劇評102 

凛とした宮沢りえが絶品! 強烈なメッセージに胸が掻き毟られる。傑作。

「人形の家」


2008年9月6日(土)雨
シアターコクーン 午後6時30分開演

作:ヘンリック・イプセン
演出:デヴィッド・ルヴォー
英訳版:フランク・マクギネス
出演:宮沢りえ、堤真一、山崎一、千葉哲也、神野三鈴、松浦佐知子、明星真由美
 
 
場 : コクーンの客席を改造。1階席前方の客席部分を全て取り払い、その中央に真四角のリングのような舞台を設えてある。1階席後方の席はそのまま。また、通常はステージとなるところにも雛壇状の客席を作り、舞台をグルリと取り囲むように観客が座ることとなる。開場中はその四角い舞台には、天井から紗のカーテンが吊るされている。開演10分程前になると、子役3人が紗のカーテンが掛かったままの舞台上で、ボール遊びなどを始める。時折、効果音で金属の擦れるような音がする。これから展開される舞台を予感させるような不穏さが、少しずつ醸し出されていく。
人 : 男女比で言うと女性が6割7割くらいであろうか。スターが出る芝居にしては男性比率が高い気がする。しかも、年齢層が結構高い。40代、50代が中心ではないだろうか。また、女性はかなり品のいいお洒落をされている方が多い。宮沢りえ、堤真一ファンもいるのであろうが、t.p.t.時代からのデヴィッド・ルヴォーのファンも多いのではないか。開場中の客席をデヴィッド・ルヴォーが何度か横切るのが見える。アッカーマン作品に良く出演されている女優・宮光真理子さんのお姿も客席でお見かけした。


 圧巻である。終演後も、愕然としたまま身体がゾクゾクし続けていた。100年の時を経て、イプセンの「人形の家」は、2008年の渋谷で、見事に甦った。男と女の関係性や在り方というものを、表層的な出来事だけを追うことなく、戯曲の裏側に散りばめられた人間の本質を掴み掘り起こすことで、現代の観客に直球で問題提起を叩き突けてくる。古色蒼然とした、女性の自立を描いた名作、というレッテルはここで書き直され、新たな1ページが加わることになった。



  通して演じると上演時間は2時間30分を切るかもしれない。しかし、敢えて休憩を2度挟み、戯曲に忠実に3幕ものとして上演することで、くっきりとテーマが浮き彫りになってくる。ノラの心情が核となって物語は推移していくのだが、1幕はこれまでの生活をあくまでも変えずに守ろうとする思いが揺ぎ無く、2幕では、あることで追い詰められていくノラの思いは千路に乱れ混沌としていく。そして、3幕、隠し通していたことが露見すると一気に自分の本当の思いを吐露し、自分の人生に決着を着けることになる。
 


  デヴィッド・ルヴォーは、劇中で起こる出来事や登場人物の言動によって変化する思いを、台詞を頼りに徹底的に紐解いていく。この言葉はどういう思いで言ったのか、誰に向けて語っているのか、どの行動の起因になっていくのか。まるでその時の神経の状態を検証し、ピンセットでその1本1本をつまみ出すがごとく、繊細に繋ぎ合わせていくのだ。故に、どんな小さな一言も意味を持ってくる。台詞が勢いで流されたり、謳い上げることで現実から乖離したりすることは決してない。全てが緊密に連鎖しているため、濃密な緊張感が産み出されることになる。
 


 特筆すべきは、宮沢りえ、である。1幕はこれまで我々が知っている可愛い宮沢りえであり、良き妻であり母であるノラをナチュラルに演じていく。2幕から様相は変化していく。特に堤真一演じる夫ヘルメルの目を逸らすためパーティーで踊る予定のタランチュラのダンスを舞い踊るシーンは、狂気さえ孕んでいて押さえつけられている気持ちがマグマのように噴出しかかってくる。そして3幕。シンプルに向かい合わせに置かれた椅子が2脚。向かい合うノラとヘルメル。既に気持ちを決めたノラが語る台詞のひとことひとことがグサグサと胸に突き刺さる。自分より名誉や世間体を優先した夫に完全に見切りを着けていく。そこには、これまでの庇護された従順な女はいない。分かることと分からないことを十分承知した上で、なおかつ自分の道を選ぼうとする決断を下した迷いのない女が存在していた。バッサリと夫の考えを斬り捨て自分の道を切り拓こうとする姿に惚れ惚れする。



 私ははしゃいでいただけ、一度も幸せだったことはなかった、あなたは私に子供を育てる資格はないと言ったので優れた方に子供は育ててもらえばいい。そして、奇跡を待っていたのだ、と。それは、全てが露見した時にあなたは、全て自分の責任だ、ノラは悩む必要などないと言ってくれるのではないかと思っていた。しかし、そうは、言ってくれなかったのだと、凛として言い放つ。枚挙にいとまのない名台詞のオンパレードなのであるが、大人の男女であれば、誰しもがこれまで一度は直面したことがある感情のすれ違いを描き絶品である。発表当時は、自立の決断はスキャンダルな出来事だったのであろう。しかし、ある意味、普遍的とも言える男女の感情のもつれをフューチャーしたことが、現在でも、共感を得ることを勝ち得た最大の要因ではないだろうか。


  クロクスタとクリスティーネの関係性も合わせ鏡のようでいて面白い。時を経て逡巡した果てに再度結ばれるこのふたりは、お互いの気持ちをさらけ出すことが初めてであったノラとヘルメルのこれからを示す予兆のようにも感じられる。また、ドクター・ランクの存在により、死、という顛末も予感させられる。
 


  ノラは人形のように生きることを強いられてきたし、自分でもそう思って振舞ってきた。しかし、既成概念に囚われそこから抜け出すことが出来ないのは、本当は、男の方ではないのかという、強烈なメッセージを最後に感じとった。空っぽだ、と囁き立ちつくすヘルメルの思いを断ち切るがごとくストンと暗転になるラストに、2008年の迷える子羊の姿を見た気がした。男だって、鋳型にはめ込まれた、人形、なのだ。傑作である。