観劇記録

緞帳代わりにゴールドのカーテンが舞台に降ろされている。さて、開演となりました。舞台端のオーケストラ・ピットから音楽が奏でられ始める。あれ、最近はあまり遭遇しない、オーバーチェアなんですね。その音に合わせてカーテンの色が照明によって変化してくこの演出がイイんですよね。だんだんと実に豊かな気持ちになっていきます。

幕が上がった時から、ジャパンメイドのミュージカルとは一線を画す作品なのだということが分かってくる。勿論、イギリスカンパニーバージョンなので、出演者も外国の方々、台詞も英語だという要因もあるのだとは思うが、ステージの空間を埋める作品の濃度の濃密さが、かなりのインパクト大なのだ。

ケリー・オハラと渡辺謙というスターが勿論中心に屹立しているのだが、その二人だけに作品が集約していくことなく、子役に至るまでどの俳優も自分が主役だとでもいうべき存在感で、それぞれの役柄を生きているのだ。いい意味で、登場人物たちがバチバチと拮抗し合っているのが、実に小気味良い。

見事なコラボレーションは俳優陣に限ったことではない。メインストリームである楽曲とその演奏は勿論のこと、美術、照明、衣装などなど、作品をカタチ造るあらゆるパートが最良のクオリティを提示することで、クリエイティビティがグルーブしているのだ。

主演俳優や演出家のヒエラルキーに引っ張られる過ぎることのないパワーバランス。各パートがぶつかり合いつつも、それぞれの力量が集積して1つの作品を実に強靭なものにしている。その強さがある種のオーラとなってステージから溢れ出て、観客を魅了する。

本作が、今、上演されることの意味に考えを巡らせてみるのだが、きっと、どの時代にでも観る者の心に刺さる作品であるからこそ、ロングランを重ねてきたのだということにも気付くことになる。文化の違う人間同士の葛藤、溶解、そして友愛。出自の異なる者同士が理解し合うということは難しく、それを超えていこうとするには、どの時代においても不変なテーマなのだということに感じ入る。

人間が持つ、逃れられないある種の暇しさに斬り込み、それをエンタテイメントとして提示するため、グッと前のめりになっていくのだ。だから、2019年の時代においても決して古びることなく、新鮮な輝きを放ちながら観客を魅了する。

極上のワインを飲んだような感じとでも言おうか、最初は名のあるワイナリーのラベルに引き寄せられ此処に参上することになるのだが、時が経過していく内に、実に様々な風味のアクセントが感じられるようになってくる。色も変化していく。それを感じられるのが実に楽しいのだ。そして、終盤に向けて、テイストは1つにまとまり、これが本領なのだとでも言える奥深いコクある最上級の美味しさへとまとめ上げられることになる。

芝居を観るというよりも体験をしたという言い方の方が適切なのかもしれない。名作の見事なリバイバルに心底酔い痴れることが出来た一級品であった。

18世紀のイタリアの喜劇作家・カルロ・ゴルドーニの上演作品を観劇するのは、2014年の「抜け目のない未亡人」以来である。カルロ・ゴルドーニ作品は、肩ひじ張らない軽妙な喜劇が何とも楽しく、演劇の面白さをたっぷり味あわせてくれるワクワク感に満ちている。本作も観る前より、楽しもうという前のめりな気持ちが先走り、期待を込めて劇場へと足を運ぶことになる。

座長が旬のムロツヨシであるのも、期待感が高まっていく大きな要因だ。堤真一や吉田羊などベテラン俳優陣を脇に従え、厚みのあるキャストの布陣が組まれているのも魅力的だ。こういった意外性にもサプライズ感があって、嬉々としてしまう。

同作の原題名は「二人の主人に仕えた召使」だというが、物語の骨子は、この題名そのものである。二人の主人に仕えて二倍の給料をせしめようと企むのが、ムロツヨシ演じる召使。二人の主人は、堤真一と吉田羊が担っていく。また、この主人も表の顔と裏の顔が混在する大分入り組んだ設定となっているため物語はこんがらがり、なりすましや取り違えなどによって巻き起こる可笑しみが、笑いとなって上手く昇華していくのが気持ちいい。

