進化し続ける藤田貴大の転回点とも言えるエポックメイキングな秀作。

「クラゲノココロ」「モモノパノラマ」「ヒダリメノヒダ」

2016年9月19日(月・祝) 雨
彩の国さいたま芸術劇場
NINAGAWA STUDIO(大稽古場) 14時開演

作・演出:藤田貴大
出演:石井亮介、尾野島慎太朗、川崎ゆり子、中島広隆、成田亜佑美、波佐谷聡、吉田聡子 / 山本達久(ドラマー)
場:8月の公演と同様の会場構成になります。客入れ時には、ステージに置かれた水槽でたゆたうくらげの映像が、アクティング・エリア後方に投影されています。上手手前には、地球儀が据えられているのも気になります。
人:同団体の公演は、いつも20歳代のお若い観客が多いですが、年配の方々の比率も多くなってきていますね。皆さん、お洒落な出で立ちの方が多いですね。

2008年初演、2012年再演の「ドコカ遠く、ソレヨリ向コウ、或いは、泡ニナル、風景」は、オーデションで選ばれた老若男女25人が出演するワークショップ公演と冠された作品だ。出演者たちの出自は分からないが、演劇に親しんでいる方とそうでない方とが混在している気がする。しかし、藤田貴大の手に掛かると、これまでの演劇経験は一旦リセットされ、出演者全員が氏の世界観の中に生きる住人になってしまうことに驚愕する。

本作は、JR福知山線の脱線事故をモチーフに創作され、今や氏の代名詞ともいえる「記憶」をテーマにした初めての作品だという。様々な人々の記憶の残像が、残り香のように立ち上り、交錯し、融合していく。演技のスキルに決して長けているとはいえないがナチュラルさが強みである俳優陣が、実際の出来事の背景にあったであろうリアルな日常を再現し、その存在感を作品にしかと刻印する。

何度もシーンがリフレインされるのは、藤田貴大の専売特許でもあるが、本作でもその手法は遺憾なく発揮されている。言動が繰り返されることで生じる、後戻り出来ない切なさが胸に迫ってくる。

エピソードの一つに、放浪癖のある認知症のお婆さんと対話するシーンがある。その人となりは全く異なるのだが、藤田貴大がまるで蜷川幸雄に、積年の想いを問うているかの様に感じてしまったのは私だけであろうか。老いた者に注がれる温かな視線が、何ともやるせないが、この上ない優しさに満ち溢れた感情は天上にも届くパワーを放ち、胸を打つ。

「クラゲノココロ」「モモノパノラマ」「ヒダリメノヒダ」は、「ドコカ遠く、ソレヨリ向コウ、或いは、泡ニナル、風景」とは趣きを変え、マームとジプシーの面々が、がっちりとスクラムを組んだ鉄壁の布陣で臨んでいく。

物語の中心に在るのは、決してカタチとなって現れることのない「喪失感」。何かを失うということが、心の奥底に沈殿し堆く積もっていくと、その重みで自らが囚われ、そこから離れることが出来なくなってしまう悲哀が、作品の其処此処から染み出てくる。

実際にメスで物体を切り裂いてみても、そこには切り刻まれた痕跡が散らばるだけで、事の心理に辿り着くことは出来ないのだという、諦め。その、諦観があらかじめ分かってしまっているという哀しみが、メビウスの輪の様に立ち返ってくる怖れ。その事実を映像として投影するという重層的な仕掛け投じることが逆に真実を曖昧にさせ、何をも、しかと捉えることが出来ないのだという世の倣いに乗じることが、ある種の幸福を感じられる喜び。

様々な逡巡する想いを表現するにあたり、藤田貴大は自らの真骨頂であるリフレインという方法を本作では手放し、事実を紡ぎ合わせ物語を編集することで「喪失感」を浮かび上がらせる効果を放っていく。前作との手触りは同感触ではあるのだが、全く異なるアプローチで生きとし生ける者の心の葛藤に迫り、新たな地平を斬り拓く。

Suzukitakayukiの繊細な仕立ての衣装がいい。作品のクリエイティビティを一級品へとグッと押し上げることに、大いに貢献している。

進化し続ける藤田貴大の、ある種、転回点とも言えるエポックメイキングな秀作であると思う。次作は、どんなカードを切ってくるのか、今から楽しみである。

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