オーチャードホール 18時30分開演
作:寺山修司
演出:蜷川幸雄
音楽:松任谷正隆
出演:亀梨和也、高畑充希、マルシア、大石継太、渡辺真起子、花菜、鳥山昌克、山谷初男、戸川昌子、六平直政 ほか
寺山修司生誕80年、蜷川幸雄80歳のアニバーサリー公演である。寺山修司が1963年に書いた本作は、なんと音楽劇。本公演では、音楽に松任谷正隆が迎えられた。しかも舞台は、蜷川幸雄初登板のオーチャードホール。主演の亀梨和也の高畑充希も、蜷川作品初出演。初手合わせが多い豪華な布陣に、観る前から期待感が高まっていく。
開演すると、まだ戦後の雰囲気を湛える茫漠とした荒野の様な地平が現れ、そこに、まるで、ボッシュやブリューゲルの画から抜け出てきたかのような異形な群集やシュールな光景が立ち現れ、人々は、歌い、踊る。その時代を生きる民衆たちが抱く渇望感が舞台上から溢れ出し、充足を希求するパワーが衝撃波の如く観客を襲ってくる。
腹の底から湧き出るような、人々のこういう満たされない気持ちをダイナミックに描ける演出家は、蜷川幸雄以降、出てこないのではないかと、オープニングのシーンを見ながら思いを馳せることになる。戦後の日本を覆っていた閉塞感とその隙間から覗く未来という構図が、奇しくも、現代の日本の社会状況とシンクロしている気がしたのは私だけであろうか。隔たる時空をスパークさせ、リアリティを打ち出せる説得力は、それぞれの時代を生き抜いてきた経験に裏打ちされたものに他ならない。
混沌とした猥雑さを湛えた高度成長期の日本の中に咲いた一輪の花の如く、亀梨和也と高畑充希が演じる賢治と弓子の二人にほのかな恋が芽生えるが、寺山修司の筆致は若者の恋を純粋に昇華させることはない。発展を遂げていく世の中の裏側にひっそりと隠された惨事が若い二人を捲き込み、その負の側面に購うことが出来ずに、大きな潮流に飲み込まれていく哀しみが叩き突けられてくる。
黙って従うか、声を大にしてアジテートし行動していくのかは、いつの世でも問われるであろう普遍的な問題であると思う。奇しくも、2015年夏の今、日本国民に突き付けられている事象でもあり、演劇が現実と地続きなメディアであることを実感することになる。
松任谷正隆が創り出す音楽は、ポップなメロディラインが耳に心地良い。予想を裏切らない節回しが、既にスタンダードナンバーのような馴染み良さを感じさせてくれる。亀梨和也は心の中で煮えたぎる沸々とした若者特有の屈折感をしかと曲に滲ませ、繊細に謳い上げていく。高畑充希の伸びやかな歌声は、作品に明るい希望を付与していく。大劇場の隅々にまで行き渡るミュージカルで鍛えられた声量が、観客を席巻していく。
まさか、戸川昌子に出くわすとは思ってもみなかった。浮浪者の長老おりんを演じるのだが、切々と語るように絶唱する楽曲「日招き」は、もう絶品だ。このシーンが目撃出来たことの幸福に感じ入る至福の瞬間だ。マルシアが群集の中の一人サリーを演じ、ソロバラード「子守唄」を謳い上げる。その哀感ある歌声に惹き付けられ、女の真情に思わず涙してしまう。
オーディションで選ばれたというマリーを演じる花菜は、ストレートに心に響く歌声で観客を魅了する。六平直政が亀梨和也の父親を演じ、安定感ある洒脱な存在感が作品に福与かなアクセントを添えていく。山谷初男が情けない優柔不断な男をコミカルな味付けで演じ、渡辺真起子が放つ女の色香や、鳥山昌克のカリカチュアライズされた大物代議士振りも楽しく、様々な個性がぶつかり合う異種格闘技戦が、たっぷりと堪能出来る。
物語は悲劇を迎えることになるのだが、その哀しみを浄化させるような美しい光景に舞台は彩られる。本作は、社会の裏面で生きてきた者たちに向けた希望を一身に受け、それと引き換えに殉死した者たちに贈られた、パワー溢れる鎮魂歌だ。民衆たちの物語は、神話へと昇華されたのだ。作品が書かれてから52年の時を経て、日本は今、果たして幸福になっているのであろうかと自問自答する機会を得たのだと思う。
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