この混線した物語の上演台本と演出は福田雄一が受け持ち、結構ベタな笑いを、ある種のハートウォーミングなシチュエーションへと転化させていく匙加減が絶妙であると思う。

そんな手綱捌きの下で、堤真一と吉田羊のほかにも、池谷のぶえ、野間口徹、春海四方、高橋克実、浅野和之などの重鎮たちも、個性を全開にしつつも微笑ましさを湛えソフィスティケートされた演技で魅せていくが、賀来賢人の弾けっぷりはやはり突出している。観客も賀来賢人にその破天荒さを期待しているのだから、需要と供給のバランスが取れているということになるのであろう。もはや名人芸の一種だといっても過言ではあるまいか。

勘違いがどんどんと繰り広げられ、物語をグイグイと牽引していくが、大団円へと向かってこんがらがっていた紐が解きほぐされ、皆が段々とハッピーになっていくのが心地良い。その物語の中心に屹立し幸せオーラを振り撒くムロツヨシの存在が、本作に丸みを帯びた柔らかなタッチを付与させていることに相違ない。座長の色がクッキリと作品に刻印されていく。

難しいことなど何一つなく、ただひたすら舞台で展開されていることに一喜一憂しながら、旬の俳優陣をナマで楽しめるだなんて、まさに演劇の醍醐味だ。こういう作品に出合うと演劇に夢中になっていくのでしょうね。18世紀の喜劇が現代に軽やかに蘇る様を目撃できたことが幸福に思える逸品であった。

三谷かぶきと冠された本作は三谷幸喜初の歌舞伎座で初めて手掛ける公演である。原作はみなもと太郎の歴史漫画「風雲児たち」である。その原作の中から、大黒屋光太夫のロシア漂流記が、今回、取り上げられている。

本作は舞台が日本ではなく、洋装で登場するシーンもかなり多い。新作歌舞伎を観に来場した観客たちに、いい意味での裏切りを仕掛けているのは三谷幸喜の戦略であろう。宣材写真を見たときから思っていたのだが、松本白鸚がサリエリにしか見えなかったのは私だけであろうか。

プロローグにはスーツで決めた尾上松也が登場する。18世紀末、徳川家康は大名の反乱を恐れ、1本の帆柱も持つ船しか作れなくなっていたと語る。天明2年に駿河湾沖で起きた嵐の際には24隻に舟が犠牲となり、その内、大黒屋光太夫が乗る神昌丸だけが助かったのだという。尾上松也は狂言廻しのような役割で、アドリブも入れながら、舞台と観客との距離感をグッと縮め、劇場に一気に一体感が生まれていく。

伊勢を船出し江戸に向かっていた神昌丸であるが、嵐で漂流し、なかなか目的地に着くことができない。そんな神昌丸に乗り込んだ一行の丁々発止の台詞の掛け合いが面白く、ついつい劇中に入り込んでしまうことになる。宛て書きなのであろう、一人ひとりの乗組員に焦点が当てられ、役者の個性と役柄が相まって何とも楽しいのだ。

出演者は、シアターナインやPARCO歌舞伎でも三谷幸喜と組んだ、松本幸四郎や松本白鸚を始めに、三谷作品と縁のある市川猿之助や片岡愛之助など、勢いある旬の役者が居並び壮観だ。市川染五郎も印象に残る役どころで登場している。親子3代の競演も見どころだ。

ロシアのアムチトカ島に辿り着いた一行は、現地で暮らし始めるが日本に帰還する思いは捨ててはいない。何とかアムチトカ島を船出し、カムチャツカ半島に渡ることができたが、食物が不作のため困窮することになる。初めて牛肉を食べたりもする。移動中に死したりして、17人の一行は、オホーツクに着いた時には、6人になってしまっていた。が、ここでも帰国の許可が下りず、ヤクーツクを経て、イルクーツクへと向かうことになる。この間、恋の鞘当てなども織り込まれ、観客の笑いを誘っていく。

イルクーツクでは政府より宿舎を与えられる厚遇を受けるが、日本に帰る機会を探っていくことになる。そこで知り合った八嶋智人演じる博物学者ラックスマンと親しくなり、サンクトペテルブルグに行き、女帝エカテリーナに謁見し、帰還の直談判をしようということになる。八嶋智人の洒脱な存在が、歌舞伎の枠組みを少し広げているように感じていく。

乗り組み員である庄蔵を演じる市川猿之助であるが、女帝エカテリーナも重厚に華麗に演じきり作品に華やかさと重みを付与していく。国家ナンバー2ポジションであるポチョムキンを松本白鸚が担い、まさにサリエリのようなインテリジェンスと偉丈夫さを兼ね備えた存在感に圧倒させられる。

