新国立劇場 小劇場 14時開演
作:ジャン・ポール・サルトル
演出・上演台本:小川絵梨子
出演:大竹しのぶ、多部未華子、
段田安則、本多遼
ジャン・ポール・サルトルの同戯曲は、かつて読んだことはあったのだが、演劇公演として観劇するのは初めてである。小川絵梨子の戯曲選定はいつもなかなか興味深く、不条理劇を2018年に上演するその意図が知りたいということなどの要因もあり、劇場に足を運ぶことにした。
新国立劇場の小劇場内に設えられた、松井るみが手掛ける美術が美しい。芝居に必要な小道具が配され、戯曲に準じる閉塞感あるリアルな空間を造形しながらも、天から下がる深紅のビロードのカーテンの間仕切りがいい抜け感を醸成する、アンビバレンツな空間構成が面白い。小川絵梨子演出は、目にも楽しいステージを造形してくれる貴重な存在だ。
本戯曲は1944年、ナチスドイツ占領下のフランスで生まれたという。ジャン・ポール・サルトルが執筆当時に感じていたであろう思いが、戯曲の中に投入されている。舞台設定はどうやら“地獄”のようなのだ。
本多遼が演じるボーイが、舞台に設えられた部屋を掃除し、調度品の位置を変えたり整えたりする光景からステージは始まっていく。その部屋にボーイに案内され、一人の男と二人の女が、それぞれに、一人ずつ、入室してくる。皆、何故、自分が此処に来ることになったのかが分からない状態だと見受けられる。
段田安則演じる男ガルサンは新聞記者で反戦主義者。徴兵を拒否した過去があることが分かってくる。大竹しのぶ演じるイネスは郵便局員で、諍い事の果てに恋人にガス栓を開けられたのだという。若い女エステルは多部未華子が担い、年配の夫がいるが若い恋人も持つ暮らしをしていたらしい。皆、それぞれの理由を持ちながら、何かしらの理由によって、死した人々なのだ。
死んだという自覚が薄い人々が、徐々に現実を受け入れ死した理由を遡り、「自分は何故ここにいるのか」といった、自分の存在についてを探っていくことになる。実存主義的思想が横溢する展開を示していく。ジャン・ポール・サルトルの真骨頂だ。
死した人々が浮き上がらせる、「自分は何故ここにいるのか」という根源的な問い。彼岸から照射されるメッセージは、生への実感がある種希薄だともいえる現代に於いて、ズシリと響くものがある。「生きる」ことへの希求が、作品から滲み出てくる。戯曲執筆当時のジャン・ポール・サルトルの想いを現代へとブリッジさせ、現代の観客に提示する小川絵梨子のパースペクティブな視点には目を惹かれるものがある。
主役を張れる実力派だからこそ、変に突出し過ぎすることなく、バランスの取れた演技のアンサンブルが保たれているのが見事である。大竹しのぶ、多部未華子、段田安則の三人三様の個性がぶつかり合い、実存主義の観念に引っ張られ過ぎることなく、ナマの演技の醍醐味をたっぷりと堪能させてくれる。ワクワクとさせられる演劇作品として、見事に成立しているのだ。
「生きる」こととは何なのかを突き付け、ジャン・ポール・サルトルが同戯曲に込めた想いが胸に迫る、演劇の達人たちの底力を見せつけられる秀作に仕上がったと思う。ジャン・ポール・サルトルは、難しい訳ではないのだと感じ入ることになる。
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