作・演出:岩井秀人
出演:ユースケ・サンタマリア、荒川良々、滝藤賢一、内田滋、ノゾエ征爾、古澤祐介、浅野千鶴、小河原康二、田村健太郎、師岡広明、大鷹明良、研ナオコ
開演時間になると、ざっくりとした喪服を着たユースケ・サンタマリアが現れ、ナチュラルなトーンで観客に対して語り掛けていく。開場前の場内アナウンス的な役割も兼ねているのだが、ユースケ・サンタマリアのお披露目も兼ねたこの冒頭のやり取りで、演劇を観る、見られるという垣根が飄々と取り払われることになる。観客は緩やかに、ステージ上の世界と一体感を得て、そこに集う者皆が繋がっていく感じがする。
すると、四方に伸びた花道から喪服を着た登場人物が現れ、神妙に立ち尽くし物語がスタートするという、その鮮やかな切り返しが見事である。設定としては、どうやら、そこに集った家族のお祖母さんが亡くなった様だということが分かるのだが、その家族の中に隠蔽されている、それぞれの心の奥底に蔓延る暗部がだんだんと透けて見えてくる。
面白かった。物語は、父親の家庭内暴力が家族それぞれにもたらしたトラウマが胸の内でどのように膨らんでいき、決して取り払われることのないしこりとしてどのように成長していったのかがディスクロージャーされるという家庭劇の様相を取っていくのだが、エピソードの断片をかき集めていくような手法で戯曲が構成されているため、真実は如何にという謎を探求していく推理ものとしての面白さに満ち溢れている。
一幕で、女性の存在の在り方を根源的な次元にまで掘り下げた後は、現代のロンドンに場を移し、今を生きるキャリアウーマンたちをピックアップし、現代を照射させていく。そして、これからの時代に、女性が立ち向かうべき道や問題に鋭く斬り込んでいく。
外から人が入ってきたことで展開し始めたシーンが、後にその家に既に居た者たちがどんな会話をしていたのかが明らかになるとか、何故、そんなものを手に持っているのかなと、特に説明もされないままであった理由が説明されるエピソードが付け加えられていくなど、時空間が跳梁跋扈しながら繋ぎ合わされていく驚きに、知的興奮を感じていく。と同時に、上澄みが剥ぎ取られ真実が浮き彫りになっていくことで、家族の痛みに胸が掻き毟られるという現象も多発する。
深刻な家族劇ではあるのだが、それを救っているのが女装をしたお母さん役のユースケ・サンタマリアだ。初演時からこのコンセプトは変わらないようだが、お母さんが男優によって演じられることによって可笑し味が生まれ、且つ、物語が寓意性を持ち得ることになっていく。どんな家族の間にでもある問題として、かつて起こった出来事などを普遍化させる効果を生み出していく。
さらに、研ナオコが死するお祖母さんを演じているということが、死を概念の中からリアルなものへと、グッと近付けるブリッジの役割を果たしていく。ここでもまた、死は誰にでも起こり得る存在としての普遍性を獲得していく。また、荒川良々のキャラクターが深刻さを和らげる存在として大きなアクセントとなっている。それとは相反する、諸悪の根源である父親を演じる大鷹明良が、実に説得力を持って豪腕な父親像を見事に体現する。中軸が強烈な個性で彩られているため、リアルな演技アプローチをすればする程、皆が個性ある存在として同時に浮き彫りにされていく。
作・演出の岩井秀人は、緻密に造り上げられた箱庭を何層にも重ね合わせたかのような重層的で繊細な戯曲の世界観を創り上げ、独特な個性を放っている。見ているのだが見ていない、聞いているのだが聞いていない、のかもしれないということ自体を、実はあまり気にしていないという曖昧な人の意識というものをピンセットで摘んでいくかの如く取り出していく。そして、知っていることと知らないことを並列に置いていくことで、観客に真実を告げるという戯曲構造のブレンド具合が絶妙だ。
演出的アプローチに関しても、死に行くお祖母さんに自らベッドを整え白布を顔に載せる行為をさせたり、クルクルと変わるシーンを小道具などを上手く活用し瞬時にワープさせていくなど、俯瞰した視点の手綱捌きが、ある種の神性さを与えていると思う。
その視点はラスト近く、納棺するシーンにも如実に現れている。一度、このシーンは物語半ばで登場しているのだが、その時はスムーズにお祖母さんが棺桶に入らない状態であったのだが、全てが明らかになった後、もう一度繰り返されるその納棺時には、状況は全く同じなのだが、少しだけ作業がスムーズになっているのだ。真実を知り得た後、多少でもしこりが消えたことにより、現実は修正され上手く機能し始めたということなのであろうか? その光景を、箱庭の上から見つめる岩井秀人の視線は、柔らかく温かい。
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