帰国の許可が下りることになるが、片岡愛之助演じる新蔵と、市川猿之助演じる庄蔵と、別れなければならない状況に、松本幸四郎演じる大黒屋光太夫は直面することになる。最後の最後で、このような苦渋の決断を迫られるとは。これはまさに世話物の涙のシーンではないか。それぞれの逡巡する思いが交錯し、思わず胸が詰まる場面が繰り広げられる。三谷幸喜の見事な筆致に唸ることになる。

日本へと帰還できたのは3人。しかし、道中、市川男女蔵演じる小市は力尽き、大黒屋光太夫と、市川染五郎演じる磯吉のみが日本を目指すことになる。そして、彼方に、富士山の姿が見えてくるのだ。この長かった道のりを振り返り、滂沱である。

意外な設定に驚かされつつも、歌舞伎の醍醐味に帰着させた三谷幸喜の秀作であると思う。驚き、笑い、そして泣ける新作歌舞伎をたっぷりと堪能することが出来た。

原作はアイスキュロスの「オレステイア」であるが、作は「1984」上演の記憶も新しいロバート・アイクである。父アガメムノンを殺害した母クリュタイメストラを殺めた罪で、オレステイアが裁判にかけられているという設定が成されているところから、物語はスタートする。予想を裏切る新鮮な幕開きだ。

オレステイアの姉であるイピゲネイアをアガメムノンが生贄として捧げたことに、クリュタイメストラは激怒したわけであるが、その罪の連鎖を検証するかのような客観的視点を、この裁判という器がより際立たせていく。

オレステイアの父への復讐を無実とするならば、クリュタイメストラの娘の復讐も正当化されることになる。この矛盾をどう解釈するのか。陪審員と共に観客にも、無罪なのか、あるいは有罪なのかの判断を突き付けてくることになる。

しかし、オレステイアの記憶は曖昧だ。母殺しのことが記憶から抹殺されているのだ。そこで、女医が彼の記憶を紐解いていくことになる。一体、どのような経緯があったのだろうか、オレステイアの記憶が再現されていくことになる。

タイトルロールを演じるのは、生田斗真。舞台で鍛え上げた演技力と、スターのオーラとが相まって、作品をグイと牽引する存在感が強烈だ。また、過去に遡り、記憶を再現するという曖昧模糊とした物語展開の軸を決して揺るがさず、オレステイアの心の奥底に堆積している心情の襞を、1枚1枚剥ぎ取るかのように繊細に表現する術が見事である。また、昇華しきった域に到達し得た者だけが獲得できる一種の透明感のようなものが、オレステイアを普遍的な存在へと導いていっている。

クリュタイメストラは神野三鈴が受け持っていく。決して悪女なのではなく、娘を思っての復讐であることが明確で、逡巡する母の思いが観客にも伝播し、憐れを誘う。アガメムノンとクリュタイメストラの愛人・アイギストスを横田栄司が演じる。偉丈夫で大胆だが繊細さも秘めた男たちを、クッキリと演じ分け作品に重厚さを付与していく。

イピゲネイアを趣里が演じ、生贄となる不運を運命と捉えているかのような前向きに生きる娘を実直に繊細に表現する。女医である松永玲子は、オレステイアの記憶を遡る旅のナビゲーターを担いつつ、物語を現代にブリッジさせ観客に届ける役回りも担い、作品に安定感を与えていく。

記憶を遡り母を殺めた事実と向き合うが、オレステイアは姉のエレクトラが殺人を実行したのだと言いだしたりもする。無罪を主張するオレステイアでるが、陪審員の判断は有罪、無罪が同票となり、裁判長の裁量が委ねられることになる。

裁判長は最後の判断をし、オレステイアは無罪となる。最後は一人が決めてしまうのかという、無罪ではあるのだが、何とも歯切れの良くない幕引きに、現代で起こっている様々な事象を思い浮かべることになる。この顛末を描いたロバート・アイクはどのような思いを込めたのだろうか。

上村聡史の手綱捌きも見事に、時間軸と心象とがクロスし行き来する複雑な戯曲がエンタテイメントとして立ち上がった。現代社会へと投げ込まれた、司ることの曖昧さと矛盾をどう甘受するのかは、観客次第だと言えるのではないだろうか。

