上半身を半裸にして、男の肉体を晒したりもする。舞台で演じられている物語の虚構を隠さず露見させることで、逆に、登場人物たちのより深い心の深淵に近付いていこうというアプローチの様にも見て取れる。

また、この場では男女共に顔を白く塗りたくる化粧が施されているのだが、このグロテスクな妖気さに、久々に“退廃”という言葉が頭をもたげてくる。日本の若い男優たちを、ヨーロッパの貴族社会へとブリッジさせる手法とも取れるが、「地獄に堕ちた勇者ども」のヘルムト・バーガーなどを彷彿とさせられるこのアクセントに、ただ若者が突っ走るだけではない、デカダンスさを秘めた階級社会の一端を、刷毛でサッと塗るかのように描いてみせ見事だ。

俳優陣は、シェイクスピアの言葉を朗々とただ謳い上げるだけの表層に陥らず、身体に滾らせ血肉として沁み込ませている。詩歌のような台詞に飲み込まれ過ぎたり、翻弄させられたりするきらいが決してないのだ。

菅田将暉は自らの中に沸き起こる感情に忠実に従い、その感情を起点としているため、ロミオという人間の軸がぶれることがない。何事にも一喜一憂する10代の男の馬鹿さ加減、人を愛する一途な気持ち、思い立ったらじっとしてはいられない猪突猛進さなどを、ストレートに演じ、好感が持てる。

月川悠貴はジュリエットという役と自らとの間を行き来するような冷静さと客観性を持ち、そこに内から零れるパッションを滲ませていきながら、14歳のジュリエットの真髄を掴んでみせる。女性が幼い頃から持ち得ている女の大人の部分がフューチャーされ、女優が演じるジュリエットにはない、凛とした女性像を造形している。

若葉竜也の自分の内に根ざした感情をしっかりと言葉に載せていく様は、非常に安定感があって心地良い。一連の事件の後に慟哭する様に、思わず目頭が熱くなる。矢野聖人は、殻を脱ぎ捨てた直後の鳥のように快活で軒昂だが、身体の一部にへばりついている殻のカケラが取りきれていない感じが未熟さを感じさせつつ、その青臭さが魅力に転じてもいると思う。平埜生成の直情さ、菊田大輔の品性も印象に残る。

最後の最後に、蜷川幸雄を戯曲にはない、シーンを付け加えた。ハムレットのフォーティンブラスを思い起こさせるような少年がぶちかます行動が衝撃的だ。現代の歪んだ格差社会や、果てることのない戦渦の連鎖などが一気にクロスしてくる。大団円に終わることが出来ない現代の世相を反映させ胸が詰まる。

オール・メールという異形さをも上手く取り込んだ、若者のパッションと大人の叡智とが見事に融合した、現代社会を反映する秀作に仕上がったと思う。何もない空間に幻想の世界を立ち上がらせるには、人間と言葉さえあれば充分なのだという事実が提示され、もしかしたら、世界は変えられるかもしれないという思いが心に沈殿しエンパワーされていった。

「朝日のような夕日をつれて」が2014年に還ってきた。初演から33年も経っているのですね。感慨深いです。これまで、再演を繰り返してきた鴻上尚史の人気の演目であるが、何故、2014年今、再度上演を決行することになったのか? その意図は何処にあるのだろうかという思いが頭をもたげていく。

おもちゃ会社をベースに展開していく本作は、上演されたその時代に流行しているおもちゃをモチーフとして取り上げていくことになる。初演時は、ルービックキューブだった筈だ。TVゲームなど影も形もない時代であったが、今となっては隔世の念を禁じ得ない。もう時代を引き戻すことは出来ないし、物事は変化し続けるのが世の習いなのだ。

今回の物語の主軸となるのは、日常生活の中で非日常を体験することが出来るゲームである。フェイスブックを始めとするSNSなどで開陳している個人情報を下に、それぞれの人たちの嗜好性に合致した、決して傷付くことのない世界を体験出来るというものに、ゲームは行き着くことになる。時代を的確な視点で捉えてきた鴻上尚史は、2014年に望まれているであろうゲームを、そのように規定してみせる。

片や、初演から変わらぬモチーフとして、「ゴドーを待ちながら」のエピソードが刺し嵌め込まれていく。ウラジミールとエストラゴンを担う大高洋夫と小須田康人という布陣は、初演時から変わることはない。初演時、当然、二人は学生であった訳であるが、ここに来て、実年齢の役どころを演じることになるとは。この光景に、感慨深い思いを抱いてしまう。

これから流行するであろう最先端の娯楽を追い求めながら、ゴドーに象徴される“これからやって来るであろう何か”といった漠然とした期待や不安が共存した同戯曲の骨子は、実に鉄壁なものなのであったのだと感じ入ることになる。今という時代を、その内と外、過去と未来からアプローチをし、優しさを持って斬っていくのだ。どの時代においても、観客の真情を共振させる仕掛けがここにあるのではないだろうか。

大高洋夫と小須田康人という重鎮が据え置かれていることが、観客の満足感を得るには重要なポイントになっている。かつて感動したものに再会したいという思いで来場されているリピーターの方々がどの位いるのかは定かではないが、第三舞台の幻影を追い求めて来た人々は、観客席を見渡してみても多い気がするからだ。しかし、本作では、藤井隆、伊礼彼方、玉置玲央というメンバーが加わり、新しい血液が注入されたかのような新鮮さを与えてくれる。進化するには、変化が必要なのだ。

節目、節目に織り込まれるダンスは、やはり格好いいなあ。また、ボールを投げ合う応酬やフラフープを競うなどの他、お笑いの要素も沢山盛り込まれているのもいつもの定番で、楽しい限り。また、今回の被り物は、蟻、ときた。これに、「アナ雪」の歌を被せ、「蟻のままで~」と替え歌にして披露し、笑いを誘う。しかし、ここには、一般人は「蟻のままで」いるのが良しともするタップリとアイロニーを込められた諦観した視点に、ついついほくそ笑んでしまう。

もう、分かっているのだ。この後、どのような展開になっていくのかは重々承知なのだ。しかし、それをなぞられることが、とても快感なのだ。ラストのあの舞台が競り上がっていくシーンが観たいのだ。創り手たちは、その辺もはっきりとわきまえた上で、2014年の今問いたい「朝日のような夕日をつれて」を創り出したのだと思う。

新たな情報をインストールしながら既視感をも満足させた「朝日のような夕日をつれて」は、観る者を決して裏切ることのない面白さと刺激に満ち溢れた作品として2014年、見事に甦った。

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