彩の国さいたま劇場インサイド・シアター
18時30分開演
作:宮本研
演出:蜷川幸雄
演出補:井上尊晶
出演: さいたまネクスト・シアター
ゲスト:原康義、横田英司、飯田邦博・さいたまゴールド・シアター
大正の新劇創世記の時代が舞台となった宮本研の戯曲がフレッシュに現代に甦った。100年の時の隔たりをブリッジする役割は、演出家・蜷川幸雄が担っている。蛍光灯が仕込まれた約20基の水槽に入った老人たちを、現代の若者がゆっくりと押して出てくるというのがオープニングのシーンだ。この戯曲に登場するかつての若者を老人に見立て、これからその物語を再生するさいたまネクスト・シアターの若い役者たちが、その者たちを呼び起こすかのように劇場に運び入れ、そして皆はそれぞれ舞台袖へと消えていくという趣向だ。今昔の時を、この場にギュっと凝縮するという演出コンセプトが明確に伝わるスタートダッシュになった。観客は、まずアタマで、この時間軸の捻転を理解する。
美しく、そして、明確な意図が示されている見事な幕開きなのだが、何故か既視感を彷彿とさせられることにもなっていく。この水槽、「零れる果実」以来、度々、蜷川演出作品に登場しており、また、音楽に関しても「キッチン」以来これも使用頻度の高いシガーロスのメロディーが劇中の其処個々に流れるとなると、両パーツは大きなアクセントとして使われているが故に、かつて観た作品がアタマの何処かで思い出されてもくることにもなり、新鮮な驚きが薄まってしまうのは否めない。まっさらな気持ちでいつも上演作品には接しているが、切り札が同じであれば意識はそこに引っ掛かりを覚えてしまうのだ。この作品の演出意図としては、正しいのかもしれない。しかし、蜷川作品が初見の人でなければ、そう感じる人もいるということを言い添えておきたい。
本作を観ていて感じたのが、私には思想がない、ということであった。登場人物たちは、演劇を通じて、世界を見て、また、社会に対する反発も醸成させていく。そこには、さまざまな思想や活動があり、投獄され死刑に処せられた者もいる。そういった状況と現在とを照らし合わせてみると、それぞれの時代に生きる人々の意識が大きく乖離していることが明らかになっていくのだ。演じる役者たちが真面目で従順な若者であるが故に、その意識の断層は一層クッキリとした様相を呈していく。
自分に思想がないことが明白になってしまったので偉そうなことも言えないが、反発心のない若者が、反骨する志を演じようとしている姿を見て、そう気付かせてくれたのだと思う。演出の力技で作品のフレームワークはきっちりと作られているのだが、反体制意識が社会を覆っているという、そのリアルさを現代の若者の身体に通していくことは、非常に困難なことなのであるのだなと感じ入る。
しかし、演出の手捌きは、しなやかに若者の資質を活かす方法を採っていくことになる。社会性をことさらフューチャーさせることなく、登場人物それぞれが抱えているピュアな感情を表現の機軸としていくのだ。登場人物の核心に眠った心の内を紐解き、台詞に意識を集中させていくことで、その人物の本心を炙り出していく。会話や対話が交わされる一見静かなシーンが、ズシリと胸に迫る。
野枝を巡る新旧夫婦であるクロポトキンと幽然坊たちの会話から立ち上る無常感、成功者である島村抱月と対峙する学生との対話は、体制側とそれを批判する若者像の姿を普遍的な関係性の在り様として捉えて印象に残る。後半、こうした、会話のシーンが続いていくと、表面的な時代性はだんだんと剥ぎ取られ、人間の生き様自体が大きくクローズアップされて見えてくるようになる。
ラスト、オープニングと同様、水槽が登場し、大正という時代を生きた若者たちはその水槽の中に身を投じていく。さて、皆はこれから何処に向かうというのか。そのまま現代へと運ばれてくるのか、いつか孵化することを目指し揺籃され続けるのか。観客に何か問題を突き付けるというよりは、登場人物たちのその後の行方についつい思いを馳せるような共感性を残しつつ、未来を切り拓いていく人間の大いなる意思の大切さをも感じさせ幕を閉じる。今、このカンパニーにある資質を最大限に活かし切ることができた、珠玉の作品に仕上がったと思う。
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