藤田貴大作品は、女優をフューチャーした作品が多かったが、本作では男優がメインであり、これまでの作品とはまた違った印象が新鮮だ。感情を繊細に紡ぎ重ね合わせていくタッチはそのままに、マウンティングする男たちのエッジの効いたダイナミックさが加わりヒリヒリとした感覚が醸成される。

男たちの言動に起因するのは、彼らが内に抱えているそれぞれの背景だ。どのような環境でどのような思いを抱いて育ってきたかというパーソナルな領域が、今の生き様に大きな影を落としていく。

男たちは他人と自分とが対峙した時、自分の立ち位置を気にしてしまう。そして、相手を凌駕したいという思いに駆られていく。そのためにバトルする。男の直情的な側面を藤田貴大は真正面から捉え筆致していく。

登場する男たちは20歳代が中心だ。所謂、若者というジャンルで括られる世代かもしれないが、その若者たちに内在する葛藤や逡巡する思いも暴発する。社会の中に仕掛けられた構造の中でしか生きられない男たちの鬱屈とした気持ちも活写される。

物語は、所謂、表の世界とアンダーグラウンドの世界の境界線に掛かった綱を伝っていくが如く展開していく。危ういボーダーを行き来する男たちにとってバイオレンスは付き物だ。疑闘師を招いての殺陣もリアルで、藤田貴大のこれまで観たことのないポテンシャルを感じることになる。

地明かりの際には白いコスチュームに見えるが、明かりが消えると布地に描かれた蛍光色の模様が浮き出る、森永邦彦率いるANREALAGEの衣装も光と影に彩られた物語と上手く呼応し、視覚的にも面白い効果を発していく。

白い箱や板を組み合わせ、積み上げて、シーンを創っていくの美術は、従来の藤田貴大演出であるが、毎回、この転換数の多さには驚かせられることなる。しかし、目くるめくようなスピーディーさでシーンが転換されていくため、観ていて非常に刺激的だ。

役者もイキの良い若者が集うことになった。物語の中心に立つ柳楽優弥の存在感が揺るがないため、物語のどっしりとした安定感が生まれていく。宮沢氷魚の繊細さ、井之脇海の軽妙さの他、内田健司が抱え持つマグマのような熱情が作品に命を吹き込んでいく。

藤田貴大が新たな可能性を広げた男優中心の作品は現代への警鐘でもあった。既存の社会規範の中で喘いで生きる以外の選択肢はあるのであろうか。胸にズシリと重りを植え付けられたような強烈なインパクトがあった。藤田貴大これから生み出していくであろう作品にも大いに期待したい。

ロンドンを拠点に活動する演出家、サイモン・ゴドウィンが「ハムレット」にどう取り組むのかが最大の関心事であった。イキの良い旬の役者も揃っており、観る前から期待感が高まっていく。

開演すると開場時にははっきりと見えなかった舞台美術が見えてくる。欧風のシンプルな建築の造形で、色味も黒や落ち着いたグリーン系の彩色であり、寒々とした空気感がステージ上を覆っている。開場時から聞こえていた微かな風の音も、この寒村のような雰囲気を増幅しているのかもしれない。

物語が始まると、俳優陣が日常会話のように台詞を発していくのが特徴的であることに気付くことになる。台詞を謳い上げるというようなことはなく、淡々と会話が成されていく。静かなシェイクスピア演劇である。

タイトル・ロールを演じる岡田将生も、最初は静かな佇まいで悩める王子の姿を晒していくが、起伏の激しい感情表現が次第にヒートアップしていく。その様が静謐な環境の中において、グッとハムレットの存在が浮かび上がらせることに貢献している。時には空回りしているかのような在り方も、彼の哀しみを増幅させるのに大いに役立っている。明晰な台詞廻しも心地良い。

オフェーリアの黒木華が絶妙だ。育ちの良い可愛がられた育ったお嬢様役を自らに引き寄せ、ナチュラルなオフェーリアを造形していく。演出意図にも合致しているのではないか。しかし、あの狂乱してしまうあのシーン。凄い。それまでのパーソナリティと決して乖離することなく、精神が脆くも崩れ堕ちていく憐れを体現し、思わず涙を誘われることになる。

