国立劇場・大劇場 午後2時開演
演出・振り付け:ピナ・バウシュ
出演: ヴッパタール舞踊団
ピナ・バウシュのダンスを、今回、初めて生で見ることが出来た。しなやかで強靭なその存在感に圧倒されてしまった。ひとつひとつの動きが、ヒリヒリとした心の叫びを代弁して余りあり、溢れ出る感情がとめどなく流れ出して、観客の心を鷲づかみしていく。手や肩や頭や足の細胞それ自体がそれぞれ有機的に作用し合っているため、技術を駆使して踊る他のダンサーたちとは、在り方そのものが違うようなのだ。
今回の演目は、1970年代というピナがまだ若い時期に作られたということもあるのか、ストレートにナマの感情が放出されている。また、その感情は直情的で、ことごとく相手と対峙していく。近年、世界各国で共同制作して作られた作品にある寛容さや、ユーモラスな雰囲気を醸し出す台詞などはそこには無く、相手を理解し受容するに至るまでの、辛い棘の道のりを描いているとも言える。ヨーロッパ知識人の、底知れぬ深い孤独感と悲しみが沈殿している。
「カフェ・ミラー」に登場する人々は、誰もが何かに取り憑かれているのか、盲目的に自分の世界に閉じこもっているように見える。ピナ演じる少女は、まさに盲目、のようである。また、幾度も幾度も同じ動きを繰り返すのは、「過去と現在と未来のこどもたちのために」にもあるように、まるで子供の遊戯である。幼時体験のトラウマから抜け出せないとは心理学的なアプローチだが、現在の自分を形成している要因を探るため心の奥底を切り裂いてみれば、昔の自分に辿り着くというのは至極当然な帰着点とも言える。
しかし、何かに囚われ、抜け出せない人々を見るのは、なかなか辛いことである。日本列島改造論などをぶち上げている時期に、ドイツではこんなものが作られていようとは。一旦ドーンと底辺にまで落ち込み、その地点から這い上がってくるまでの凄まじく痛々しい悲痛な道程に、何としても生きていくのだという強い意志と使命を感じていく。そして、新たな希望を抱いて、心のリスタートを、いつでも切っていくのだ。
「春の祭典」は、舞台上に湿った土が敷かれた上で展開される。土を蹴り上げ、倒れ、身体を汚し、跳躍する。伝承民話にあるように、春を感謝するため、神に差し出されるサクリファイス=犠牲者を選ばなければならないというのが大まかな流れ。男女各20人近いダンサーの群舞は圧巻である。ここでも対立が起こる。男性対女性。犠牲を強いる男の横暴さは、神話の時代から現代にまでワープして、権力の愚かさを露わにしてくる。1枚の赤い布を持った者が犠牲者となるため、女たちは、赤い布を次々と別の女へと手渡していく。そしてひとりの女が選ばれる。その恐怖と疎外感。その感情を、ソロのダンスで一気に表現していく。
人間は個々それぞれが別個の生き物。対立し、そして、和解し、理解しようとするがまだ分からず、また不毛な争いを起こしながらも、自分の中に、相手のことを沁み込ませていく。そんな、繰り返し。人が生きていくということの、在り方そのものを、この2作は提示していた。そして、それは決して受身であってはならないのだ。呪縛から解き放たれることで、真の自由を得ることが出来るのだから。
相変わらずカーテンコールは温かな拍手で満たされる。ピナの凛とした佇まいは、舞台をはけた後でも、舞台上で呼吸し続けているような錯覚を覚えてしまった。
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