PARCO劇場 18時開演
作・演出:三谷幸喜
作曲・編曲:荻野清子
出演:竹内結子、草刈正雄、イモトアヤコ、長野里美、長谷川朝晴、木津誠之、小林勝也
1995年初演、1997年再演の舞台の、再々演となる本作において、三谷幸喜は初の演出を手掛けることになった。前2作の演出は、山田和也。ソフィスティケイテッドされたコメディやミュージカルを得意とする三谷の盟友だ。初演から19年。以降、数々の作品で研鑽と積んだ三谷幸喜が、笑いの波状攻撃で観客を唸らせた作品を引っ提げPARCO劇場で再々演に臨むことになる。
当たり前なのかもしれないが、自らが手掛けた戯曲を、実に丁寧に検証し、作品の微細に至るまで目が配られた繊細なコメディに仕上がったと思う。勢いのある瑞々しさに溢れた戯曲を、その勢いに任せきることなく、そこで描かれている感情を活き活きと立ち上らせていく三谷幸喜の手腕に目を見張る。
上演時間は2時間弱であるが、その上演中、観客は、もう笑いっ放しな状態である。なかなか、ないと思いますよ、ここまで笑いで舞台と観客席が一体化する舞台は。次から次へと、クルクルと展開するシチュエーションの変化の連続に、心地良いサプライズをその都度叩き突けられ、まさに波状攻撃を喰らっているかのような状態に晒されていく。
キャストの相違により、微妙に笑いの質が変化しているところが興味深い。同戯曲は、初演時、多分、宛て書きであったのではないのかと思われるが、それ故、この役者でこの演技が見たいという観客の欲求に、ドンピシャに応えていた様に思う。しかし、再々演を迎えた本作に於いては、キャスティングに一ひねりが加えられ、着地点が容易に見えない布陣の一挙一動から目が離せない。
キラキラと輝くオーラ満載の竹内結子が、作品の中心にスクっと立ち、舞台をグイグイと牽引していく。実力ある旬な女優の初舞台は、しっかりとした存在感と新鮮な初々しさで観客の目を釘付けにしていく。物語がすれ違っていく、その全ての要因が、彼女に集約されているのだが、その展開を全て請け負っている器の大きさが、役者としてのレンジの広さを刻印し見事である。
竹内結子演じる妙齢のOLの、親の年齢を超えるパートナーが、幾つかの偶然が重なり実家へと訪ずれてしまうところから、物語はもつれ始めていく。そして、都合の悪いことを都合の良い様に言いくるめていくことで、嘘の辻褄合わせをしていくという、その差異を埋めるプロセスが笑いを呼んでいく。緻密に組み立てられた構成に、今さらながら舌を巻く。
父を演じる草刈正雄が、氏にとっては、きっとかつてなかったであろうコメディリリーフを受け持ち、甘いマスクとは裏腹な江戸っ子な親父を嬉々として演じ笑いを誘っていく。親父は、もはや見た目ではないのだな。その存在感自体が親父なのだというリアルに、ついつい共鳴してしまう。
対照的なのは、娘のパートナーを演じる小林勝也。強面な様相で、家族に気に入られるために奔走する姿が、何とも愛らしいのだ。また、愛らしさと併走して、年齢を経ると子どもに回帰するという側面が浮き彫りになるなど、老齢の男の多面性が可笑し味を持って造形されていく。
イモトアヤコは妹という立場で、その場で起こる全てを把握しながらもディスクロージャー出来ずに右往左往する姿が面白い。少し天然なお母さんを長野里美が軽やかに演じ、作品に軽妙さを添えていく。ジョビジョバの長谷川朝晴が、小林勝也の息子役を受け持ち、真面目なのだが決して好青年には見えない挙動不審な男を、思い切りデフォルメして造形し独特の存在感を示していく。木津誠之は父が経営する理容室の従業員で、姉に恋しているという役どころに生真面目さをフューチャーさせ好感が持てる。
笑いは“差異”によって生じるのだと思うが、このすれ違いの喜劇は、まさに、“差異”が途切れることなく連続して繋がる驚異的な光景を目の当たりの出来る、傑出した喜劇だと思う。繰り返し唱えてしまうが、こんなにも笑い転げることができる舞台は滅多にない。
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