ガートルートを担う松雪泰子の艶やかさが作品にキリリとした色香を放っている。しかし、前王の弟の妻に納まっているという後ろめたさのようなものは希薄で、自らが選択した人生であることに堂々としている風に見える。この辺の解釈が面白い。これは福井貴一演じるクローディアスにも通じるパーソナリティである。自らの生き方は自らによって決めていくのだ。運命というものに翻弄されきることのない、個人主義を標榜しているのが英国の演出家の資質なのであろうか。

地に贖い、天に台詞を謳い上げていくなどのシェイクスピア作品とは一線を画す、非常に現代的なタッチで描かれた「ハムレット」だと思う。ここで行われていることは、決して特殊なことではないのだ。ヨーロッパの香りを残しつつ、現代の観客をシェイクスピアの世界に誘う、新たな挑戦を目の当たりにして名戯曲の懐深さを可能性に感じ入ることになった。

トム・ストッパードがアンドレ・プレヴィンと組んでこういう作品を作っていたんですね。1976年初演。オペラやミュージカルではなく、ストレートプレイとオーケストラとがガッツリと組まれた作品に遭遇したのは三谷幸喜の「オケピ」以来かもしれない。

同作品の創作当時は、ベルリンの壁が厳然と存在する、東西冷戦の緊張感がある時代であった。「俳優とオーケストラのための戯曲」とサブタイトルにあるが、その楽しみに満ちた表記とは裏腹に、舞台はソビエトと思われる独裁国家の精神病院で展開される。

精神病院とはいっても精神を病んでいる者だけが入所しているとは限らない。堤真一演じるアレクサンドル・イワノフは政治犯として同病院に収容されている。「正気な者が精神病院に入れられている」と公表し、自らが囚われてしまったようなのだ。そこで、橋本良亮演じるアレクサンドル・イワノフという同じ名前を持つ青年と出会うことになる。彼は「自分はオーケストラを連れている」と主張し、囚われている身である。しかし、観客にはアクティング・エリアの背景に本物のオーケストラの楽員が見えている。面白い設定だ。

政治犯は自らの主張を貫く行為としてハンストを続けている。オーケストラの囚われ人は、オーケストラが奏でる音楽が気に入らないと癇癪を起す。小手伸也演じる体制側の人間は、「思考し自分の意見をもつこと」は病気だと断じ、「オーケストラ」がいるという主張を排斥していく。まさに不協和音状態であるかのような中、何が真実で、何が真実ではないかという問いを同作は観客に叩き付けてくる。観る者のモラルが問われていく。

この作品が書かれた当時と、現在の世界情勢は勿論違うのだが、この作品が提示する問題は、現代にも通じる深淵な問いかけであると感じ入る。SNSなど個人が情報を発信するメディアが拡散されている今、、より真実が分かり難くくなってきているような気がする。40余年を経て、なおも変わらぬ問題を連綿と引き摺っていることが露見し愕然とする。

ハンストを続ける政治犯はシム・ウンギョン演じるサーシャという息子がいる。体制側から享受する物事をそのまま信じる斉藤由貴演じる教師に厳しく律せられ、父の存在との間で葛藤する。サーシャの存在が同作と観客とをブリッジする役割を担っている気がする。物事を一方的に断じ信じ込ませる政治は正しいのか? いや、正しいはずはない。

政治犯のハンストを止めさせる目的もあり、サーシャは精神病院に送りになってしまう。
体制に逆らわぬよう懇願するサーシャ。ハンストを止めない政治犯。

オーケストラのみならず、ダンスなどの身体表現を駆使し、物語をストレートプレイという枠から拡げ、エンタテイメントとして成立させた演出のウィル・タケットのセンスがクールである。様々な要素を上手く整理し、分かりやすく観客に提示してくれる。

結論は思わぬところからやってくる。権力者である外山誠二演じる大佐が精神病院を訪問し、ある結論を言い放つのだ。世界は瓦解と構築の連続なのかもしれない。視点を変えれば白も黒になるし、時代の趨勢にも大きく左右される。世界は複雑だ。しかし、自分は信念を曲げることなく正しい道を切り拓いていきたい。疑問はひとまず横に置き、長いものに巻かれる「良い子はみんなご褒美をもらえる」世界を創ってはいけないのだと意を強くさせる作品であった。

