赤坂ACTシアター 午後6時30分開演
作:W・シェイクスピア
演出:いのうえひでのり
出演:古田新太、安田成美、榎木孝明、大森博史、三田和代、銀粉蝶、久世星佳、天宮良、山本亨、増沢望、西川忠志、川久保拓司、森本亮治、久保酎吉、若松武史
いのうえひでのりが取り組む初シェイクスピア、東京公演の初日である。まさに、この演出家の「視点=解釈」が大きく反映された仕上がりとなった一品である。この「リチャード三世」は、登場人物の関係性が複雑であり、物語も入り組んでいる。まずは、その関係性を紐解くために、セットの中に設えられた10数個の液晶モニターに、この物語が始まるまでの経緯が映像で映し出されていく。演出家自らが感じた、この分かり難さを解消するための方法論なのであろう。
そして、古田新太演じるリチャード三世が登場し、独白で語り始めるところから物語はスタートする。このシーンなのだが、何故か、小さなマイクを手にその言葉を録音している風な様子である。このマイクも、前述のモニターもそうなのだが、そこで行われている事実を客観的位置に投射し、ジャーナリスティックに報道するが如くその事の顛末を説明していくのだ。いのうえひでのりの中には、この物語を説明していくのだ、という大きなポイントが在るのだと思う。シェイクスピアと対峙することで生まれてきたコンセプトなのであろう。
装置はレトロフューチャー、衣装は60年代風のポップなファッションである。シェイクスピアという牙城を、ダークでありながら極彩色豊かな可視的なものへと変質させ、15世紀の物語に現代のモダンさを装う演出だ。この方向性で、残虐な物語がポップで少し軽味を帯びてきた。
前半は正直やや退屈した。台詞の語りを説明だと解釈する演出なのであろうか? なかなか役者の生理が台詞に載ってこないのだ。周りの者たちも、語る人の話しをただ聞いているだけで、ほとんどリアクションもない。全く感情が放出されてこない。ただ、物語が展開し、皆が感情を顕わにするようになる後半は、段々と目が離せなくなってくる。
古田新太の造形するリチャード三世は、小賢しい悪者である。決して大悪党には映らない。邪魔者は殺していくという単純な戦略にて王へと駆け上っていく様に、同情の念を挟む余地は全くないが、狂気の王というより、野望を抱いた市井の人間が悪事を働く風なのだ。これは、計算なのであろうか、それともスケール感を出せない演出の限界なのであろうか。また、この役には愛嬌が欠かすことが出来ないとも良く言われるが、古田新太は人を扇情する時にも、その愛嬌を手段として使うことはしない。自分の存在そのものにウィットがあるという自覚の下、悪を演じきる。その差異ある重層さが、勢いある面白さを生み出してはいる。
脇を固める女優陣がいい。三田和代は、高慢と矮小を気品を持って演じ、仕草にも憂いがあり美しい。久世星佳は現代的なエリザベスを作り上げる。キレのいい丁々発止のやりとりが作品に活力を与えていた。銀粉蝶は厭世的な魔女のような様相だが、声のトーンもあろうが、軽やかさがあり決して重くはならない。この3女優が一同に会す場面は圧巻である。アンを演じる安田成美は、澄んだ声が特徴的で、逡巡する様々な思いを純粋に演じきるが表面的だ。
王になることが目的であったリチャード三世は、特に王になってやりたいことがあるわけではなく、そんな隙を、直属の部下たちに寝首を掛かれ、闘いの後、殺されることになる。迷いなく突き進んだその生き様は、ある意味、天晴れだ。ロックの大音響が流れ、若きリッチモンド伯が勝利の雄叫びを上げる中、物語は幕を閉じていく。痛快である。作り事であるにせよ、悪もここまで徹すると気持ちいいものなのだ。可視的なるものが先行したきらいがあるが、古田新太という逸材を得て、親しみ易い現代的なピカレスク・ドラマが誕生したと思う。
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