彩の国さいたま芸術劇場 インサイド・シアター
13時30分開演
演出・芸術監督:蜷川幸雄 作:W・シェイクスピア 翻訳:松岡和子
出演:内田健司、長内映里香、葛西弘、竪山隼太、松田慎也、百元夏繪、竹田和哲、重本惠津子、堀源起、松崎浩太郎、鈴木真之介、浦野真介、手打隆盛、白川大、小川喬也、髙田誠治郎、中野富吉、竹居正武、宇畑稔、鈴木彰紀、中西晶、銀ゲンタ、北澤雅章、たくしまけい、高橋英希、ちの弘子、都村敏子、寺村耀子、德納敬子、中村絹江、林田惠子、益田ひろ子、宮田道代、渡邉杏奴、遠山陽一、小川喬也、森下竜一、平山遼、髙橋清、小久保寿人、浅場万矢、周本絵梨香、茂手木桜子、浅野望、市野将理、坂辺一海、砂原健佑、續木淳平、堀杏子、阿部輝、井上夕貴、呉美和、郷園高宏、佐藤蛍、田中りな、安川まり、吉村照道、石井菖子、石川佳代、小渕光世、神尾冨美子、上村正子、佐藤禮子、田内一子、滝澤多江、谷川美枝、田村律子
さいたま芸術劇場大ホールのステージ上に造られた特設舞台の後方から、車椅子に乗ったゴールド・シアターの御仁と、その車椅子を押すネクスト・シアターの面々が客席に向かって迫ってくる。コロセウム状に設えられた観客席の下のアクティング・エリアに70人近い人々が集合する。車椅子に座っていたゴールド・シアターの方々は立ち上がり、そこに居る皆がそれぞれ素に近い感じで親しげに声を掛け合っていく。お互いに認め合い、連帯し、思念を分かち合う、ある種、理想的な人間たちの穏やかな光景が繰り広げられる。
と、突如、ラ・クンパルシータの調べが高らかに鳴り響くと、老若と男女とが入り混じって舞台上でタンゴを舞い踊り始める。圧巻である。この予想外の展開には、度肝を抜かれ、耳目が舞台に釘付けになる。人間とは素の状態のまま生き永らえているのではなく、何かの調べに寄り添いながら生き続ける、変容する生き物なのだと、物語の冒頭でクッキリと刻印されていく。
舞台の背景は、14世紀の英国で、リチャード二世が天下を治める時代。権力を濫用する王と翻弄される貴族たち、そして、その水面下で王座を虎視眈々と狙うボリングブルックとの抗争が機軸となって、物語は展開していく。
絶対権力者とその権勢に購えない配下の者たちという構図は、どの世においても変わらぬ普遍的な光景なのだと感じ入りつつも、王冠を抱く孤高の者が陥る、自己の思いを共有することが赦されない超絶な孤独感とがクッキリと対峙して描かれ、人間という存在がパラレルに表現されていく。
蜷川幸雄が筆致する人間を捉える視線は、人間世界を俯瞰して見つめる冷徹さを孕みつつも、この上ない優しさにも満ち満ちているため、一人一人の人物たちの微細な感情に共感を抱くこととなり、観る者は、図らずも心揺さぶられていく。世界は、人間が日々逡巡しながら生きる営みの集積で成り立っているのだと気付かされることになる。歴史として伝承されるのは、その結果。その苦渋と相反する幸福感とが綯い交ぜになった感情と対峙することで、自己の生き様を思わず反芻してしまう。
王の嗜好を男同士のタンゴで表現しデカダンな香りを漂わせ、歌舞伎の浪布が荒れ狂う感情の放出を外連味たっぷりに表現し、王が床に横になると十字架状の光が身体に被さるなど、視覚的な演出の奔流が作品に独特の美しさを付与していく。
タイトル・ロールを演じる内田健司は、変転する人生を受け入れなければならない王が唱じる膨大な台詞を、時に力強く、時に囁くように振幅の幅も豊かに表現し、観客の注目を集約させ、物語の中心にクッキリと聳立する。王座へと上り詰めるボリングブルックを樫山隼太が演じるが、野心家でクレバーな若き実業家の如く、その存在感は実に現代的だ。ボリングブルックの内側から、知力と行動力を掴み取り、活き活きと役柄を造形していく。ネクスト・シアターの若者たちの新鮮さと、ゴールド・シアターの老齢の人々の老練さが、作品にリアルな真実味を与えていく。
「リチャード二世」の中から、蜷川幸雄は、どの時代でも変わらぬ、権力の下で生きる人間たちの購えぬ運命を享受するしかない諦観や、瑞々しいスピリッツを掴み出し、叩き付けてくる。時を越えた普遍性と、現実感を伴う共感性とが共存した、秀逸な作品に仕上がったと思う。
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