2000年初演のヤスミナ・レザ本作品は1シチュエーションで3ヴァージョンの物語が展開するという面白い構成である。出演者は4人。大竹しのぶ、稲垣吾郎 、ともさかりえ、段田安則という演劇の猛者たち。期待感は観る前より高まっていく。初日ということもあってか、劇場内の雰囲気も高揚しているのが分かる。

シアターコクーンを改造したステージは、アクティングエリアの四方が観客席に囲まれているという造りになっている。演じる方はかなり緊張感を強いられる設定なのではないかと思うが、ベテランにとってはそれも演じる上でのハードルの一つに過ぎないのかもしれない。

時は夜半。天体物理学者のアンリとその妻ソニアの家が物語の舞台となる。アンリは研究発表の論文を、自らの仕事の準備をしているソニアに見て貰おうとしている。アンリを稲垣吾郎、ソニアをともさかりえが演じている。階下にある子ども部屋からは、未だに眠らない子どもの声がしている。そんな時、呼び鈴が鳴り響く。

アンリの上司であるユベールとその妻イネスが夕食会に訪ねてきたのだ。なかなか成果を上げられないでいるアンリにとっては、この場で夫妻をもてなすことはは大事なプレゼンテーションの場にもなるのだ。ユベールを段田安則、イネスを大竹しのぶが演じている。さて、幕は切って降ろされた。

アンリが現在作作成中の論文をユベールに認めてもらい発表したいというのが物語の端緒であるが、会話が進んでいく内に、様々な事項に話が飛び火し、慌てふためき、繕いながらも、本音を吐露し始めるようになっていく。話はそれぞれの夫婦間のことにまで及び、暴走を止める者がいないこの状況においては、もはや抑えきれない感情の歯止めがきかなくなってくる。

当事者としてはたまったものではないが、それを観客として観るのは何とも可笑しいのだ。他人が右往左往する様をこっそり覗いている感覚を、観客が楽しんでくれることをヤスミナ・レザは承知で筆致していく。

上司夫妻が来訪し、幾つもの悶着があって帰宅するまでというのが基本ラインだが、当然、3つの話は、全く違う展開を示していく。3つのヴァージョンがそれぞれ合わせ鏡のようにもなっていて、結果、人間が内包する多面性の可能性を暴き出していく展開も見事である。

アンサンブルの芝居だと心得ているため、4人のベテラン俳優は自分だけが目立つことなく、上手い押し引きをするその丁々発止の掛け合いが絶妙だ。四方が観客に晒されるステージにおいて、俳優が其処にいる在り方を含め、相手に対するはっきりとした物言い、逡巡する秘めた思いなど、硬軟取り混ぜたテキストをバランスのよい手綱捌きをしたケラの演出も、繊細さと大胆さを備え緩急自在で見事だと思う。

大人の鑑賞に堪え得る上質な会話劇を堪能することができた。こういう演目を、ふらりと観に行けるような劇場環境インフラがあると日本の夜はますます楽しくなるなという思いを抱いた。

演劇の新作は実際に観てみるまで、内容が分からない場合が多い。本作は、岩松了作品に、森田剛が主演をするという情報だけで、チケットを購入することになる。チラシにシノプシスが掲載されている場合もあるが、実際にチラシを手に取るのは、チケットの先行販売の後になる場合が多い。やはり演劇は、趣向性の高いジャンルなのだと感じ入る。

作・演出、主演者、作品タイトルからイメージをしていた内容とは違ったのはサプライズだ。どうやら内戦中である日本の、反政府軍のアジトとなる人里離れた廃校が作品の舞台となる。

戦況は反政府軍にとっては厳しく、今や廃校に残っているのは7人までに減っていた。また、地下牢には捕虜もいるようだ。緊張感が漂う中にも、緩やかな空気感も流れており、残っている者たちは臨戦態勢というよりは、過ぎ行く日々を流れるままに過ごしているかのようにも思える。

いざという時のために保険に入っておいた方がいいと薦める保険外交員の女性や、立て籠もる息子を心配する母親などの闖入者も現れる。人里離れたアジトによくやってきたなと思うと同時に、何か来訪の意図があるのではないかという疑心案義の思いも頭をもたげてくる。

外の様子が分からない立て籠もる者たちの意識の中にも、少しづつ綻びが生じ始める。恋愛関係や過去の人間関係なども浮き彫りにさせていきながら、誰が誰を本当に信じて慕っているのか否か、表裏の顔がそこはかとなく染み出してくることになる。

