シアターコクーン 19時開演
原作:浦沢直樹×手塚治虫、長崎尚志
プロデュース、監修:手塚真
協力:手塚プロダクション
演出・振付:シディ・ラルビ・シェルカウイ
上演台本:谷賢一
映像・装置:上田大樹
照明:ウィリー・セッサ
音楽:吉井盛悟、オルガ・ヴォイチェホヴスカ
音響:井上正弘
キャラクタービジュアル・コスチュームデザイン・ヘアメイクデザイン:柘植伊佐夫
出演:森山未来、永作博美、柄本明、吉見一豊、松重豊、寺脇康文、他
浦沢直樹が手塚治虫の「鉄腕アトム 地上最大のロボット」を、「PLUTO」という作品として創り上げたが、原典を換骨奪取し見事なオリジナリティを獲得した秀逸な逸品であると思う。その作品を、気鋭の振付家・シディ・ラルビ・シェルカウイが演出を担う本作は、様々な才能が交錯するモダン・アートの様な手触りに満ち満ちており、実に刺激的だ。
物語のベースとなる台本を谷賢一が手掛け、「PLUTO」に登場するロボットたちの様々なエピソードをスッと一まとめにし、アトムとウランのパートに集約させていく。大局と日常とを交錯させ、時空を瞬時に変転する構成を自在に操りながら、原作のスピリッツを見事に掬い取り、違和感なくまとめ上げ目を見張る。
道しるべとなる台本を礎として、そこからシェルカウイが溢れんばかりの才気を放出していくことになる。装置に映像作家・上田正樹を登用したことで、舞台表現の自由度が増した様な気がする。しっかりとした装置を打ち建てるという従来の演劇の発想とはその表現方法を異にし、7つの白い台形パネルを組み合わせていきながら、時にはそこに映像を投影するなどして、瞬時に様々なシーンを繰り出していくのだ。
台形パネルを操っていくのは、鍛錬された技術を有するダンサーたちである。もはや、ダンサーたちも、この物語を構成するシチュエーションの中にしっかりと組み込まれていく。シェルカウイは、生身の人間に、シーンの背景をクリエイトすることを寄与させていくのだ。ロボット1人に3人のダンサーが操り手のように寄り添いながら、ロボットの一挙手一投足をコントロールしているかのように見せていく。文楽にインスパイアされたのであろうか。物語の真髄と、シェルカウイの意図とが、幸福にも収斂していく。
ロボットたちは、原作にもある様に、人間と見分けがつかない程、自然な存在感であることをリアルに踏襲しつつ、文楽の手法で心身の齟齬を抉り出すそのパフォーマンスは、作品を重層的に捉え白眉である。
原作におけるイラストの幾つかが物語の合間に投影されていくが、その刺し嵌め込まれ方は、まるで、アート・インスタレーションの如く、美しく驚きに満ちたインパクトを与えてくれる。
森山未来は、シェルカウイとは「テヅカ TeZukA」以来のコラボレーションとなるが、いい意味で自らを素材に徹し、殉教しているかのようなストイックさでもって作品と向き合う姿勢がアトムの真摯な“思い”ともシンクロする様だ。そして、観客の願いにも似た“思い”ともつながっていく、正の連鎖、を浮かび上がらせてくれる。
永作博美がウランに見えてしまうという、その在り方の造形に、まずは脱帽だ。そして、その身体の奥底に滲ませる、ロボットが本来持ち得ることのない“憂い”に、観る者の心が次第にほだされていく。
寺脇康文が物語を探求し牽引する役どころを担っていくが、ロボットが抱く“葛藤”を感情的に偏なることなく表現し、その真意がストレートに伝わることで、作品にある種の“感情”を吹き込むことになる。柄本明が醸し出す安定感ある老練さが、台詞の一つ一つに大きな説得力を付与している気がする。氏の存在感が、作品に温かな血肉を通わせていく。
吉見一豊が醸し出す人間性の生々しさの塩梅が、ロボットのそれとは微妙に一線を画し、アトムとウランを包み込むオーラの様な磁力を発していく。松重豊はヒールの役回りを担いながらも、ステロタイプな悪の造形に陥ることなく、まるで心が逡巡するかのようにも見える切なささえ滲ませ哀感がある。
イラク戦争を嫌が上でも想起させるのは原作通りだが、そんな混沌とした世界=現代のグレイゾーンを、ロボットという媒介を通しクリアに投影させ感嘆させられる。果てることのない輪舞の如く、人間が、多分、永遠に解決することが叶わない“闘い”の苦悩を、アーティスティックに描ききった衝撃作に仕上がった。
最近のコメント