神奈川芸術劇場 大スタジオ 19時30分開演
作・演出:藤田貴大
出演:石井亮介、尾野島慎太朗、川崎ゆり子、中島広隆、波佐谷聡、吉田聡子/ 藤田貴大 ゲスト/ Kan Sano
開場すると、アクティング・エリアが、神奈川芸術劇場 大スタジオのセンターに設えられており、そのステージを両脇から挟むように観客席が造られている場へと入っていくことになる。舞台上では、料理をする男性と、そのサポートと作られた料理を何処ぞにサーブしに舞台袖へと消えていく女性が、粛々と仕事をこなしている。カフェ・レストランの厨房の様な感じだ。良く見ると、男性は、藤田貴大ではないか。左目を眼帯のようなもので覆っている。
ひたすらに、リアルに、料理を仕上げていく光景が、目の前で繰り広げられていく。開演時間になると、調理道具は全て取り払われる。ここで行われていたことは、この後に展開していく物語に、直接、連動することはない。藤田貴大は、物語が展開する中、鍋を供する際に登場する他、舞台の一篇をライブで撮った映像を、劇場内に据えられたスクリーンに投射する役割を担ったりもする。
シーンを客観的に見届ける役回りで、作・演出家が登場するには、そこに何かしらの意味があるに相違ない。藤田貴大がかつて左目の視力が極端に落ちていた時期があったのだとチラシに記されていた、その自らの経験を、黒子の様な役割でナビゲートしているのであろうか。藤田貴大の舞台上における、その存在自体が、本作のテーマそのものでもある気がする。
甘酸っぱい追憶の日々を起点に、ヒリヒリとした痛みを伴う思い出を逡巡しながら時空を跋扈し、また、リフレインを繰り返すのはマームとジプシーの世界であるが、本作ではパラレルに展開する多様さはグッと抑えられ、話の展開はいたってシンプルだ。
ある少年少女の日常の日々が綴られていく。そこに、時折、藤田貴大が現れるのだが、決して、物語の登場人物としてではない。そのシチュエーションの中に、まるで自らの姿を刻印しているかのような気さえしてくる。
印象的なのは音楽だ。エルトン・ジョンの「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」のメロウな楽曲が時折挟み込まれると、物語を冷静に捉える視点が、一気に感傷的な色合いを帯びていくのが面白い。色々な作品に流れる名曲であるが、ふと、2001年の滝沢秀明主演のドラマ「太陽は沈まない」を思い起こしたのは、私だけであろうか。
日替わりでゲストが替わるのだが、この回は、ピアニストのKan Sanoであった。学校の音楽の先生という役どころで、物語にしっとりと溶け込みながらも、役者とは異なる別種のアーティストとしてのオーラが作品に異物感を与え、物語が創作者の意図する世界観に収焉させない広がりを示すことになった。
人間感情の表と裏。生と死。そして、現実と未だ掴みどころのない未来などが綯い交ぜになった、中学の時期の少年少女たちの日常の一篇が切り取られ、タペストリーの如くコラージュされていく。そして、どの場にも通低音の様に流れている感情が“喪失感であった。
左目の視力を落としていた状態でかつて見ていた、藤田貴大が捉えるモノやコトを創作するその地点が、もう、既に、あらかじめ失われているエア・ポケットとして存在し、そこに、観客が解決できないまま残しているであろう“受難”の様な感情を入り込ませることにより、グッと親和性を高める効果が発せられていく。実存しているのだが、喪失もしているという、このアンビバレンツな状態は、“存在の耐えられない軽さ”とでも評するべきであろうか。
藤田貴大の私的な思い出をモチーフとして貫いているかのように見せながらも、観る者の思いが交差する余白を敢えて残すという境地が、心地良く感じる逸品であった。藤田貴大の、今後の動向からも目が離せない。
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