世界で起こっていることを人づてでしか知るすべがなく、小集団の中だけで完結しているステージは、今、私たちが生きる現実世界とオーバーラップして見えてくるようだ。

森田剛の丁寧な感情表現が、作品全体に繊細さを拡散させていく。一見、ぶっきらぼうのようにも見えるのだが、氏はどの作品を観ても、実にしなやかで優しい繊細さを放っている。物語の概略だけをなぞることなく、俳優陣の皆が、岩松了の世界に仕込まれた感情を掬い取り叩き付け合っていく。森田剛はその中心に屹立し、作品を牽引していく。

「空ばかりみていた」というタイトルが実に象徴的だ。外に広がる世界、希求とも憧憬とも諦めとも思える感情が綯い交ぜになっているような気がする。此の地にしっかりと足を踏ん張って、何が起ころうとも生きていくのだという意思にようにも感じる。

簡単に物事は解決しない、理由は一つではない、人間感情は矛盾に満ち溢れているというはっきりする訳のない世の中を可視化し、安全地帯に安住しようとする観客をアジテートする腹に食い込むような作品であった。

2013年「唐版 滝の白糸」に窪田正孝がキャスティングされた時は、あまり存じあげなかったのだが、7年経った今、若手俳優の中でもイキの良い存在となっているのは蜷川幸雄に先見の明があったということなのだろうか。

2016年に上演された「ビニールの城」は、蜷川幸雄の遺志を受け継いだ金守珍が演出を担当し、見事にその大役を果たすことになったが、その時から3年を経て、再度、シアターコクーンにて唐十郎作品を上演するのは、何とも感慨深いものがある。窪田正孝は「唐版 滝の白糸」以来の舞台出演になるのだという。

演目は唐十郎戯曲の傑作と言われている「唐版 風の又三郎」。1974年に状況劇場公演で初演された作品である。代々木月光町にふらりと迷い込んだ窪田正孝演じる織部の前に、柚希礼音演じる少年が舞い降りてくる。織部は少年を自らが憧憬する「風の又三郎」に出会えたと嬉々とする。

冒頭より外連味ある様々な仕掛けが施されていて、グッと舞台に前のめりになっていく。蜷川幸雄亡き後、視覚的にビックリとさせられる趣向を凝らす演出家が少なくなってしまったので、この金守珍の手綱捌きには驚かせられるし、何とも楽しいワクワク感に満ちたエンタテイメントとしても成立させている。ある種、黄泉の国における戯言のような其処此処の地平が曖昧な物語が、力強く立ち上がっていく。

美術と衣装を宇野亜喜良が務めているのも嬉しい限り。唐十郎の血脈を戯曲の奥底から吸い上げ、作品として立ち上げていくのに大いに貢献していると思う。アングラの色香をほのかに残しながらも、氏独自のシュールな感覚もアクセントとして配されているのが特徴だ。

舞台経験は少ないというが、窪田正孝がまるで詩のような唐十郎の台詞に血肉を吹き込み活き活きと作品の中を泳ぎ回る様には、観る者もついついエンパワーされてしまう。台詞廻しも明晰で、言葉を観客にダイレクトに響かせながらも、鏡の中に入ってしまったオルフェのごとく哀惜を感じさせる重層的な奥深さで、織部という人間が抱く真実の姿を浮き彫りにさせていく。

柚希礼音は織部に又三郎と慕われながらも、宇都宮から流れてきたエリカという役どころで、空に消えた恋人の面影を追っているようなのだ。回りの状況により、どのような人間であるのかが一瞬にして変化する難役であるが、宝塚で培ったスキルのベースが大いに活きていると思う。一人の女の中にある様々な側面が時に優しく、時に力強く染み出て、見惚れ、そして絆されていく気がする。

石井愃一、金守珍、六平直政という、唐戯曲も蜷川演出も経験してきた面々が、嬉々として作品に猥雑さを付加し、山崎銀之丞や風間杜夫といったベテランも脇からしっかりと物語を支えている。

オーラスのダイナミックな演出もワクワクとしてしまう。織部とエリカは一体これから何処に向かおうとしているのか。それは、ある種の希望にも似た、幸福を希求する旅の始まりなのかもしれない。唐戯曲を壮大なエンタテイメントとして成立させることができた幸福な作品に仕上がった。

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